2019年8月18日聖書教育の学び(創世記42章〜44章)

投稿日時 2019-08-13 13:18:51 | カテゴリ: みんなの証

2019年8月18日聖書教育の学び(創世記42章〜44章)

1.兄弟たちがエジプトに下る

・ヨセフの預言した飢饉は世界各地に波及していき、多くの国から人々が穀物を買うためにエジプトを目指した。カナン地方でも食料が不足し、ヤコブは子供たちにエジプトに行って穀物を購入してくるように命じた。
―創世記42:1-3「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、『どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ』と言い、更に、『聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか』と言った。そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。」
・しかしベニヤミンは同行させなかった。ヨセフがいない今、ベニヤミンだけが愛妻ラケルの残した、ただ一人の子であった。エジプトに下った兄弟たちはヨセフが宰相になったとは知らずに彼に拝謁する。ヨセフが見た夢が、このような形で実現した。
―創世記37:5-7「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。『聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました』」。
・ヨセフはすぐに兄弟たちがわかったが、彼らに犯した罪を認めさせるために無理難題を押し付ける。
―創世記42:9-16「ヨセフは彼らに言った。『お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。』彼らは答えた。『いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。私どもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません・・・僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。』すると、ヨセフは言った。『・・・お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしその通りでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ』」。
・次にヨセフは兄弟たちに新しい条件を提示する。それは兄弟たちが罪を認めるかどうかの試みだ。
―創世記42:19-20「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない」。
・ここにいたって兄弟たちも過去に犯した罪を認めて悔いる。苦境が人間を悔悟に導いている。
―創世記42:21「互いに言った。『ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めた時、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった』」。
・これを聞いてヨセフは隠れて泣いた。しかし、あえて試みを続ける。ヨセフが行った行為は報復ではない。報復は神の業であり、ヨセフの行為は兄弟たちを悔改めに導くために試みの業を続ける。
―創世記42:24「ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。それからまた戻って来て、話をしたうえでシメオンを選び出し、彼らの見ている前で縛り上げた」。

2.カナンに帰って

・兄弟たちは次男シメオンを残して、カナンに帰った。彼等は父ヤコブに全てを報告した。ヤコブは末息子を連れてエジプトに戻らなければシメオンは解放されないことを聞き、子供たちを呪う。
―創世記42:36「父ヤコブは息子たちに言った。『お前たちは、私から次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんな私を苦しめることばかりだ』」。
・そしてベニヤミンを連れてエジプトに戻ることを拒絶する。
―創世記42:38「しかし、ヤコブは言った。『いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ』」。
・人はただ目に見える現実を見つめて嘆く。その出来事が祝福の一過程であることは後にならなければわからない。苦難は祝福への途上なのだ。それを知る者だけが苦難を耐えることが出来る。
―創世記45:26-28「(兄弟たちは)直ちに(父ヤコブ)に報告した。『ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。』父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。彼らはヨセフが話した通りのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。イスラエルは言った。『よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。私は行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい』」。
・「神ともにいませば」全ては祝福される。たとえ、牢獄にあってもそうだ。創世記はそれを語り続けている。
―創世記39:23「獄屋番は彼の手に委ねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」。

3.物語の意味するもの〜罪の赦しと贖罪をどう考えるか

・兄弟たちはヨセフがエジプトの宰相になったことを知らない。そのために自分たちに降りかかる苦難が、20年前に犯した罪(弟ヨセフを奴隷としてエジプトに売ったこと)の報いと考え始めている。旧約聖書では罪の赦しの前提は悔い改めであり、悔い改めは罪の認識から生まれるとする。そして悔い改めた者は赦される。
−サムエル記下12:7-13「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。あなたに油を注いでイスラエルの王としたのは私である・・・なぜ主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ』・・・ダビデはナタンに言った。『私は主に罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。
・しかし罪は赦されても、その代価は支払わなければいけない。ダビデとバテシバの間に生まれた子は死ぬ。
−サムエル記下12:14-18「『このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。』・・・主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした・・・七日目にその子は死んだ」。
・旧約の伝統に立つ初代教会は、イエスの死を贖罪、罪を贖うための代償死、あるいは身代わりの死と理解した。そしてイエスの死により神との和解が成立して、罪ある人が救われる道が開けたと語る。これが贖罪論である。
−1コリント15:3「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと(です)」。
−ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。
・近年この贖罪論に対する批判が高まっている。贖罪論が「犠牲の死」を賛美する論理になっているとの批判だ。高橋哲哉はキリスト教の贖罪論の中に「靖国」や「沖縄」、「福島」等の、犠牲を讃えることにより体制を維持しようとする「犠牲のシステム」の根源があると繰り返し語る(高橋哲哉「犠牲のシステム、福島・沖縄」、「3.11以後とキリスト教」他)。
-高橋哲哉・犠牲の論理とキリスト教への問い(2015/5関西学院大学での講演から)「犠牲の論理がキリスト教の歴史の中にあり、死を神の目的達成のために必要なものであったとすることにより、原爆投下という決断や、戦争終結を遅らせた日本政府の責任が曖昧にされる。イエスの死を人間の贖罪のために必要なものであったとして特権化するキリスト教の贖罪論は、「死をもってしか贖うことのできない罪がある」という思想を前提としているとし、「これは犠牲の論理と同じではないか」と述べ、「十字架はイエスの処刑であったということの意味を考えるべきだ」「贖罪論なきキリスト教は可能なのか」という問いを会場に投げ掛けた」。
・「犠牲の論理」に対する応答として、西南学院神学部・松見俊は記す(西南学院神学部・神学論集、2013/3)。
-松見俊・「犠牲のシステムとキリスト教贖罪論」から「この批判は、イエスはただ贖罪のために生まれてきた(死ぬために生まれてきた)というようなイエス・キリストへの信従,貧しい者・社会的に周辺化された人たちとの共感共苦という倫理性を欠いた贖罪信仰は、「安価な恵み」であり、彼岸的世界に安易に逃げ込むような二元論的信仰、「天国と地獄」、救われている人と救われていない人との安易な二分法批判として,組織神学的,実践神学的に意味がある。伝統的な贖罪・和解論が持つ神話的世界観は非神話化されるべきであるが、神話的表象で表現されてきたリアリティそのもの(罪の根源性と人間による罪の克服不能性、それを打ち破る救い)は失われるべきではない。イエス・キリストがいのちがけで私たちを愛して下さり、私たちの「ために」死んで下さったということが契機・動機づけにならないと,イエス・キリストに従い、他者と「共に」生きる倫理的行為が成立しないのではないだろうか」。

2016年6月2日祈祷会(創世記43章、再びエジプトへ)

1.ヤコブの子供たち、再度エジプトへ

・飢饉は激しくなり、買い求めた食料もなくなった。ヤコブの息子たちは再度エジプトに行くことになった。
―創世記43:1-2「この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。』」
・しかし、エジプトに行くためには末子のベニヤミンを連れて行かなければならない。ユダは渋る父に「ベニヤミンを命にかけて守るから一緒に行かせて欲しい」との説得を始める。
―創世記43:3-9「しかし、ユダは答えた。『あの人は、弟が一緒でないかぎり、私の顔を見ることは許さぬと、厳しく我々に言い渡したのです。もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。しかし、一緒に行かせてくださらないのなら、行くわけにはいきません。弟が一緒でないかぎり、私の顔を見ることは許さぬと、あの人が我々に言ったのですから。』・・・ユダは、父イスラエルに言った。『あの子をぜひ私と一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことは私が保障します。その責任を私に負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、私があなたに対して生涯その罪を負い続けます。』」
・ここに至ってヤコブも折れる。どうしようもない状況に追い込まれた時、人は始めて「全てを神の守りに委ねる」ことを決意する。そのために人に試みが与えられる。
―創世記43:11-14「すると、父イスラエルは息子たちに言った。『どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい。この土地の名産の品を袋に入れて、その人への贈り物として持って行くのだ。乳香と蜜を少し、樹脂と没薬、ピスタチオやアーモンドの実。それから、銀を二倍用意して行きなさい。袋の口に戻されていた銀も持って行ってお返しするのだ。たぶん何かの間違いだったのだろうから。では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。この私がどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。』」
・今まで父の名はヤコブと呼ばれていたが、この43章になって「イスラエル」という名が用いられる。ヤコブは「押しのける者」、イスラエルは「神に勝たれる者」である。ヤコブは生来の名を示し、イスラエルは神による彼の名を示す。全てを捨てて神に委ねようと決意した時、彼の名はヤコブからイスラエルになることを創世記記者はここで示している。

2.エジプトにて

・兄弟たちはエジプトに行き、ヨセフと再会する
―創世記43:15-16「息子たちは贈り物と二倍の銀を用意すると、ベニヤミンを連れて、早速エジプトへ下って行った。さて、一行がヨセフの前に進み出ると、ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、自分の家を任せている執事に言った。『この人たちを家へお連れしなさい。それから、家畜を屠って料理を調えなさい。昼の食事をこの人たちと一緒にするから。』」
・ヨセフは兄弟たちを食事に招き、弟ベニヤミンと20年ぶりに会い、感極まって密かに泣く。
—創世記43:26-30「ヨセフが帰宅すると、一同は屋敷に持って来た贈り物を差し出して、地にひれ伏してヨセフを拝した。 ヨセフは一同の安否を尋ねた後、言った。『前に話していた、年をとった父上は元気か。まだ生きておられるか。』『あなたさまの僕である父は元気で、まだ生きております』と彼らは答え、ひざまずいて、ヨセフを拝した。ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、『前に話していた末の弟はこれか』と尋ね、『私の子よ。神の恵みがお前にあるように』と言うと、ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた」。
・捕えられていたシメオンも解放され、兄弟たちはヨセフと食卓につく。兄弟たちは席順が年齢順になっているのを見て不思議に思う。しかしまだ兄弟の和解はなされない。和解のためには兄弟たちの悔改めが必要だった。
-創世記43:33-34「兄弟たちは、いちばん上の兄から末の弟まで、ヨセフに向かって年齢順に座らされたので、驚いて互いに顔を見合わせた。そして、料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ」。

3.ユダの悔い改めと赦し

・ヨセフは兄弟たちをカナンに戻す時、ベニヤミンの袋に銀の杯を忍ばせ、兄弟たちが戻ってくるように企んだ。
―創世記44:1-2「ヨセフは執事に命じた。『あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。』執事はヨセフが命じたとおりにした。」
・ユダはこの出来事を、自分たちが前にヨセフに罪を犯したことの神の審きとして受け入れる。
―創世記44:16「ユダが答えた。『御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。』」。
・兄弟たちが、かつてヨセフを捨てたように、今回もベニヤミンを捨てて自分たちの安全を図ろうとするかを見るための試みであった。しかしユダは「ベニヤミンの代わりに自分を奴隷にして欲しい」と弟の助命を訴える。
―創世記44:30-34「今私が、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです・・・何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」
・ユダはかってヨセフを恨んでエジプトに売った張本人であった。
-創世記37:26-27「ユダは兄弟たちに言った。『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。』兄弟たちは、これを聞き入れた」。
・そのユダが今弟ベニヤミンの助命のために自分の命を捨てようとする。ヨセフは兄弟たちが本心で罪を悔改め、新しくされたことを知り、兄弟たちに自分の身を打ち明ける。
―創世記45:1-3「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした・・・ヨセフは、兄弟たちに言った。『私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった」。
・人間は心の底に人に言えない、人に知られたくない一隅を持っている。悔改めとはその罪を告白し、赦しをこうことだ。兄弟たちはヨセフを奴隷としてエジプトに売ったことを父にさえ秘密にしていた。
―創世記44:27-28「あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、私の妻は二人の息子を産んだ。ところが、そのうちの一人は私のところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。』」
・罪に時効はない。人に言えない罪を神の前に公にすることが悔改めの第一歩である。
―創世記44:16「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。」
・悔改めた時、人は変えられる。自分のために兄弟を売ったユダが、兄弟のために自分を捨てるものにされた。創世記43章、44章はユダの回心記録でもある。
―第一ヨハネ3:16-17「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」

2016年6月9日祈祷会(創世記44章、兄弟たちの悔改め)

1.兄弟たちの悔改め

・兄弟たちを歓待した後、ヨセフはベニヤミンの袋に密かに銀の杯を入れ、ベニヤミンを捕えて残そうとした。兄弟たちがヨセフを捨てたようにベニヤミンも捨てるかどうか試すためである。
—創世記44:1-2「ヨセフは執事に命じた。『あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。』執事はヨセフが命じたとおりにした」。
・兄弟たちがカナンに帰り始めた時、ヨセフは執事たちに、彼らに追いついて盗んだ銀の杯を返すように命じた。銀の杯は占いに用いる、祭儀用の品を盗むことは重罪で死罪に当たる。兄弟たちもそれを知っており、もし見つかれば死罪になっても良いと答える。
—創世記44:7-9「すると、彼らは言った。『御主人様、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。僕どもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。袋の口で見つけた銀でさえ、私どもはカナンの地から持ち帰って、御主人様にお返ししたではありませんか。その私どもがどうして、あなたの御主君のお屋敷から銀や金を盗んだりするでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかの私どもも皆、御主人様の奴隷になります。」
・銀の杯はベニヤミンの袋から見つかった。兄弟たちはそれが冤罪であると知っていたが、受け入れる。自分たちがかつて弟ヨセフを奴隷として売り払った、その罪の記憶が兄弟たちを追いつめている。
—創世記44:11-13「彼らは急いで自分の袋を地面に降ろし、めいめいで袋を開けた。執事が年上の者から念入りに調べ始め、いちばん最後に年下の者になったとき、ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった。彼らは衣を引き裂き、めいめい自分のろばに荷を積むと、町へ引き返した」。
・ヨセフは彼らの忘恩の行為を叱るが、ユダは抗弁することなく、冤罪を神の下された罰として受け入れる。彼は言う「神が僕どもの罪を暴かれたのです」。彼は神の前における深い罪の自覚へと導かれていた。
—創世記44:14-16「ユダと兄弟たちがヨセフの屋敷に入って行くと、ヨセフはまだそこにいた。一同は彼の前で地にひれ伏した。『お前たちのしたこの仕業は何事か。私のような者は占い当てることを知らないのか』とヨセフが言うと、ユダが答えた。『御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。』」
・森有正は、「人間は心の奥底に秘めた最も痛いところで神と出会う」と語る。ユダもかつて兄弟ヨセフを捨てたという心の痛みの中で神と出会っている。
—森有正・土の器に「人間という者は、どうしても人に知らせることのできない、心の一隅を持っている。醜い考えがあるし、秘密の考えがある。またひそかな欲望があるし、恥があるし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅があり・・・人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、また恥じている、そこでしか人間は神に会うことはできない」。

2.ユダの嘆願

・ヨセフは杯を盗んだベニヤミンだけを残して帰ってもよいと兄弟たちに告げる。前に弟ヨセフを妬んで売ったように、今回も弟ベニヤミンを犠牲にして兄弟たちが身の安全を図ろうとするかの試みであった。
―創世記44:17「ヨセフは言った。『そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、私の奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。』」
・それに対して兄弟のユダは弟を残して帰れば父ヤコブは悲しみのあまり死ぬ、それは出来ないと抗弁する。かつてユダはヨセフが父の寵愛を受けることを妬んで、「さあ、我々は彼をイシマエル人に売ろう」と提案している(37:27)。その彼が今はベニヤミンのため、自分を奴隷にしてくれと語る。
―創世記44:18-31「ユダはヨセフの前に進み出て言った。『ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください・・・御主君は僕どもに向かって、父や兄弟がいるのかとお尋ねになりましたが、そのとき、御主君に、年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっておりますと申し上げました・・・今私が、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです』」。
・かつてヨセフを奴隷として売ることを主唱したユダが、今は弟のために自己を犠牲にして助命を申し出る。ユダは今は父の悲しみを自分の悲しみとする者に変えられている。
―創世記44:32-34「『実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、私が父に対して生涯その罪を負い続けますと言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。』」
・兄弟を悔改めに導くためには試練が必要であった。ヨセフはそのために兄弟たちを試した。しかし今ユダの切々たる告白を聞き、ヨセフは心動かされて、「自分が弟のヨセフである」ことを明らかにする。
―創世記45:1-2「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった」。
・ここにあるのはユダの再生物語だ。ドストエフスキー「罪と罰」に、もう一つ印象的な再生物語がある貧しい学生のラスコリニコフは、学費を工面するために金貸しの老婆を殺して金を奪うが、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ない。その後、彼は娼婦ソーニャと出会い、彼女の部屋で、ヨハネ福音書「ラザロの復活」の箇所を読んでもらい、その言葉を聞いて彼は自分の罪を認め、勧められて自首し、流刑の判決を受ける。そこから彼の再生の物語が始まる。
・ドストエフスキーが手元に置いていた新約聖書は、現在モスクワ図書館に保存されており、ヨハネ福音書第11章19節-26節、「罪と罰」でラスコリニコフの願いによってソーニャが朗読する「ラザロの復活」の箇所には、始めと終わりがインクでマークされ、小説ではイタリック体で強調され、25節「私は復活であり、命である」には、鉛筆で下線がほどこされている。ドストエフスキーは神を信じることの出来なくなった私たち現代人のために、この小説を書いた。「神は生きておられる、神は死んだ者を生き返らせる力をお持ちだ」とドストエフスキーはこの作品を通して訴えているように思える。

3.悔改めと赦し

・ヨセフの人生は神の経綸に導かれた、生かされた生であった。私たちも人生を自己のために歩む道としてではなく、神の経綸の一部として歩ませていただく人生と見る時、世の出来事が変って来る。
―創世記45:3-8「ヨセフは、兄弟たちに言った。『私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った・・・『私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です』」。
・ヨセフ物語において、神は人間の罪を用いてその聖なる目的を遂げられる。神はヨセフを兄たちの憎しみと嫉妬とを用いてエジプトに導き、そして神は人間の罪を用いてその人間を試され、清めさせられる。ユダの告白はそうである。ユダはかってヨセフを恨んでエジプトに売った張本人であった。そのユダが今弟ベニヤミンの助命のために自分の命を捨てようとする。導きは時が満ちて初めて導きであることがわかる。ある時は人生の長さを超える時が必要になる。途上であってもそれを信じる強さが必要だ。
-エレミヤ29:10-14「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く・・・私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる」。




篠崎キリスト教会にて更に多くのニュース記事をよむことができます
http://shinozaki-baptist.jp

このニュース記事が掲載されているURL:
http://shinozaki-baptist.jp/modules/wakachiai/index.php?page=article&storyid=421