2018年1月7日聖書教育の学び(2012年5月6日説教、マルコ1:1-14、時は満ちた)

投稿日時 2018-01-01 09:42:03 | カテゴリ: みんなの証

1.イエスのバプテスマ

・今日から半年間にわたってマルコ福音書からイエスの生涯の物語を見て行きます。これまで礼拝説教で読んできました聖書教育誌は5月から旧約聖書の学びに入りますが、今、私たちの教会に必要なものは旧約ではなく、イエスの福音であると判断し、マルコ福音書を学び直すこととしました。聖書には三つの福音書がありますが、その中で、マルコは最初に書かれた福音書です。紀元60年代から70年代にかけて書かれたと言われています。紀元64年、ローマ帝国はキリスト教徒の大迫害を行い、この時、ペテロやパウロはローマで殉教しています。またユダヤの地ではローマ帝国支配に反対する内乱が生じており、その混乱の中でエルサレム教会の指導者ヤコブも殉教しています(62年)。これまで教会を支えて来た使徒たちが次々に殺され、国そのものが滅亡に直面する中で、これから何を基準に教会を形成していけば良いのか。その時、使徒たちに親しく仕えていたマルコが使徒たちから聞いたイエスの出来事や言葉を集め、「神の国は既に来ている」とのメッセージを記しました。それがマルコ福音書です。最初に書かれた福音書、新約聖書の最初に来るべき書がマルコの福音書なのです。
・マルコは福音書を次のように書き始めます「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)。ギリシャ語原文を直訳すると次のようになります「始まった、福音が、イエス・キリストの」。「始まった」という言葉はギリシャ語アルケーです。このアルケーと言う言葉は、当時の人々が読んでいた70人訳ギリシャ語聖書では創世記冒頭に使われています「初めに神は天地を創造された」(創世記1:1)、「初めに」、ヘブル語「べレシート」がギリシャ語「アルケー」に翻訳され、その言葉をマルコは福音書冒頭に用いています。旧約聖書も新約聖書も、「初めに」と言う言葉で始まっているのです。この「初めに」と言う言葉を通して、マルコは「天地創造によって世界は始まったが、イエス・キリストが来られてこの天地は再び創造された」と宣言しています。
・何が始まったのか、「福音が始まった」とマルコは言います。福音=ギリシャ語「エウアンゲリオン」、良い知らせの意味です。「イエスが来られて良い知らせが始まった」とマルコは言います。当時エウアンゲリオンという言葉はローマ皇帝即位の告知に使われました。ローマ皇帝=世界の支配者、人類に平和と救いをもたらす皇帝の出現こそ、エウアンゲリオン=良い知らせであると帝国の人々は告知されたのです。その言葉をマルコはイエス・キリストの出現に用いています。敬愛するペテロやパウロがローマ皇帝によって殺され、祖国ユダもローマ帝国の支配下にあえぐ状況の中で、あえて「福音」という特別な言葉をイエスに用いています。マルコは、「ローマ皇帝が王ではなく、イエス・キリストこそ真の王であり救い主である」と命をかけて信仰告白をしているのです。
・マルコは続けます「イエス・キリストの」、イエスはヘブル名「ジョシュア」のギリシャ語訳、キリストはヘブル語「メシア」のギリシャ語訳です。ナザレのイエスこそ救い主なのだとの信仰告白です。マルコはその信仰をマラキ書やイザヤ書を引用して説明します「預言者イザヤの書にこう書いてある『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(1:2-3)。イエスが生まれられた時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの支配下にありましたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自らを選びの民と自負するユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神は、彼らを救うためにメシアをお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。
・その期待が、引用されたマラキ書とイザヤ書の言葉の中にあります。マラキは歌います「見よ、私は使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」(マラキ3:1)。「神が世を救うために来られるしるしとしてまず使者が送られる」とマラキは預言し、マルコはその使者こそ「洗礼者ヨハネ」であり、そのヨハネの紹介でイエスが世に出られることを予告します。そしてイエスが来られた時こそ解放の時であることを、マルコはイザヤ書40:3を通して歌います「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」。国を滅ぼされ、異国の地に捕囚として捕らえられている民に、故国に戻る時が来たので準備せよ、バビロンからエルサレムまでの長い道のりは既に整えられたという喜ばしい知らせが与えられました。その言葉をマルコはイエスの宣教の始めに用いています。

2.ヨハネのメッセージとイエスのメッセージの違いを見よ

・マルコは1:4から洗礼者ヨハネの記事を書き始めます。ヨハネは「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1:4-5)と。イエスは故郷ガリラヤで、ヨハネがユダヤ全土に悔い改めを宣教し始めたとの知らせを聞かれ、「時は満ちた」、「神がイスラエルを救うために行為を始められた」との燃える思いに駆り立てられ、ガリラヤを出られました。その時、30歳であったとルカは伝えています。それまでイエスは故郷のナザレで、家業である大工をされていましたが、ヨハネの呼びかけに答えて、故郷を捨て、ユダヤに向かわれたのです。イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられますが、その時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とマルコは記します(1:10)。この洗礼を通して、イエスはご自分が神の子として召されたことをお知りになりました。
・人びとは力強い言葉で神の言葉を語るヨハネこそが、メシア=救い主ではないかと思いましたが、ヨハネは人々の思惑を否定し、「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7-8)と言いました。マルコは「その方こそ、ナザレのイエスであった」と主張しています。マルコは、ヨハネに「私はかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言わせています。ヨハネはイエスの準備をしただけであって、私たちはヨハネではなく、イエスをこそ見つめるべきであるとマルコは言います。
・ヨハネが宣べ伝えた宣教は「悔い改めよ、そうしなければお前たちは滅ぼされるだろう」というものです。ルカ3章にヨハネの言葉が残されていますが、彼は述べます「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:7-9)。ヨハネの宣教は終末時の審判です。「今こそ神が世界を裁かれる時が来た」と彼は告知しました。だから荒野で、預言者の衣を着て、悔い改めを人々に迫ったのです。
・それに対してイエスは荒野を出てガリラヤに行かれ、神の国の福音を説かれて言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。イエスの最初の肉声は「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした。ヨハネの宣教とイエスの宣教の違いを理解することは大事なことです。何故ならば多くの場合、私たちはイエスではなく、ヨハネの宣教を宣べ伝えているからです「罪を認めなさい。悔い改めなしには救いはない」、「信じなさい、信じない者は地獄に行く」。これは良い知らせ=福音ではありません。「神の国は近づいた」、イエスは信じない者のために活動された、そこに「良い知らせ」があるのです。

3.福音〜喜ばしきおとずれ

・今日の招詞としてルカ7:22-23を選びました。次のような言葉です「それで、二人にこうお答えになった『
行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである』」。
・洗礼者ヨハネはその後、捕らえられ、牢に幽閉されていましたが、牢の中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣して聞かせます「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7:20)。ヨハネが期待したメシアは罪人たちを滅ぼし、正しい者のための世を来たらせる裁き主でした。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人を癒されています。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。神の国は裁きではなく救いであることをヨハネは理解できなかったのです。ヨハネはイエスにつまずきました。そのヨハネにイエスはイザヤ61章を引用してお答えになりました。それが招詞の言葉です。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」、「福音とは喜ばしき訪れであり、その喜びの知らせを聞いて、人は神の前にふさわしい者に変えられて行く」のだと。
・街中を宣伝カーで走りながら、「信じなければ死んで裁きにあう」、「洗礼を受けない者は地獄に落ちる」などと音声を流している団体があります。彼らの伝えていることは福音ではありません。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われる」ためです(ヨハネ3:17)。イエスは言われました「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、イエスが来られて神の国が始まった、誰でもそれを信じる者は救われる、その良い知らせを伝えるために私は来たのだとイエスは宣教の業を始められたのです。イエスは後にナザレの会堂でも同じ事を宣言されます「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)。
・神の国は既に来ているのです。どこに、この教会の真ん中に。マルコ1:12-13は暗示的な文章です「それから、霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。洗礼を通して御子イエスの霊を受け、神に向かって「父よ」と呼びかける私たちも、イエスと同様にサタンの試練にさらされています。人として生きる苦しみ、事故や病気などの災難、また差別や戦争などの苦難は、信仰者にも襲いかかります。「野獣たち」、私たちの周囲にあって私たちの思い通りにならないものも、私たちと共にあります。しかし天使たちが荒れ野のイエスを守ったように、イエスが私たちのそばにいて私たちを支えてくれます。洗礼を受けて信仰の道を歩む私たちが出会う試練と、それでも与えられる守りと仲間たちがここに描かれています。「ときは満ちた、神の国は来た、ここに神の国がある」、これこそ私たちがイエスから託された福音、良い知らせなのです。




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