2017年11月12日聖書教育の学び(イザヤ40-45章要約 、篠崎キリスト教会祈祷会資料から)

投稿日時 2017-11-05 19:17:24 | カテゴリ: みんなの証

1.イザヤ40章−慰めの知らせ

・紀元前587年、イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われた。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に再び臨んだ。
−イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」。
・エルサレムは廃墟となり、捕囚民の多くは死に果てた。二世、三世の民は父親から故郷エルサレムの話を聞かされていたが、エルサレムはもはや彼らの故郷ではない。今は、何とかこの異郷の地で生きようとしている。その民に「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言者は告げる。
−イザヤ40:3-5「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」。
・バビロンからエルサレムまで、千キロの荒野を経て帰還する道が開かれた。しかし、エルサレム帰還の夢を失くしていた人々は「帰ろう」と言われてもとまどうばかりだ。彼らは既に主の民ではない。彼らは信仰をなくしている。
−イザヤ40:6-7「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。
・預言者は言う「民に何を言えば良いのか。彼らは希望を無くしている。それは主よ、あなたのせいだ。あなたが民を砕き、バビロンに連れてこられた。あなたは50年間も民を放置された。その民に、今さら何を語れと言われるのか」。何故あなたは沈黙を続けられたのかと語る預言者の不信をねじ伏せて、神は言葉を語らせる。
−イザヤ40:8「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。
・強いられた預言者は言葉を語り続ける。語るうちに彼は福音を聞く者から告知する者に変えられている。
−イザヤ40:9-11「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。・・・見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」。
・捕囚になった民は、自分たちの神がバビロンの神に負けた、主の歴史支配は終ったのだと思った。しかし預言者は、万能の主が木や金で造られた偶像に負けるはずなどないではないかと民の懸念を打ち払う。
−イザヤ40:17-19「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける」。
・50年の苦難はイスラエルの信仰を揺さぶった。主は祈っても応答されなかった。「信仰は空しい営みではないのか」、「信じても何の甲斐もない」、人々は神を信じることが出来なくなっていた。
−イザヤ40:27「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と」。
・預言者は言う「主はお前たちを見捨てておられたのではない。時が来るのを待たれていたのだ。時が来て主はバビロンを滅ぼし、お前たちを救おうとされているではないか」と。
−イザヤ40:28-31「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。・・・主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。

2.イザヤ41章 ペルシャ王キュロスは解放者、メシアなのか

・イザヤ書40-48章はペルシャ王キュロスに期待を寄せる捕囚解放前の預言だ。41章以下にキュロスの目覚しい躍進の中に神の働きを見る預言者の神賛美だ。だが後半49章から預言は一変し、「主の僕」の歌が主になる。前539年キュロスはバビロニアを滅ぼしたが、彼が最初にしたのはバビロニアの主神マルドゥクの前に跪くことだった。預言者はキュロスに失望し、民族の祖国帰還と復興に望みを託すが、反対派の策謀により不遇のうちに死んだとされる(イザヤ53章「苦難の僕の歌」は、第二イザヤの弟子たちが死んだ師を称える歌とされる)。
-イザヤ49:4-6「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である・・・今や、主は言われる・・・私はあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。
・イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、指導者たちが捕囚となって50年が過ぎた。不滅と思われたバビロニア帝国はネブカドネザル王の死と共に衰退し、東に起こったペルシャが諸国を併合し、新しい支配者としてバビロンに迫っていた。預言者はペルシャ王キュロスが「主の使い」としてイスラエルを解放してくれると期待を寄せる。
-イザヤ41:2-4「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か・・・彼は敵を追い、安全に道を進み、彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは主なる私。初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの」。
・主はキュロスを用いてあなたを捕囚の身から解放してくださる。だからイスラエルよ、立て、恐れるなと預言者は呼びかける。イスラエルの味わった亡国と捕囚の辱めこそ、主の愛の鞭だったのだと。
-イザヤ41:8-10「私の僕イスラエルよ。私の選んだヤコブよ。私の愛する友アブラハムの末よ。私はあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたは私の僕、私はあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、私はあなたと共にいる神。たじろぐな、私はあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、私の救いの右の手であなたを支える」。
・イスラエルは小さな者、虫と呼ばれる。古代において小国は世界帝国の動きの中で翻弄され、弾圧されてきた。ペルシャもまたバビロニアと同じ圧制者なのか。違う、キュロスこそ主の器であり、あなた方を解放する。
-イザヤ41:13-14「私は主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。恐れるな、私はあなたを助ける、と。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、私はあなたを助ける」。
・神はイスラエルを打穀機としてエルサレムへの帰還の道を整えられる。山は削られ、谷は埋められ、荒野は緑の野に変わる。
-イザヤ41:15-20「見よ、私はあなたを打穀機とする。新しく、鋭く、多くの刃をつけた打穀機と。あなたは山々を踏み砕き、丘をもみ殻とする・・・私は不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる・・・荒れ野に杉やアカシヤを・・・荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。主の御手がこれを成し遂げ、イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを」。
・偶像の神は、これまでに起きた出来事(ペルシャがリディアやメディアを征服した)の意味がわからないし、これから起こる出来事(バビロニアの滅亡)も予見できない。彼らは像であって神ではないからだ。
-イザヤ41:21-24「訴え出て争うがよい、と主は言われる・・・起こるべきことを私たちに示し、告げてみよ。初めにあったことを告げてみよ・・・お前たちは無に等しく、働きは空しい。お前たちを選ぶ者は忌むべき者だ」。
・キュロスの戦いは、民をエルサレムに連れ帰るための主の戦いなのだと預言者は結論する。
-イザヤ41:25「私は北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところから私の名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように、彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる」。

3.イザヤ42章 主の僕の召命

・イザヤ40〜55章には4つの「主の僕の歌」がある。紀元前540年ごろ、バビロンに捕囚となっていたイスラエルの民から、「主の僕」と呼ばれる預言者が召され、イスラエルの民に「捕囚からの解放」を伝えよと命じられる。
-イザヤ42:1「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。
・主の僕とは誰か。歴史家は捕囚民の指導者として故国帰還を導いたのは、捕囚されたエホヤキン王の4男セシバザルと推測する。前539年ペルシャ王キュロスはバビロンの支配者となり、諸国民に故国への帰還を許す。第一陣としてセシバザルに率いられた民がエルサレムに戻るが、セシバザルはペルシャからの独立・反乱を疑われ、処刑された。このセシバザルこそが第二イザヤのモデルであり、42:1-4はこのセシバザルの召命を歌った詩であると言われる。
-イザヤ42:2-4「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない。この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」。
・この僕は、主が「支え」「選び」「喜ぶ」者であり、「叫ばず」「呼ばわらず」「傷ついた葦を折らず」「暗くなっていく灯心を消さない」。イスラエルの侵害された領土を回復し、失われた自由を与えてくれる者とされる。マタイは主イエスの活動の中に、「主の僕」の姿を見出す(マタイ12:15-21)。
・宗教的救済はやがて政治的救済となる。僕は捕囚民をバビロンから解放する使者として立てられる。
-イザヤ42:6-7「主である私は、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。
・42章は18節から捕囚からの解放を歌い上げる。最初に第二イザヤは、捕囚となっているイスラエルの民が、「耳が聞こえず」「目が見えない」と批判する。
-イザヤ42:18-20「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。私の僕ほど目の見えない者があろうか。私が遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。私が信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」。
・捕囚民の置かれた状況は悲惨なものだった。
-イザヤ42:22「この民は略奪され、奪われ、皆、穴の中に捕らえられ、牢につながれている。略奪に遭っても、助け出す者はなく、奪われても、返せと言う者はない」。
・それは物質以上に精神的に悲惨な環境であった。何故なら、民は何故国が滅ぼされ、自分たちが捕囚されたのかを理解していないからだ。国を滅ぼし、異国の地に連れてきたのが、主であることを、この民は悟らない。
-イザヤ42:24-25「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか。この方に私たちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった。主は燃える怒りを注ぎ出し激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても悟る者はなく、火が自分に燃え移っても気づく者はなかった」。
・しかし裁きは救いのために為される。主はイスラエルを愛する故にこれを裁き、イスラエルを選ぶ故に鍛錬される。そして時が満ちた時、救いのために行動される。
-イザヤ43:1-5「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。・・・恐れるな、私はあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める」。

4.イザヤ43章 イスラエルの贖い

・国を滅ぼされ、バビロンで捕囚となっていたイスラエルの民に預言者(第二イザヤ)が立てられ、「解放の時は近い、祖国帰還の準備をせよ」と語った。しかし救済はイスラエルが悔い改めたからではない。彼らは相変わらず愚かであり、自分たちが何故この苦難を受けなければいけないのかを理解していない。
-イザヤ42:24-25「奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか。この方に私たちも罪を犯した・・・主は燃える怒りを注ぎ出し、激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく、火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった」。
・イスラエルに自力更正の力はないが、主はイスラエルを救われる。彼らは主が造られた民だからだ。
-イザヤ43:1-2「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。
・エジプトから大河を越えて民を救いだされた主は、戦災を潜り抜けて残された民に、救いを宣言される。イスラエルには何の価値もない。民族は小さく、愚かで、不従順だ。それでも主は彼らを救われる。
-イザヤ43:3-4「私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。私はエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」。
・散らされた民を再び集めると主は言われる。何故なら国の滅亡と民の離散は呪いではなく祝福だからだ。苦難を通してイスラエルは主の愛を知る。詩篇126編が歌うように「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる」。
-イザヤ43:5-7「恐れるな、私はあなたと共にいる。私は東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。私の息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。彼らは皆、私の名によって呼ばれる者」。
・諸国民は主の法廷に呼び出され、それぞれの神の証人を立てよと命じられるが、立てることが出来ない。偶像の神を証しすることなど出来ないからだ。国が滅んだ時、イスラエルの民は思った「私たちの神がバビロンの神に負けたのだ」と。しかし、それは違う。この法廷でそれが明らかになる。あなた方はそれを見よと命じられる。
-イザヤ43:8-9「引き出せ、目があっても、見えぬ民を、耳があっても、聞こえぬ民を。国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に、このことを告げ、初めからのことを聞かせる者があろうか。自分たちの証人を立て、正しさを示し、聞く者に、そのとおりだ、と言わせうる者があろうか」。
・「主の手が短くて救えないのではない」。そのことを今から彼らは見るであろうと主は言われる。
-イザヤ43:10-11「私の証人はあなたたち、私が選んだ私の僕だ、と主は言われる・・・私こそ主、私の前に神は造られず、私の後にも存在しないことを。私、私が主である。私のほかに救い主はない」。
・私はあなたたちのためにバビロンにペルシャ王キュロスを送り、彼を用いてバビロンを滅ぼす。
-イザヤ43:14「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主はこう言われる。私は、あなたたちのために、バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし、カルデア人を歓楽の船から引き下ろす」。
・海の中に道を通してエジプト軍を滅ぼされた主は、今やカルデア人に同じことをされる。その時、あなた方は祖国に帰ることが出来る。バビロンと祖国を隔てる荒れ野にも道が開かれる。
-イザヤ43:19「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」。

5.イザヤ44章 どのような時に捨てない神の愛を見よ

・イスラエルは捕囚の苦しみと失意の中で嘆き、つぶやいた。彼らが見つめるのは自己の不幸、自己の不満のみであり、神が何故そうされたかを考えようとしない。その愚かな民を神はなおも証人として立てるといわれる。
-イザヤ43:8-14「引き出せ、目があっても、見えぬ民を。耳があっても、聞こえぬ民を・・・私の証人はあなたたち、私が選んだ私の僕だ、と主は言われる・・・ あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主はこう言われる。私は、あなたたちのためにバビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし、カルデア人を歓楽の船から引き下ろす」。
・その文脈の中で、イスラエルに対する慰めが語られる。「私はあなたを救う。私はあなたを造ったからだ」。
-イザヤ44:1-3「そして今、私の僕ヤコブよ、私の選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、私の僕ヤコブよ。私の選んだエシュルンよ。私は乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫に私の霊を注ぎ、あなたの末に私の祝福を与える」。
・イスラエルに神の霊が注がれ、昔日の繁栄を取り戻し、異邦人もまた主を知り改宗する。
-イザヤ44:4-5「彼らは草の生い茂る中に芽生え、水のほとりの柳のように育つ。ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名乗り、またある者は手に『主のもの』と記し、『イスラエル』をその名とする」。
・私たちの主は万軍の主であり、歴史を支配される。その主はどのような時にも民を見捨てない。
-イザヤ44:6-8「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない・・・ 恐れるな、おびえるな。既に私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちは私の証人ではないか。私をおいて神があろうか、岩があろうか。私はそれを知らない」。
・神の愛はどのような時にも見捨てない愛だ。神は私たちを覚えて下さる、忘れておられるのではない。
-イザヤ44:21-22「思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたは私の僕。私はあなたを形づくり、私の僕とした。イスラエルよ、私を忘れてはならない。私はあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。私に立ち帰れ、私はあなたを贖った」。
・44章後半には偶像への対決が歌われる。第二イザヤは繰り返し偶像批判を行う。捕囚の民がバビロンで直面した最大の問題が偶像だった。国を滅ぼされた民は「私たちの神よりバビロンの神のほうが強い」として偶像神マルドゥク(ヘブル語ベル、ネボはその子)信仰に走った。イザヤは言う「人間の手で造ったものを何故拝むのか」と。
-イザヤ44:9-11「偶像を形づくる者は皆、無力で、彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。無力な神を造り、役に立たない偶像を鋳る者はすべてその仲間と共に恥を受ける」。
・偶像はどのようにして造られるのかあなたは知っているか。鉄工は金槌と炭火で金属を加工し、木工はコンパスで図を描き、人の形に似せて像を彫る。
-イザヤ44:12-13「鉄工は金槌と炭火を使って仕事をする。槌でたたいて形を造り、強い腕を振るって働くが、飢えれば力も減り、水を飲まなければ疲れる。木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く」。
・人は木の一部を燃やして暖をとり、パンを焼き、残りで像を造って拝む。このような偶像があなたを救うのか。
-イザヤ44:15-17「木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う『お救いください、あなたは私の神』と」。
・偶像は何の力も持たない。古代の神々はその民族と共に滅んでいった。エジプトのラー(太陽神)もバビロンのマルドゥク(月神)も今はいない。
-イザヤ46:1-2「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。

6.イザヤ45章 主の僕キュロス

・イザヤ40−55章は第二イザヤとよばれ、バビロンの地に捕らえられたイスラエルの解放を歌う。40−48章が前半で、そこにおいてはペルシャ王キュロスが「主の牧者」「主に油注がれた者」とよばれる。
-イザヤ44:28-45:1「キュロスに向かって、私の牧者、私の望みを成就させる者と言う。エルサレムには再建されると言い、神殿には基が置かれると言う。主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」。
・「主の牧者」、羊の群れを牧するように委ねられた者、「油注がれた者」マーシアハ=メシアである。異邦人をメシアと呼ぶのは聖書中ここだけだ。第二イザヤは、主がキュロスにイスラエルの解放という使命を与えられたと考えた。
-イザヤ45:2-3「私はあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる。私は主、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神である、と」。
・バビロンの城壁には100の青銅の門があり、それをキュロスが破って都を征服し、その宝物を自分のものにすることが預言される。しかしキュロスは自分の召命を知らない。彼は自分の力でそれを為したと思うだろうと言われる。
-イザヤ45:4「私の僕ヤコブのために、私の選んだイスラエルのために、私はあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった」。
・第二イザヤは、歴史を支配する者はキュロスではなく主であることを強調する。歴史は主が先導され、主こそ唯一の神であり、主こそ真の支配者だ。キュロスもまた主の器に過ぎない。ここにはキュロスに対する偶像化はない。
-イザヤ45:5-7「私が主、ほかにはいない。私をおいて神はない。私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで人々は知るようになる。私のほかは、むなしいものだ、と。私が主、ほかにはいない。光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。私が主、これらのことをするものである」。
・イスラエルの民はキュロスによる救済を否定した。「神の民が異邦人によって救われることなどあるわけがない」と批判する。イザヤは民に向かって「神の救済の方法にまで文句を言うあなたたちは何者なのか」と怒る。
-イザヤ45:9-10「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに、自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか、『何をしているのか、あなたの作ったものに取っ手がない』などと。災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言い、なぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は」。
・第二イザヤはかたくなな民にむかって、「主は異邦人を用いて私たちを救われる」ことを繰り返す。
-イザヤ45:11-13「イスラエルの聖なる神、その造り主、主はこう言われる。あなたたちはしるしを求めるのか。私の子ら、私の手の業について私に命ずるのか。大地を造り、その上に人間を創造したのは私。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。私は正義によって彼を奮い立たせ、その行く道をすべてまっすぐにする。彼は私の都を再建し、私の捕らわれ人を釈放し、報酬も賄賂も求めない。万軍の主はこう言われた」。




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