2017年10月8日聖書教育の学び(2012年9月27日祈祷会、ヨブ記19章、贖い主を見出したヨブ)

投稿日時 2017-10-01 16:48:19 | カテゴリ: みんなの証

1.友の無情に抗議するヨブ

・ビルダデの攻撃的な演説を聞いたヨブは、耐えかねるような口調で非情なる友人たちの論難を批判する。彼は言う「私が仮に過ちを犯したとしても、友たる者はそれを批判するのではなく、慰めるべきではないか」。
−ヨブ記19:1-4「ヨブは答えた。どこまであなたたちはわたしの魂を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。侮辱はもうこれで十分だ。私を虐げて恥ずかしくないのか。私が過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちは私個人にとどまるのみだ」。
・もし友人たちがヨブの苦難を見て、それはヨブ自身が苦難に値する罪を犯したと思うならばそれは誤解だ。「私の現在の苦難は神から来る。それなのに、あなたたちは私の過ちを誇張して私を責め立てる」。
-ヨブ記19:5-6「ところが、あなたたちは、私の受けている辱めを誇張して、論難しようとする。それならば、知れ。神が私に非道なふるまいをし、私の周囲に砦を巡らしていることを」。
・ヨブは神がいかに彼を苦しめているかを詳述する。今の彼には何の助けもなく、叫んでも誰も来てくれいない。
-ヨブ記19:7-8「だから、不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神は私の道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた」。
・神はヨブの財産を奪い、子供たちを奪い、忌まわしい病気に追いやられた。その結果、ヨブはすべてを失った。
-ヨブ記19:9-12「私の名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められて私は消え去る。木であるかのように、希望は根こそぎにされてしまった。神は私に向かって怒りを燃やし、私を敵とされる。その軍勢は結集し、襲おうとして道を開き、私の天幕を囲んで陣を敷いた」。
・人々はヨブから身を引き、使用人さえも彼を敬遠し、妻でさえヨブの息を嫌い、子供たちもヨブを避ける。今やヨブには誰も頼る者はいなくなった。
-ヨブ記19:13-20「神は兄弟を私から遠ざけ、知人を引き離した。親族も私を見捨て、友だちも私を忘れた。私の家に身を寄せている男や女すら、私をよそ者と見なし、敵視する。僕を呼んでも答えず、私が彼に憐れみを乞わなければならない。息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子も私を拒み、私が立ち上がると背を向ける。親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった。骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」。

2.贖い主を求めるヨブ

・それは神がヨブを打ったゆえである。神に責められ、家族にも捨てられた今の私に、頼るべきはあなたがた友しかいないのに、あなた方は私の言い分を聞こうとせず、責める。どうか言葉を聞いてほしいとヨブは懇願する。
-ヨブ記19:21-22「憐れんでくれ、私を憐れんでくれ、神の手が私に触れたのだ。あなたたちは私の友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、私を追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」。
・しかし友人たちの態度は変わらない。そのため、ヨブは自分の言葉を墓石に記し、死後誰かがそれを読んでくれることを願う。
-ヨブ記19:23-24「どうか、私の言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」。
・そのヨブが突然、贖い主について語り始める。ヘブル語=ゴーエール、「買い戻す者」の意味だ。彼の死後に彼の知人や親せきが彼の名誉回復をしてくれることをヨブは望んだのであろう。
-ヨブ記19:25-27「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」。
・このヨブの言葉は、もともとの意味を超えて、人々に読まれてきた。「仮に自分が無念のままに、汚辱の中、で死のうとも、神はそれを知り、いつの日か憐れんでくださるという希望」を、人々はこの言葉に見た。それはイエスの十字架の叫びとも重なる言葉である。
-マルコ15:33-34「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である」。
・人は死ねば「塵に帰る」ような、虚しい存在である。その虚しい存在は今神により生かされている。今生かされているという事実が、死後も生かされるであろうとの希望を持つことを許す。「東北の津波で死んだ人の命も無駄ではない。幼くして死んだ子の命も生かされる。これが福音に基づく希望である。

3.贖い主とはだれか(織田昭聖書公開ノートから、1993/01/05)

・ヨブの使った「私を贖う者」の元々の意味から想像する限りでは、この「贖う者」というのは、自分にとって一番血の濃い近親者で、「身請け人」になってくれる人のことです。たとえば、自分が人質になったり、虜になったりした場合に、また、落ちぶれて奴隷に売られようとする時に、身代金を払って請け出してくれる人のことを、ヘブライ語では「ゴーエール」と言いました(レビ 25:25−27)。この意味から言うと、ここに言う「私を贖う者」というのは、「最後まで私の肩を持ってくれる私の身請け人」、「だれが私を見限っても 決して私を捨てないで私の恥も悲しみも、すべてを引き受けてくれる人」という思想が、この表現に込められていると言えます。
・ヨブは果してその「身請け人」=「贖う者」をどこに見ていたのでしょうか。ヨブがこの「生きておられる」という言葉を使った時、自分を贖うその方は単なる人間ではない、という意味を果して込めたのか。そのお方の神性について、本人がどの程度分かっておったのかは、不明です。「神の子であるイエス・キリスト、復活者であり命の源泉であるお方」の栄光を、果してこの人は見たのかどうか。それとも、殆ど意識しないままに、彼の一縷の希望を「神なる復活者」にかけたのか。それは分かりません。しかし確かにその言葉は、この人の口からもれました。神は彼に語らせたのでず。その意味では、「アブラハムは私の日を見て、喜んだのである」(ヨハ 8:56)と言われたイエスなら、「ヨブは私の復活を見て、喜んだのである」とおっしゃるに違いありせん。
・その方は「ついには塵の上に立たれるであろう」と、ヨブはそう告白しました。口語訳では、「後の日に彼は必ず地の上に立たれる」、新改訳は「ちりの上に立たれることを」です。「アファール」はもともと、「土のちり」を指す言葉です。ヨブが言いたいのは、「自分がこんな、だれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土(アファール)の上まで来て冤を雪いでくださる方が、生きておられる。私がその時 もう土の下にいても、その土の塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さぬ!』と、その方は言ってくださる。」そんな確信を表したものです。
・26 節の文意は、やや難解です。原文は英語に直訳すれば、“and from my flesh”です。「私のこの肉から切り離されて」という風に理解すれば、「私が、皮だけじゃなく肉まで滅ぼされて、骸骨になって地下で腐ってからでも……」という意味に取れます。昔のラビたちの注釈を見ますと、この「私の肉から」の意味は、「私は再び健康な肉を回復されて、その肉から」、つまり、「今のこのままの惨めな姿ではなく、もう一度、神様から立派な体を与えていただいて、立って神を仰ぎ見るのだ」と説明しています。英語でも、“without my flesh”という訳のほかに、“in my flesh I shall see God”という訳もあります。
・ともあれ、ヨブは言うのです。「私は決して、こんな惨めったらしい敗北者の姿で終わるのではない。人は私の信仰の不毛を笑うだろうが、神は決して私をこのままお見捨てになる方ではない。その神に、私は最後まで信頼する。」なんと、これをヨブは、イエス・キリストを見ないまま告白したのです!ヨブのこの詩の中にある幻は、やがて千数百年後に、イエス・キリストによって実現されます。実は、旧約聖書の中には、このヨブの言葉のほかにも、復活の希望の影が、そこここに映っているのです。例えば、預言者エリヤやエリシャが、死者に触れて、これを神の力で生かしたという記事が、列王記に(上 17:17f,下 4:18.同 13:20f.)見られます。預言者エゼキエルが谷間で見た無数の白骨が、神の息で甦る幻(37:1f.)もそうですし、詩篇の中では 73 篇や 16 篇にも、同じ復活の希望が歌われます。
・自分の中に、死の始まりを見ることがあります。健康の喪失や、体力気力の衰えの中にも、人は死の確実な足音を聞きます。しかし、それより更に確実で、ショッキングな死の徴は、むしろ、わが内から生じる霊的崩壊、パウロが“死の体”と呼んだものが発する死臭です。「崩れて行く。腐って行く。サタンが手を触れている。」そのとき、三人の自称“友人”たちの「お為ごかし」の忠告が、エコーをかけたように増幅されて聞こえてきます。「愚かな者よ、神はお前のような弱い、情けないものを相手にされるか!」
ヨブは、その「パルシーア復活者」を知っていました。私は知っている。私を贖う方は“生きておられる方”だ。そのお方は、最終的にこの“私”の上に臨まれる。このお粗末な“私”の成れの果である塵の上に、その方は立って、「これは、わが愛する者。だれも指を触れさせない!」そう言ってくださる。この私が、その方を仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。私はその方を、腹の底から焦がれ、わがはらわたは絶え入る。ヨブの凄いところは、それを、イエス・キリストをまだ見ないで断言したことです。聖なる霊が、私たちのためにそれを言い残させたのです。




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