2015年9月6日聖書教育の学び(2011年9月25日説教、出エジプト記32:1-14、偶像礼拝の罪)

投稿日時 2015-08-31 08:50:17 | カテゴリ: みんなの証

1.偶像礼拝の罪

・出エジプト記を読んでいますが、本日が出エジプト記最終回です。エジプトを出たイスラエルの民は、荒野への道を導かれます。荒野ですから水や食べ物も乏しい、民は「水がない、食べ物がない」とつぶやきますが、神はその民に、水を与え、マナを降らせることによって養われます。エジプトを出て3ヶ月、人々はシナイ山に着きました。このシナイ山で神はイスラエルと契約を結ばれ、契約を記した十戒を受け取るために、モーセは山に登ります(出エジプト記24:15-18)。しかしモーセがなかなか帰ってこないため、不安になった民は神の像を造り、拝み始めます。これまで民のわがままを忍耐されてこられた神も、ここにいたって、「民を滅ぼす」と宣言されます。今日読みます出エジプト記32章は、出エジプト記の中核をなす部分で、人間の罪の根源、偶像礼拝について述べます。
・出エジプト記は記します「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言った」(32:1)。モーセは律法を受けるために「40日40夜山にいた」(24:18)。民はモーセの下山があまりにも遅いため、モーセが既に死んでしまったのではないか、自分たちはこれからどうなるのかと不安にかられました。彼らは指導者を失い、まだ神を見出していません。その証拠に彼らは、「自分たちをエジプトから導き上ったのは神ではなく、モーセだ」と言っています。心配になった民は「目に見える神」を求めます。
・モーセ不在の間、民の指導を委ねられたのはモーセの兄アロンです。彼は祭司ですから、本来は民を戒め、落ち着かせる役割を持ちますが、むしろ積極的に民の意見に同調し、金の子牛を造ります。出エジプト記は記します「アロンは彼らに言った『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、私のところに持って来なさい』。 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」(32:2-4)。
・古代オリエント世界では牛がその力強さと多産性によって神の象徴とされていました。「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」、人々が欲したのは見えない神ではなく見える神、自分たちの自由になる神、自分たちの願いを聞いてくれる神です。そこに偶像礼拝があります。この時の民は「牛こそ神だ」と思ったのではないでしょう。しかし、神のしるしであった牛の像は、やがて神そのものになり、礼拝の対象になります。イスラエルが統一王国を形成し、やがて分裂した時、北イスラエル王国を創ったヤロブアムは南のユダ王国に対抗するために、金の子牛を二体造り、宣言して言います「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」(列王記上12:8)。偶像礼拝の過ちはその後も繰り返されました。カトリック教会は神の愛の象徴として幼子イエスを抱くマリア像を造り各教会に安置しますが、やがて人々は神ではなくマリア像を拝み始めます。
・金の子牛は私たちの心の中にもあります。精神科医・平山正実氏は言います「イスラエルの民は金の飾りを溶かして子牛を造ったが、私たちも多くの飾り物を身にまとう。それは知識であるかも知れないし、技術であるかも知れない。地位や財産であるかも知れない。あるいは美貌や家柄かも知れない。人はそれらの飾り物によって自分を実際以上によく見せようとし、他の人に対して優越感を抱いたりする。それが度を越すと、虚栄心や顕示欲を生じさせ、自己神化・偶像化へと発展する」(平山正実・心の健康と聖書)。当時の装身具は悪霊を防ぐためのお守りでした。私たちもいろいろなお守り、偶像と共に生きている現実があります。その意味でこの民を笑えないのです。
・翌日、民はこの偶像の神に、「焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供え」ました(32:6)。そして「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」と聖書は記します。「座って飲み食いした」、“飲めや歌え”の大騒ぎをした、「立っては戯れた」、戯れる=ヘブル語パーラーには裸にするという意味がありますから、性的な放縦がそこに生じたのでしょう。偶像礼拝は神を礼拝するのではなく、人間中心の礼拝となりますので、人間の欲望がそのまま出てきます。モーセが山の上で律法を与えられている時、地上では民がその戒めを破っています

2.主の怒りとモーセの執り成し

・主はその出来事を見て、怒られ、この民を滅ぼすと言われました「私はこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、私を引き止めるな。私の怒りは彼らに対して燃え上がっている。私は彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」(32:9-10)。エジプトから導き出した民を滅ぼし、モーセの子孫から生まれる民を自分の民とすると主は決意されたのです。しかしモーセは必死に取り成します「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」(32:11-12)。モーセは神を説き伏せ、神は「御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(32:14)。
・「神は思い直された」、ここに驚くべき言葉が記されています。神は私たちの必死な願いに答えて、すでに決めたことも思い直して下さるとあります。この意味することは、私たちを縛り付ける「運命などない」ということです。私たちは「ある人は不幸に生まれついており、別の人は成功するように運命づけられている」と考えがちですが、神は私たちの祈りに答えて新しい道を示して下さる方なのです。
・モーセは山を下り、異教的な祭りに酔う民の狂態を見ました。彼らの現実の姿は想像以上にひどいものでした。モーセは山の上でいただいた律法を記した二枚の板を投げつけて砕きます。神との契約が破れたことを知ったからです。二枚の板には書いてありました「あなたは私の他に神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない」(20:3-4)。モーセは「彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませ」(32:20)ました。彼は民に悔い改めを迫りますが、一部の民はかたくなに拒否します。そのためモーセは彼に忠誠を誓ったレビ人に、「悔い改めない民を殺せ」と命じます。「モーセは・・・宿営の入り口に立ち『だれでも主につく者は、私のもとに集まれ』と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、彼らに『イスラエルの神、主がこう言われる。おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった」(32:25-28)。先に民を滅ぼすと言われた神に取り成すモーセと対照的な、罪は罪として裁く厳格な指導者モーセの姿があります。私たちから見るとモーセは厳しすぎるように思われますが、共同体の規律を保つためにはこの厳しさが必要だったとしか言えません。

3.取り成しに応えられる神

・今日の招詞に出エジプト記32:32を選びました。次のような言葉です「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・もし、それがかなわなければ、どうかこの私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。民の想像を超える堕落を見て、モーセは彼らを厳しく処分し、残りの者に謹慎を命じてから、再び山に登ります。先に彼は民のために執り成しを行い、主の赦しをいただいていますが、民の罪は彼の許容範囲を超えており、再度赦しを乞う必要があると思ったのです。彼は主の前にひれ伏し、赦しを請い願います。それが招詞の言葉です。
・先に彼は民を厳しく処分しました。それはやがてその罪を自分で贖う覚悟があったからです。執り成しの祈りを行う、他者の罪の贖いをするとは、自分の命を捨てても良いという覚悟があって初めて出来るのです。モーセの祈りが聞かれたのは、彼が自分の命にかえて民の救いを懇願したからです。イエスも言われました「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。10年前この教会の牧師として赴任した時、自分を支えた言葉はこのヨハネ10:11でした。自分の都合ではなく、教会の都合を第一に行動していこうと決意して赴任しました。弱さ故にこの言葉通りに行動できたとは言い切れません。また牧師として適任かどうかも自信はありません。優しさはないし、忍耐心もない。自分勝手で強引です。癖癖しておられる方もいるでしょう。ただ一点、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、この言葉が10年間を支えたのは事実です。この9月が終り、10月になれば新会堂が出来上がります。最も嬉しいのは新会堂には記念堂が付随しており、私たち夫婦も他の方たちと同じく、死んだらそこに入る申し込みをしていることです。文字通り、この教会に骨を埋めることが出来るのを喜んでいます。
・3ヶ月にわたり出エジプト記を読んできました。この書を通して学んだことは、私たちの信じる神は、天に鎮座され、人に関心を持たれない方ではないということです。人が苦しみのあまり、救済の声を上げればそれを聞かれ(3:7)、弱さ故に水がない、食べ物がないと不平を言う民のために、岩を砕いて水を与え、マナを降らせて養われる方です。そして共同体の指導者に律法を与えている時、地上の民がその戒めを破って背信行為をした時、「何とかたくな民」(32:9)と怒られますが、指導者の執り成しの祈りに答えて「災いを思い直される」(32:14)方です。このような方を私たちは「父なる神」と呼んで、祈ることが出来る幸いを感謝します。




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