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みんなの証
みんなの証 : 「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」を読む
投稿者 : admin 投稿日時: 2013-02-07 08:41:17 (2656 ヒット)

毎週木曜日の祈祷会でヨブ記を読んでいますが、その関連で「何故わたしだけが苦しむのか-現代のヨブ記」を読みました。1981年に出版され、アメリカではベストセラーになり、各国語に翻訳されている書です。苦難とは何か、そこに神はどう関わるのかを記した好書と思いますので、ご紹介します。

・幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)が,ヨブ記を例にとりながら,神とはなにか、信仰とは何かを問うた著である。不幸なことがあると,その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかなどと私たちは考える。「罰が当たった,天罰だ」と。あるいは逆に「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思ったこともあろう。しかし著者は,この世に起こる不正義,悪,不条理な出来事は,単なる自然,物理法則によるものであり,神に起因するものではないと断言する。

・ヨブ記では、神自身がこの世で正しいと認めているヨブが何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされる。3人の友人が、それぞれにヨブを元気付けようとして繰り広げる説明は、神は「善にして全能の神のなさることに間違いはない」と。しかし、ヨブは納得しない。逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責める。友人たちは最後にはヨブが神に対して罪を犯したと言って責める。ヨブは神に対して説明を求める。そして最後に神は答える。その最初に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たち、「善にして全能の神」のすることに間違いはないという主張をし続けた人たちへの断罪である。

・本著の著者は、ヨブ記が示すものを三つの命題として提示する。
(1)神は全能であり、世界で生じる全ての出来事は神の意志による。神の意志に反しては何事も起こらない。
(2)神は正義であり、公平であって、人間それぞれに相応しいものを与える。善人は栄え、悪人は滅びる。
(3)ヨブは正しい人である。
・ヨブ記ではこの三つの命題が対立を成す構図を取っていると著者は説明する。何も問題がない時にはこの三命題は共存しうる。しかし何かが起きた時には、どれかを捨てるしかない。3人の友人たちは命題(1)と(2)を守る為に最終的に(3)ヨブの正しさを切り捨てた。神が全能であり、公平であるならば、苦難はヨブの罪としか思えない。

・しかしヨブ記では、(3)の命題は最初に神自身が保証しており、これはヨブ記の読者から見れば明らかな間違いなのである。ヨブは自分が不幸のどん底に落とされる程、自分が悪人だとは思っていない。従って命題(3)は捨てられない。そしてヨブは命題(1)を信じている。この為、ヨブは結果として命題(2)神の正義を疑わざるを得ない。だから神に説明を求めている。

・著者は、この2視点を俯瞰しているヨブ記の記者は、このどちらの見方も否定していると考えている。ヨブ記の記者が神に最後に語らせた神の創造の業の話は、命題(1)神の全能が間違っていることを示すものだと考えるのである。著者は自身の善や正義の為の摂理によって不条理な事件・事故・病気で多くの人々を死なせる神など信仰するに値しないと断言する。それは、ただの独裁的で横暴な神でしかない。

・著者の信じる神は正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる。不条理は神が人の罪に対して起こす罰や、人知では計り知れない神の摂理で起こる事柄ではない。ただ不条理な事象として起こる。神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができないのだと考える。著者は神の力は他のいかなるものよりも大きいが、論理を矛盾させたことまでできるわけではないし、この世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行するような独裁的専制君主などではないと認識しているのである。

・神は混沌に秩序を与えるために世界を創造された(創世記1:1-3「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた「光あれ」。こうして、光があった」)。神の創造は今も行われている。つまり、混沌がまだ残されている。その混沌を私たちは「不条理」と呼ぶ。著者は言う「病人や苦痛に苛まれている人が「一体私がどんな悪いことをしたというのか」と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは「こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか」である」。


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