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みんなの証
みんなの証 : 2019年5月12日聖書教育の学び(2018年12月12日祈祷会、ガラテヤ書3章、律法の回復として福音)
投稿者 : admin 投稿日時: 2019-05-05 17:27:33 (36 ヒット)

2019年5月12日聖書教育の学び(2018年12月12日祈祷会、ガラテヤ書3章、律法の回復として福音)

1.律法と福音の意味

・ガラテヤ諸教会はパウロの伝道によって設立されたが、パウロが去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「割礼を受けなければ本当の救いはない」と説いて、教会に混乱が生じていた。ガラテヤの人々は、割礼を受けようとしていた。パウロは「キリストの十字架を仰いで信仰に入ったのに、何故今割礼を受けようとするのか、霊で始めたものを肉で完成しようとしているのか」と批判する。
−ガラテヤ3:1-3「物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」。
・中心になる言葉は「割礼」だ。割礼とは男性性器の包皮を切り取る行為で、砂漠の不衛生の中で体を清潔に保つために、与えられた戒めとされる。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「選びのしるしとして割礼を受けなさい」と言われた(創世記17:9-11)。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになる。その割礼がやがて、「割礼を受けなければ救われない」とされ、救いの条件になってきた。パウロは「それはおかしい」と主張し、エルサレムの使徒会議もその主張を受け入れたが、一部の人々は依然として割礼の必要性を主張していた。「割礼を受けなければ救われない、そうであればこれまでの信仰は無駄であったのか。そんなことがあるわけはないではないか」とパウロは反論する。
−ガラテヤ3:4-5「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」。
・主はアブラハムの信仰を義とされたが、それは割礼を受ける前であった(創世記15:6-7)。アブラハムは「義とされた」しるしとして割礼を受けたのであり、「割礼を受けたから義とされた」のではない。
−ガラテヤ3:6-7「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」。
・信仰があって行いが生じるのであり、その逆ではない。律法は恵みに対する感謝として与えられたものである。出エジプト記を見よ。主が解放してくださった故に、主の言葉に従えと命じられている。
−出エジプト記 20:2-3「 私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」。

2.律法は人を救わない

・パウロは創世記にあるアブラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていく。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。その時、アブラハムは割礼を受けていない。無割礼の時に救われたのであれば、何故割礼が救いの条件になるのか」とパウロは問いかける。
−ガラテヤ3:7-9「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」。
・律法は人を救わない。人は律法を守ることが出来ない。「殺すな」と言われても、私たちは怒りに駆られて人を呪い、呪いの先には殺人がある。人間は戦争をやめることができない、それは「殺すな」という命令を守ることの出来ないことを意味する。「姦淫するな」と言われても私たちは姦淫を犯し続けている。
−ガラテヤ3:10-12「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」。
・人は律法を守ることは出来ない、律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれた。律法の視点から見れば、「木にかけられたキリスト」は呪われている。しかし神はそのキリストを十字架の死から起こされた、律法の呪いから起こされ、神は律法の無効を宣言されたとパウロは語る。
−ガラテヤ3:13-14「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした」。

3.律法から福音へ

・人は信じて義とされる。それでは律法は何のために与えられたのか。律法は人々に対する祝福として与えられた。奴隷として働かされたエジプトでは休息の日はなかった。疲れた身体を休めるように安息日が出エジプトの民に与えられた。祝福である安息日がやがて、安息日を守らない者は罰すると言う規定に変わっていく。イエスは祝福を呪いに変えてしまった律法学者の罪を指摘する(ルカ14:1-6)。
−ルカ14:1-6「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか』。彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』。彼らは、これに対して答えることができなかった」。
・パウロがガラテヤ書で力説するのも、意味の変えられた律法の虚しさである。
−ガラテヤ3:23-25「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません」。
・「神の子とされたしるしとして割礼を受けよ」という祝福が、「割礼を受けなければ救われない」という呪いに変えられてしまう。そこに人の罪があり、その罪の贖いのためにイエスが十字架につかれた。人が再び神の子とさせていただく道がキリストによって与えられた。それが福音だ。
−ガラテヤ3:26-27「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
・キリストを着た私たちにとって、自分がユダヤ人であるかギリシア人であるか、男であるか女であるかはもう問題にはならない。神の前に、私たちは子として、一つになったからだ。
−ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。

4.ガラテヤ3章の黙想

・パウロは、「律法全体は「隣人を自分のように愛しなさいという一句によって全うされる」(5:14)と語る。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中の「肉の欲」が、「霊の愛」に変えられていく。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲だ。飲酒を断念した人は隣人に言う「自分も飲まないのだからあなたも飲むな」。これが肉の欲だ。
・他方、愛は自分が相手に仕えていく。「私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者のあり方だ。福音さえも律法化する。礼拝は恵みの時、神に出会う時であり、私たちは礼拝を大事にする。しかし大事にした時、礼拝を休む人のことが気になり、やがて「礼拝を守らない人は救われない」と言い出しかねない。その時、福音が律法化する。礼拝に来ない人を呪うのではなく、「礼拝に来ることの出来ない人のために祈り続けていく」、それが福音に生かされた者のあり方だ。
・どうすればそのような生き方が出来るのか。福音の原点、キリストの十字架に立ち戻った時だ。パウロはガラテヤ書の終わりに言う「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(1コリント8:11)ことを思い起こす時、私たちはもはや兄弟を憎むことは出来ない。私たちには、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられている。キリストの十字架に接して、私たちはその自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていく。


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