すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2019年4月14日聖書教育の学び(2015年3月29日説教、ルカ23:32−43、三つの十字架)
投稿者 : admin 投稿日時: 2019-04-07 19:15:05 (39 ヒット)

2019年4月14日聖書教育の学び(2015年3月29日説教、ルカ23:32−43、三つの十字架)

1.自分を救わない救い主

・ルカ福音書を読んでいます。今日はルカ23章から、イエスがどのようにして、十字架上で死んでいかれたかを読んで行きます。イエスはローマ総督ピラトから死刑の宣告を受け(23:25)、兵士たちに引き渡され、鞭打たれ、十字架を背負って刑場まで歩かされました。そして「されこうべ」と呼ばれていた場所まで連れて来られます。「されこうべ」(ギリシア語クラニオン、ヘブル語ゴルゴダ、ラテン語カルバリ)、エルサレム郊外の石切り場が処刑場とされていて、周りから見ると「人間の頭蓋骨」のような形に見えたのでしょう。
・十字架刑を宣告された囚人は横木を担いて街中を引き回され、刑場に着くと両手首を十字架に釘で打ち付けて固定され、十字架が立てられます。手足が固定されていますから囚人の全体重は腕にかかり、傷口からは血が流れ続け、次第に息ができなくなり、死んでいきます。死ねばその遺体は共同墓地等に投げ込まれ、禽獣の餌食にされます。十字架刑は人間の尊厳を徹底的に貶める残酷刑で、重罪を犯した奴隷やローマに逆らった反逆者等に対してのみ行われる特殊刑です。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げてありました。イエスはローマ帝国への反逆者として処刑されたのです。
・ルカは「他にも二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行き」、「犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」(23:32-33)と記します。処刑場には三本の十字架が立てられました。そこには処刑を見るために来た議員たちがいました。彼らは十字架につけられたイエスを嘲笑して叫びます「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:35)。「自分を救えない者がメシア(救済者)といえるのか」という嘲りです。処刑の実行役であるローマ兵たちもイエスを侮辱します「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23:37)。兵士たちは「お前のどこに王の威厳があるのか」と嘲ります。彼らの嘲笑の言葉は同じです「お前は救い主ではないのか。何故自分を救えないのか」。
・イエスは「自分を救えない救い主」と嘲笑されています。人々がイエスに求めたのは、栄光の救い主です。力によって敵を打ち倒し、人々の尊敬と信頼を勝ち取って、自ら道を切り開いていく救い主です。人々は、病人を癒し、悪霊を追い出されるイエスの行為に、神の力を見ました。力強い説教に、神の息吹を感じました。神の力があれば、自分たちの生活を豊かにしてくれるに違いないと人々は期待しました。しかし、イエスはその期待に応えることが出来ず、今惨めな姿を十字架に晒しています。「民衆は立って見つめていた」(23:35)。彼らもイエスに失望しています。全ての人が自分を嘲笑する中で、イエスは驚くべき言葉を語られます「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)。
・この言葉は新共同訳では括弧の中にあります。凡例によれば、「新約聖書においては後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示す」とあります。つまり早期の有力写本の中にないため、本来のルカ福音書には含まれておらず、一部の聖書学者たちは「これは真正のイエスの言葉ではない」とします。しかし使徒行伝7:60ではステパノがこの祈りに通じる祈りを祈っており(「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」)、初期の教会伝承の中にこの言葉があったことは確かで、多くの聖書学者はこの祈りは「イエスに遡る」と考えています。私自身もこの祈りはイエスに遡ると理解しています。イエスは「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(6:36)と言われ、「もし兄弟が罪悔い改めれば、赦してやりなさい」(17:3)とも語られました。そのイエスだからこそ、自分を殺そうとする者たちのために、とりなしを祈ることが出来た。そのように思います。

2.一人は罵り、一人は憐れみを求める

・「父よ、彼らをお赦しください」というイエスの祈りは、イエスと共に十字架につけられていた二人の人間に別々の反応を引き起こしました。犯罪人の一人はイエスを罵ります「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。私が欲しいのは今この十字架の苦しみから解放する力なのだと。彼はイエスを嘲笑した議員や兵士たちと同じ立場に立ちます。世の人々も同じ考えでしょう。この世の理解では、「自分を救えない者は他者をも救えない」のです。同時に救いとは「今現在の苦しみからの解放」です。
・しかし、もう一人の犯罪人は別の立場に立ちます。彼は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(23:40-41)。そしてイエスに懇願します「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(23:42)。彼は訴えました「私は罪を犯したのだから、死刑にされても仕方がない。私には救って下さいと要求する資格はないが、それでも憐れんで下さい」と。その男にイエスは言われました「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23:43)。
・二人の犯罪人はイエスと共に十字架につけられ、イエスの「父よ、彼らをお赦しください」という祈りを聞きました。一人はその言葉をイエスの祈りを虚しい言葉として聞きました。もう一人はその言葉の中に神を見出しました。イエスと共に十字架にかけられたこの二人はどういう人々なのでしょうか。ルカは彼らを「犯罪人」と呼び(23:32)、マルコは「盗賊」(マルコ15:27)と呼びます。しかし二人共ローマ軍によって十字架につけられていますので、単なる犯罪者や盗賊ではなく、ローマからの独立運動に従事した熱心党(ゼロータイ)と呼ばれた人々だったのでしょう。彼らもまたローマへの反逆者として、見せしめの刑に処せられています。

3.ゴルゴダで教会が生まれた

・今日の招詞にローマ6:6−8を選びました「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」。イエスの十字架の場には民衆がいました。彼らは黙ってイエスの処刑を見つめています。そして二人の犯罪者たちもいました。彼らはイエスと同じように十字架につけられ、苦しんでいます。民衆は傍観者ですが、二人の犯罪人は当事者です。二人は手足を釘で十字架に固定され、その場から去ることが出来ないからです。彼らは否応なしに「イエスと共に死んで」いきます。その中の一人はイエスに語ります「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」。それに対してイエスは約束されます「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。彼は「キリストと共に死んだから、キリストと共に生きる」、復活の恵みに預かったことでしょう。
・もう一人の犯罪人はイエスを罵りました「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。彼もまたイエスと一緒に死んだから、イエスと一緒に復活の恵みに預かるのでしょうか。私たちにはわかりません。しかしイエスはかつて言われました「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦される」(マルコ3:28)。自分を殺そうとする者に対して「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた方は、自分に罵りの言葉を投げかけたこの犯罪人のためにも祈られています。
・イエスの「父よ、彼らをお赦し下さい」という祈りについて、ある人は「人間が生まれて、祈り始めてから、これ以上に神聖な祈りの言葉が天に捧げられたことはない」と語ります。何故、イエスはこのような祈りをすることができたのでしょうか。神の子だから出来たのでしょうか。しかし、聖書は、イエスが激しい葛藤の末に、この祈りに到達された事を示しています。捕らえられる前の晩、イエスはゲッセマネで祈られました「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい」(22:42)。イエスは死を恐れ、自分を殺そうとする者に憎しみと恐怖を持たれていたのです。しかし、イエスは続いて祈られます「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。人間としての思いと神の子としての思いが葛藤し、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22:44)。その試練に勝たれたゆえに、今イエスは、自分を殺そうとする者たちのために祈ることが出来るのです。
・このイエスの祈りが二人の人間を信仰に導きました。一人はイエスと共に十字架にかけられていた男です。彼はローマ支配に武力で抵抗し、反逆罪で捕えられ、十字架にかけられています。彼は武力でローマを倒そうとして失敗し、今その過ちを悟りました。神の名によって為されても、暴力は暴力であり、そこからは何も良いものは生まれない。そして心からイエスに求めます「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」(23:42)。イエスの十字架上の祈りが、ここに最初のクリスチャンを生みました。
・十字架の現場では、さらにもう一人のクリスチャンが生まれています。イエスの十字架刑の執行を指揮していたローマ軍の百人隊長です。ルカは記します「百人隊長はこの出来事を見て、『本当にこの人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」(23:47)。彼はイエスが、自分を殺そうとする者たちの赦しを祈って死んでいかれたのを見て、そこに神の存在を感じたのです。その時、十字架というおぞましい出来事が、「神を讃美する」出来事に変えられていきました。復活のイエスに出会って信じた人たちはいます。聖霊降臨に動かされて信徒になった人たちも大勢います。しかし、それに先立って、十字架の現場で信じた二人がここにいるのです。ゴルゴダの丘で教会が生まれたことを私たちは銘記したいと思います。


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