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みんなの証
みんなの証 : 2019年3月24日聖書教育の学び(2016年10月19日祈祷会、ルカによる福音書17:11-30、神の国が来た)
投稿者 : admin 投稿日時: 2019-03-17 22:24:37 (161 ヒット)

2019年3月24日聖書教育の学び(2016年10月19日祈祷会、ルカによる福音書17:11-30、神の国が来た)

1.らい病を患っている十人の人をいやす

・らい病人のいやしが11-19節に語られる。エルサレムへの途上で、らい病者たちがイエスのいやしを乞い求めた。らい病(ヘブル語ツァーラト)は伝染病として、また宗教的に不浄な病として、人々から忌み嫌われ、「自分はらい病なので近寄らないでくれ」と叫ぶことを義務付けられていた(レビ記13:45-46)。だから彼らは遠くからイエスに呼びかけている。
−ルカ17:11-13「イエスはエルサレムへ上る途中、ある村へ入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんでください。』と言った。」
・イエスは彼らを憐れみ、その病をいやされた。律法では、らい病をいやされた者は祭司の所に行って体を見てもらい、いやされたことが確認されて清めの儀式を行えば、社会の交わりの中に復帰することが許されていた(レビ記14:19-20)。
-ルカ17:14「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」
・病気を癒された十人のうち、他の九人は神殿への旅を続けた。いやされたことを早く祭司に証明してもらいたい、そうでなければ世間では通用しないと思ったのだろう。しかしサマリア人は体の清めを祭司に見て貰う前にやるべきことがあると思った。このサマリア人はイエスの業の背後に神を見た。だから彼は「大声で神を賛美しながら」戻ってきた。
-ルカ17:15-16「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」。
・十人のらい病者がイエスにいやされ、そのうち一人だけがイエスに感謝するため戻って来た。イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った」と語り、彼を祝福した。九人のらい病者は「病を清くされた」が、「魂が救われてはいない」。このサマリア人はらい病をイエスによっていやされ、イエスの元へ戻り感謝することで、救われた。感謝が彼の信仰となり、信仰が彼を救った。
−ルカ17:17-19「そこでイエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったのか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」
・サマリア人は劣等民族としてユダヤ人から差別されていた。お互いが病の苦しみの中にある時はユダヤ人もサマリア人もなく、絆が固く保たれていた。しかし一度病がいやされると、ユダヤ人はユダヤ人、サマリア人はサマリア人に分離してしまう。サマリア人は一人にされたが、彼の顔は輝いている。神に出会ったからだ。イエスは彼に言われた「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。ルカは「いやしと救い」を明確に区別する。病気が治されるいやしと、神の前に罪を赦される救いが、区別されている意味を考える必要がある。イエスはサマリア人に言われた「立ち上がって行きなさい」。サマリア人は神の業に参加するよう召命を受けた。彼は祝福を受ける者から祝福を運ぶ者に変えられていった。
・榎本保郎牧師はこの物語に関して次のように語る「私たちにとって大事なことはイエスから何かをしてもらうことより、イエスが共にいて下さることを知ることだ。例え死の陰の谷から救いだされても、また落ちて行くのが人生だ。死の陰の谷から救われる(病気がいやされる)ことが究極の喜びではない。それよりも死の陰の谷を渡ってもそのことを恐れない(信仰が与えられる)ことのほうが大切ではないか」(榎本保郎「新約聖書1日1章」)。

2.神の国が来た

・ファリサイ人が、「神の国はいつ来るのか」とイエスに尋ねた。イエスは「神の国は今あなたがたの中にあるではないか」と言われた。「私が来た、それこそが神の国(神の支配)の始まりではないか」と。
-ルカ17:20-21「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』」。
・ルカ17章にはイエスの終末預言が述べられているが、当時の人々は終末、神の国を待望していた。イスラエルはローマ帝国の植民地であり、その前も異邦人の支配下にあった。これは「自分たちこそ神の選びの民」と信じるイスラエル人にとっては耐えられない現実だった。彼らは神がこれら異邦人を滅ぼすために、メシア(救世主)を遣わし、いつの日か自由になる日が来ることを待望した。その日こそ、「終わりの日、自分たちが解放される日」である。ファリサイ人もまた神の国を待望していた。だから彼らはイエスに尋ねる「神の国はいつ来るのか」。
・ファリサイ人は納得しない。ファリサイ人はイエスがメシアであるとは信じていない。そこでイエスは、ファリサイ人との対話を止め、弟子たちに神の国の奥義を語られる。
-ルカ17:22-25「それから、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。見よ、あそこだ、見よ、ここだと人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。』」
・ユダヤ教の神学者マルテイン・ブーバーは「イエスはメシアではなかった」と批判する。イエスをメシア(キリスト)と信じるか、信じないかで、人生は分かれていく。
-マルテイン・ブーバー「イエスにおいてメシアは来ているとの主張は真実でありえない。さもなくば、世界はこのように全く贖われていないように見えるはずはない。それゆえ、なお来るべきメシアというユダヤ教の期待はより信頼に値する」。

3.終末を覚えよ

・イエスは、「終末は必ず来る、あなたがたは目を覚まして待ち望め」と言われた。「ノアとロトに起こった事を思い起こせ」とイエスは話を続けられる。ノアは「洪水が来るから箱舟を造りなさい」という主の言葉を受けて箱舟の建造を始めるが、人々はノアを嘲笑し、食べたり飲んだり娶ったりして、現在の楽しみを追い求めた。その結果洪水でこれらの人々は滅ぼされたではないかとイエスは言われる。
-ルカ17:26-27「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れる時にも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」
・またロトの時代の事を思い起こせとイエスは警告される。主はソドムを滅ぼすことを決意され、ソドムに住むロトに「山に逃げよ」と言われた。ロトは親族たちに「共に逃げよう」と呼びかけるが、誰も本気にせず、その結果、ソドムの町は焼かれ、住民は死に絶えた。終末の準備をしない者は滅びるとイエスは警告されている。
―ルカ17:28-29「ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて一人残らず滅ぼしてしまった」。
・人の子が現れる時は、ノアやロトの時と同じように、審判の時である。その日屋上に居る者は部屋に戻ってはならない。畑に居る者は家に帰ってはならない。その時は、審かれて神の国へ入れられるか、世に残されて滅ぼされるか、厳しい裁きの時である。その時は財物であれ世の地位であれ、何の役にも立たない。ロトの妻のように後を振り返ってはならないのだ。
−ルカ17:30-31「『人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。』」
・矢内原忠雄は「再臨と審判」について述べる。「キリストが王として再臨し、最後の審判をなし給うのは、突如として、しかも一瞬の中に行われる・・・その時、我らが蓄えた財産や器物が何の益になろうか、いかに自分が大切に愛用した器物であっても、それを携えて神の国へ入るのではなく、我らは一切のこの世の所有物から即時に離れて、神の国に移されねばならない・・・その場に及んで地上の所有物や、親戚、肉体の生命に未錬と執着を持つ者は、ロトの妻のように滅ぼされる。これに反し地上の一切を捨てる者は、神の国に取り上げられて、永遠の生命を与えられる。『およそ己が生命を全うせんとする者はこれを失い、失う者はこれを保つべし』(ルカ17:33)とイエスが言い給うはこのことなり」(矢内原忠雄「聖書講義供▲襯伝」、岩波書店)。
・初代教会の人々はイエスの復活を見て、この人こそメシアだと信じた。そのメシアは終末の時に来ると旧約聖書は預言している。「メシアが来られた、終末が始まった。自分たちの生きている間に、世の終わりが来る」と信じた彼らは、土地や建物を売って共同体に献げ、共に住み、祈り、終末を待った。その緊張感が教会を立てあげて行った。現代の私たちは、終末や再臨の緊張感はない。結果的に終末は来なかったし、またいつ来るかわからないからだ。


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