すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2019年3月16日聖書教育の学び(2007年9月30日説教、ルカ16:19−31、この世で富むか、天の国で富むか)
投稿者 : admin 投稿日時: 2019-03-10 15:41:49 (99 ヒット)

2019年3月16日聖書教育の学び(2007年9月30日説教、ルカ16:19−31、この世で富むか、天の国で富むか)

1.富は祝福なのか呪いなのか

・先週私たちはパウロがテモテに書いた手紙を通して、富の問題を考えました。パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です」(汽謄皀6:10)とまで言います。パウロは富そのものを否定しませんが、その富を自分だけのために用いようとする時、富は自分も他人も滅ぼす悪の根源になると言うのです。このパウロの言葉はイエスの言葉をよりどころとしています。イエスが富について話された箇所の一つがルカ16章です。今日は先週に続いて、富、あるいはお金の問題について、聖書から聞いていきます。
・イエスが集まった人々に「不正な管理人の話」をされたところから16章が始まります。こういう話です「ある金持ちの財産管理をしている者が、主人の財産を浪費して、解雇されることになった。管理人は職を失った時のことを考え、主人に負債のある者を呼び出し、ある人の負債を半分に、別の人は20%負けてやった。管理人を辞めさせられても、人々に恩義を売っておけば援助してくれるだろうと考えたからだ」。イエスはこの抜け目の無い管理人をほめられます「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(16:9)。彼は主人の金を用いてでも、富を現在ではなく将来のために使ったことをイエスは賞賛されたのです。そして言われます「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)。
・パリサイ人はこの話を聞いて嘲笑しました。彼らは「自分たちは、神と富の双方に仕えることができる」と考えていたからです。彼らの考えはこうです「自分たちが豊かなのは一生懸命働いたからだ。貧乏人が貧しいのは彼らの働きが足りないからだ。聖書は正しい者は神の祝福を得る、その祝福とは穀倉が満たされる事だと言っているではないか(申命記28:8)。経済的繁栄は神の恵みなのだ」。このパリサイ人の考え方は今日でも主張されています「たくさん働いた人が多くの収入を得るのは当然であり、一部の人が貧しいのは自業自得なのだ」。前の小泉首相が主張し、安部政権が継承した「市場原理主義、自己責任原則」です。日本ではこの政策によって貧富の格差が拡大しました。先日発表されました国税庁調査では、年収300万円以下の労働者比率が38%になりました。短時間労働を志向する傾向のある女性を除いた男性だけでは、21.6%が年収300万円以下です。働いても、家族を養えない人が労働人口の1/5になったのです。もはや個人の努力の問題ではなく、社会構造の問題です。貧富格差をどうするかは、2000年前からあった、そして解決されていない問題なのです。この問題を解決するためにイエスは、「金持ちとラザロの例え」を語り始められます。この問題は現代の私たちの問題なのです。

2.金持ちとラザロの例え

・物語は三幕の劇のように構成されています。第一幕には金持ちとラザロの二人が登場します。金持ちは「紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(16:19)。彼は別に浪費家でもなく、また、雇い人を搾取しているわけでもありません。ただ、自分に与えられた富を自分のためだけに使っているだけです。その金持ちの屋敷の前に貧乏人ラザロがいました。彼は飢えと病気で動けず、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていましたが、ただ犬が来てラザロの傷をなめるだけでした。第一幕では、金持ちは金持ちのまま、貧乏人は貧乏人のままです。
・第二幕は22節から始まります。ラザロも金持ちも死にましたが、ラザロは天国でアブラハムと宴席についており、金持ちは陰府で火に焼かれています。第一幕では金持ちは贅沢に飲み食いしラザロは食べるものもありませんでしたが、第二幕では立場は逆転し、ラザロが宴席に着き金持ちは苦しんでいます。金持ちは苦しさのあまり、天国のアブラハムに呼びかけます「父アブラハムよ、私を憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。私はこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(16:14)。生前に金持ちはラザロを貧乏人として馬鹿にしていました。今でもラザロを召使のように思っています。「ラザロを寄越して、私の苦しみを軽減させてください」と彼は求めています。アブラハムは金持ちの呼びかけに冷たく答えます「私たちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に越えて来ることもできない」(16:26)。もう最後の裁きが為された、覆すことはできない、自分のことしかしか考えなかったお前は神の国に入ることはできないと宣告されています。
・三幕目は27節から始まります。金持ちは自分のことはあきらめましたが、兄弟のために救いの使者を送ってほしいと願います「私の父親の家にラザロを遣わしてください。私には兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(16:27-28)。金持ちは初めて自分以外の人のことを考えました。アブラハムはこの願いも拒絶します「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(16:29)。どう生きるべきか、何をなすべきか、「モーセと預言者」に、すなわち「聖書」に書いてあるではないか。神の御心が書かれている聖書の言うとおりにすればよいのだと。金持ちは反論します「私も聖書は読んでいましたが、悔い改めることはしませんでした。もし、死者が生き返る等のしるしが与えられれば兄弟たちも信じるでしょう」。アブラハムは再度拒絶します「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を通して神の御旨は明らかになっている、聞こうとしない者が悪いのだとアブラハムは言いました。しかし、神は私たちにもう一度機会を与えてくれました。それがイエスの死と、死からの復活です。だから私たちは「主は復活された。復活の主の言葉を聞け」と宣教を続けるのです。

3.貧しい人に手を大きく開きなさい

・この物語は因果応報を教えたものではありません。今は貧しくとも来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさいと言われているのではありません。また、金持ちは金持ちゆえに陰府で苦しむではありません。聖書はザアカイという金持ちの救いの話も記述しています(ルカ19:8-9)。この金持ちは貧しい者を憐れまなかったから地獄に落ちたのです。富が悪いわけではありません。ただ、その富を自分のためだけに使うことは、不正であり、責任を問われることなのです。
・今日の招詞に申命記15:11を選びました。次のような言葉です「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。この申命記15章を見ますと、パリサイ派の人々が、聖書をいかに自分の都合の良いように、持っている富を隣人に与えなくても良いように読んでいたかがわかります。私たちの持っているもの、命もお金も時間も全て神から貸与されたものです。私たちはそれを良い管理人として管理しなければいけないのに、それをあたかも自分だけのもののように用いるとき、私たちはその報いを受けなければいけないと聖書は教えるのです。
・アルベルト・シュバイツアーはその生涯をアフリカの人々の医療のために捧げたことで有名ですが、彼が医者としてアフリカに行くきっかけになったのは、30歳の時に読んだこの「金持ちとラザロの話」です。彼は自伝「水と原生林のはざまで」という本の中で次のように述べています「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。その金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。彼は大学教授の職を捨て、医学を学び、38歳で医者として赤道アフリカに行きました。
・私たちはシュバイツアーではありません。しかし、同じように「金持ちとラザロの話」を読みました。何かを行う事が求められています。私たちがクリスチャンであるかどうかは、私たちが人を愛するかどうかにかかっています。人を愛するとは相手に関心をもっていくこと、相手が困っていればそれを自分の問題として考えることです。具体的には、「自分の財布を開き、自分の時間を割く」ことです。申命記は私たちに警告します「あなたは、自分の力と手の働きで、この富を築いたなどと考えてはならない。・・・富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が・・・今日のようにしてくださったのである」(申命記8:17-18)。私たちが持っているものは、私たちが手に入れたものではなく、神の憐れみによって与えられたのです。ですから、神から預けられたものを神に返していく、隣人のために用いていく生き方が必要です。そのような生き方が天の国で富むことです。
・この世で富んでもそれは一時的なものであり死ぬ時には持っていけない、死ぬ時に持っていけないものに支配されるなと言われているのです。世の金持ちは、本当は不幸なのです。何故なら、彼は満ち足りているゆえに、この真理を知らないし、知ろうともしないのです。だからイエスは言われます「富んでいるあなたがたは、不幸である・・・今満腹している人々、あなたがたは、不幸である・・・すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」(ルカ6:24-26)。私たちは経済的な貧しさや挫折や苦難を通して、この真理を知りました。だから、バプテスマを受けてキリスト者となりました。「そこからもう一歩踏み出しなさい。自分の財布を開いて、そのお金を天に積みなさい」と招かれていることを、今日は共に覚えたいと思います。


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