すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年12月30日聖書教育の学び(2005年1月2日説教、マタイ2:13-23、難民となられたイエス)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-23 16:47:28 (106 ヒット)

2018年12月30日聖書教育の学び(2005年1月2日説教、マタイ2:13-23、難民となられたイエス)

1.クリスマスの後で

・12月26日、クリスマスの翌日、スマトラ島沖で大地震が起き、10万人を超える人たちが死んだ。多くの子供たちが津波のために命を落とし、子を無くした母親の嘆きの声がテレビで放映された。私たちは思う、自然も含めてすべては神の権限のもとにある。神が許されなければ、地震も津波も起きなかったであろう。神は何故このような災害が起こることを許され、10万人を超える命が失われることを許容されたのだろう。しかも、クリスマスの喜びの時に。聖書は、イエスが誕生された時、まさにクリスマスの時に、同じような悲しい出来事が起こったと告げる。それがマタイ2章の出来事だ。
・イエスが生まれられた時、東方にしるしの星が現われ、星に導かれた三人の占星術師たちが、救い主に会うために、エルサレムに来た。彼らはエルサレムの王宮にヘロデ王を訪ねた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。救い主がユダヤ人の王としてお生まれになった、この知らせは地上の王であるヘロデに不安をもたらした。ヘロデは、自分を脅かす者が生まれたとの知らせに、猜疑心を強め、自分の王位を守るために新しく生まれた王を殺そうとする。彼は兵士に命令を出し、ベツレヘムとその一帯の2歳以下の男の子たちをすべて殺させた。子供たちを殺された母親の嘆きの声がベツレヘムにとどろいた。マタイは記す「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(マタイ2:18)。
・ベツレヘムで殺された幼子たちの親や家族は、何が起きたのか、何故こんなことをされねばならないのか、わからなかったであろう。彼らはメシアが生まれた事も、そのことに危惧を感じたヘロデが、可能性のあるすべての幼子を殺そうとしたことも知らなかった。何も知らないうちに、家族は、突然に、悲しみのどん底に突き落とされてしまった。彼らは思ったであろう、神は何をしておられるのか。神は何故このようなことを許されるのか。その混乱の中で、生まれたばかりのイエスは父ヨセフに連れられてエジプトに逃れられた。クリスマスとは、生まれたばかりのイエスが、ヘロデにより命を狙われて避難され、ベツレヘムに残った他の子供たちは無残にも殺されていった出来事だとマタイは述べる。
・夢でヘロデの陰謀を知らされたヨセフは直ちに、幼子とその母を連れて、エジプトに逃れた。そしてヘロデが死ぬまでそこにいたと記されている。イエスが生まれられたのは紀元前6年、ヘロデが死んだのは紀元前4年であるから、イエスは2年間エジプトに滞在されたことになる。その間にどのようなことがあったのか、聖書は何も言わない。異邦の土地での難民生活は楽ではなかったであろう。今も、この地球上には2500万人の難民がいる。彼らの暮らしが楽でないように、イエス一家のエジプトでの暮らしも苦労の連続であったであろう。
・やがて、ヘロデ王は死んだ。ヨセフは夢でヘロデの死を知らされ、ユダヤに帰ってきた。しかし、そこにまた新しい難関が待ち受けていた。ヘロデ王が死んだ後、イスラエルは三人の息子に分割され、ユダヤは長男アケラオが領主になった。この男は父以上に残忍な王であったと歴史書は記す。そのため、イエスとその家族はベツレヘムに戻ることが出来ず、アケラオの支配の及ばないガリラヤに逃れ、ナザレの町に住んだ。こうして、イエスはガリラヤのナザレで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになった。イザヤは預言している「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:1-2)。この若枝がヘブル語のナザレだ。マタイはイザヤのメシア預言が、イエスがナザレに住まれることで成就したと考えている。どのような人間の闇の中にあっても、神はイエスと共にいて、イエスを守っておられたとマタイはこの預言を通して主張している。

2.何故イエスは難民となられたのだろうか

・イエス誕生の出来事の中に闇があったとマタイは証言する。メシアの誕生を喜ばず、不安を抱いたヘロデにより、幼児虐殺が起こされた。しかし、マタイはこの恐ろしい出来事の中に、一つの意味を見出している。そのことを知る言葉がマタイ2:18だ。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。この言葉のどこに救いがあるのだろうか。
・今日の招詞にエレミヤ書31:15-17を選んだ。次のような言葉だ。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
・この預言の前半をマタイは引用して、ベツレヘムの悲しみを述べた。そして彼は後半の言葉を思い起こせと私たちに告げる。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。ラマはイスラエルの民がバビロンに連行された時、捕囚民が集合を命じられた場所だ。子供たちが捕虜として敵地に連れて行かれる、その光景を見て、イスラエルの母親たちは泣いた。その時、神は言われた「この悲しみはいつまでも続かない。この悲しみは終わる。あなたが流したその涙は報われる。あなたの息子たちは帰って来る。その希望を持って待て」。
・イエスはヘロデの陰謀から逃れられた。残されたベツレヘムの息子たちは殺された。母親たちは涙を流した。しかし、その涙は報われる。キリストの苦難はその出生と共に始まった。その苦難は十字架で完成される。エレミヤは主の言葉を続ける「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。・・・私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミヤ31:33)。イエスは十字架にかかられる前日に弟子たちと最後の食事をとられ、言われた「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。神はイエスを十字架につけるために、生まれたばかりのイエスの命をヘロデから助けられたのだ。
・ある者は幼い時に死ぬ。別の者は天寿を全うして死ぬ。人間の目から見れば、その差は大きい。だから、私たちはベツレヘムの幼子たちが無残にも殺されることに納得しないし、津波で多くの子供たちが死んだことも理解できない。聖書は語る、何故ベツレヘムで多くの子供たちが殺されたのか。人間の心の中にある闇のためではないか。この闇をどうすれば取り除けるのか、それを求めよと。
・しかし、人は言うだろう、今回の津波は自然災害ではないか。人の罪、人の闇がどう関係するのか。今回の津波で、被害が大きいのは貧しい国々だ。スリランカでは27000人が死んだ。しかし、その隣にあるモルディブでは死者は60人しか出ていない。桁違いに少ない。毎日新聞は12月28日付夕刊で次のように伝えた「モルディブの人口の約3分の1が住む首都マレでは、日本からの公的支援で建設された防波壁が、島を津波の大惨事から守ってくれたとの見方が広がっている。海抜1メートルしかない1200の島々から成る同国は地球温暖化の進行で国全体が沈みかねないとの不安を抱え、常に海面上昇への恐怖と隣り合わせで生きてきたが、88年以降、進めてきた首都の護岸工事が壊滅的な被害を回避するのに貢献したと、島民は口々に語った」。ここまで被害が広がったのも、必要なことを為さなかった人災の面が強い。やはり、闇は人間の罪から広がるのだ。
・この闇をなくすためにイエスは生まれられ、難民となられ、十字架に死なれた。人が苦しむ、その苦しみは決して無駄ではなく、苦しみを通して救いが与えられることを示されるために、イエス自らが苦しまれた。その十字架に出会って、人の心は変えられる。十字架を見て、人は自分の罪を知り、悔い改める。その悔い改めを通して、心の中の闇が解け始める。「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と言う出来事が起こる。ヨハネは言った「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(汽茱3:16-18)。ヘロデは特別の悪人ではない。私たちの中にも小ヘロデがいる。自分の命を守るために、他の人の命を何とも思わないで見捨てる自分がいる。そのヘロデ的存在が、他者のために命を捨てようという存在に変わる出来事が起きる。それが十字架の出来事だ。
・年の初めに、人々は今年1年が無事でありますように、災いが来ませんようにと祈る。しかし、キリストに出会った者は別の祈りをする「今年もまた、苦しみや悲しみがあるでしょう。それは人の罪が造るものです。その闇を取り除くために、私たちに何が出来るか、教えて下さい。仮に、私たちに災いが来ました時には、その災いを通して、あなたが何をされようとしておられるのかを求めることが出来ますように」。


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