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みんなの証
みんなの証 : 2018年12月16日聖書教育の学び(2012年12月16日説教、マタイ1:18-25、インマヌエル誕生の告知)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-09 12:33:31 (118 ヒット)

2018年12月16日聖書教育の学び(2012年12月16日説教、マタイ1:18-25、インマヌエル誕生の告知)

1.イエスの生誕告知

・クリスマスを前にしたアドベントの時を迎えています。今日が降誕前第二主日,次週はクリマスマ主日です。今日私たちに与えられました聖書箇所はマタイ1章のイエス降誕の告知記事です。ルカ福音書では主役は母マリアで,彼女に受胎告知が為されますが、マタイ福音書の主役はマリアの夫ヨセフです。マタイは物語を始めます「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。「聖霊により身ごもる」、マタイは、普通の人にとってはつまずきになるであろう言葉を、何の説明もなしにここに述べます。
・人は通常は父と母から生まれます。ヨセフはマリアの婚約者でしたが、まだ一緒には暮らしていません。その婚約者が自分の知らない内に身ごもった、人間的に見れば、マリアが姦淫の罪を犯したと思わざるをえないでしょう。当時のユダヤでは婚約は結婚と同様の法的意味を持ち,仮に婚約中の女性が姦淫を犯すと,その女性は石打の刑にされました(申命記22:23-24)。ヨセフはマリアの妊娠に驚き、マリアを離別しようとします「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。自分の関知しない妊娠を受け入れることはできない、しかし表沙汰にすればマリアへの制裁がある、だからヨセフはこっそりと離別しようとしたのでしょう。しかし、夢で主の使いが現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と聞かされます。
・現代の私たちが「聖霊による懐妊」につまずくように、ヨセフもつまずいたでしょう。「聖霊により身ごもる」、人間的には理解が難しい問題です。ただ、ヨセフはマリア自身に妊娠の責任がないことを何らかの理由で納得し、マリアとその子を受け入れる決心をします。マタイはその間の事情を一切説明しません。しかし、私たちは疑問を覚えます「神は何故、人がつまずくような方法で、イエスをこの世に送られたのだろうか」という疑問です。
・そのイエスの出生の意味を知る手がかりが、誕生物語の前にあるイエスの系図の中にあると思えます。この系図には4人の婦人の名前が記されています。最初のタマル(1:3)はエルの妻となりますが、エルが死に、当時の習慣に従って、弟の妻となります。しかし、その弟も死に、舅のユダは、次の子も死ぬのではないかとおそれ、タマルを三男の嫁にせず、実家に戻します。子を産まずに実家に戻されることは、当時の女性にとって最大の屈辱でした。タマルは、遊女を装って舅ユダに近づき、子を産みます(創世記38章)。次のラハブ(1:5)はエリコの遊女でした(ヨシュア記2:1)。彼女はイスラエル軍のエリコ攻略を助け、イスラエルの武将と結婚します(ヨシュア記6:22‐25)。しかし、前身は遊女であり、世間的には汚れた女性です。三番目のルツ(1:5)はモアブの女性で、夫は早く死に、姑を助け、やがて夫のいとこと結ばれて、子を産みます(ルツ記4章)。ルツはユダヤ人の嫌う異邦の女性でした。最後のウリヤの妻バテシバ(1:6)は、夫が戦場にいる時ダビデ王に召し入れられて妊娠し、ダビデは夫ウリヤを殺して彼女を妻とし、バテシバはダビデによってソロモンを生みます(競汽爛┘覽11-12章)。彼女もまた姦淫の女性といわれても仕方がない経歴の持ち主です。
・家父長制をとる古代の系図は、通常は男性だけで構成されますが、イエスの系図の中には、4人の女性の名が入っており、しかも彼女たちは、異邦人とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれています。何故でしょうか。マタイは「世の人々が恥とし、不名誉とし、引け目とする出来事を、神は受け入れ、清くしてくださる、そのためにキリストを遣わされた」という信仰をここで告白しているのです。
・人間の歴史は罪の歴史です。系図はまさにそれを示します。その罪の歴史を断ち切り、購うために、神はその一人子を罪の只中に遣わされた。神は人間の生誕にまつわる全ての悲惨を、イエスの上に置かれた。マタイはそう理解してこの系図を書いているのです。系図の最後にマタイは書きます「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:16)。もし、ヨセフがマリアとその子を受入れなければ、この系図は完成しなかったでしょう。同時に、マリアとその子もまた悲惨さの中に放り込まれたでしょう。当時母子のみで生きていくのは困難な社会でした。世には多くの悲惨がある、どうすればこの世からそれらの悲惨な出来事をなくすことができるのか、それは「神に働きかけられた人の善意の働き以外にはない、そのことを示すために、神はヨセフを用いられた」とマタイは理解したのです。

2.インマヌエル(神共にいます)の命名

・ヨセフは生まれた子を「イエスと名づけなさい」と命じられます(1:21)。イエスとはヘブル語「イエホシュア=ヤハウェ救いたもう」という意味です。この「イエホシュア」が短縮されますと「ヨシュア」になります。このヘブル語ヨシュアがギリシャ語「イエスース」になり、日本語では「イエス」になります。私たちの教会には二人の「ヨシュア」が与えられています。末常喜愛君、宮崎良弥君の二人の幼児です。このお二人はイエスのように「主は救いたもう」という祝福の名前を与えられているのです。
・「主は救いたもう」、たとえ私たちの親が、タマルやバテシバのような罪人であっても、否、私たち自身が肉の欲に負けて罪を犯さざるを得ない弱さを持っていても、神は私たちの弱さを理解し、受け入れ、救って下さることを示すために、ヨセフに「イエス=神救いたもう」という名前をつけよと命じられます。神が求めておられるのは、私たちの罪を裁くことではなく、私たちがイエスを通して清められることです。だから「神は救いたもう」という名前が幼子につけられました。
・次にマタイはイザヤ7:14の預言を引用します「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。インマヌエルはヘブル語で、「神共にいましたもう」という意味です。「神はあなた方を見捨てない。どのような悲惨さがあなたがたの人生にあっても、神はそれを受け入れ、いやしてくださる、神がそのような方であることを、この生まれる子は証しするであろう」と主の使いはヨセフに語ったとマタイは伝えます。クリスマスに起きたことは、「イエス=神救いたもう」という名の子が私たちに与えられ、その子は「インマヌエル=神共にいます」ことを約束する子だとの祝福があったということです。

3.インマヌエルの方との出会い

・今日の招詞としてヨブ記42:5−6を選びました。次のような言葉です「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。ヨブは正しい人で、神を畏れ、子どもに恵まれ、多くの財産を持ち、周りの人からも尊敬されていました。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。彼は家族を奪われ、財産を奪われ、いまわしい病気が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、ヨブは神に呪われていると思い始めます。ヨブは当初、災いを受け容れますが、苦難がひどくなるに従い、運命を呪い始めます。そして神に異議申し立てをします「何故あなたは正しく生きてきた私に悪人と同じような裁きをされるのか、あなたは本当にこの地上を支配しておられるのか」。
・そのヨブの訴えに対して、神が大風の中から回答されます「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(38:2)。神はヨブの疑問に直接答えられず、ただ「あなたはどれだけ私のことを知っているのか。あなたはどれだけこの世界のことを知っているのか」と聞かれます。この神の問いかけに、ヨブは自分が全てを知るわけではないことを知らされ、そのような自分をも神は心に留めておられることに気づかされます。だからヨブは告白します。それが今日の招詞の言葉です。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知ります。自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。ヨブが苦難の中で求めたのは、神の臨在の確認、「インマヌエル」でした。人間は「神が共におられる」ことさえわかれば,不条理や苦難に耐えることが出来ることをヨブ記は私たちに示します。
・マタイ福音書では、神の御子が「インマヌエル」と預言されて生まれてきたと伝えます。このインマヌエルなる方はどのような生涯を送られたのでしょうか。「ひとりの孤独な生涯から」という詩をご紹介します。作者は不明です「彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。母親は、貧しい田舎の人であった・・・彼は30才になるまで大工として働いた。それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした・・・彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足なえを歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。ほどなく、世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。友人たちは、みな逃げ去った。彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた・・・長い19の世紀が過ぎていった。今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類に与えた影響、人々の命に与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった」。
・この方、インマヌエルと呼ばれた方は多くの人々の人生に影響を与え,今も与え続けています。ロバート・スチーブンソンという作家(“宝島”、“ジキルとハイド”の作者)がある時、らい病者たちが収容されたハワイの島を訪れました。その島では、修道院のシスターたちがらい病者の世話をしていました。彼は次のような詩を歌います「このところには哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう。一目見て、しり込みする。しかし、もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧き来たりて、目にとまるは歎きの浜で看取りする姉妹たち。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む」。インマヌエルと呼ばれた方は、「愛と和解のヴィジョン」を説かれ、少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、この方のために死んでいきました。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、人の心の中に燃え上がり、いく人かの「キリストにある愚者」が、このヴィジョンに従って生きました。このキリストにある愚者こそがこの方を継承して,この世に希望を与え続けるのです。クリスマスは私たちにも、「そのような者になりなさい」と招く時なのです。


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