すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年12月9日聖書教育の学び(2016年12月4日説教、マタイ1:1-17、罪びとを憐れまれる神)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-12-02 16:23:14 (20 ヒット)

2018年12月9日聖書教育の学び(2016年12月4日説教、マタイ1:1-17、罪びとを憐れまれる神)

1.キリストの系図の中に、四人の女性たちの名がある

・アドベント(待降節)の時を迎えています。今年のクリスマスはマタイ福音書から御言葉を聞きます。今日はマタイ1章前半にありますイエス・キリストの系図を見ていきますが、その系図の中に、四人の女性の名が出てきます。当時のユダヤは徹底した父系社会であり、系図の中に女性が登場するのはきわめて異例です。しかも、その四人の女性はそれぞれに暗い過去を持ちます。彼女たちは、異邦人出身とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれてこの系図に記されています。何故でしょうか。今日はこの系図を手掛かりに、「イエス・キリストの福音とは何か」を見ていきます。
・4人の女性の最初は、3節に出てくるタマルです。彼女は創世記38章に出てきますが、ユダの長男エルの妻となりましたが、夫エルは子供を残さずに死にます。当時の慣習では、兄が子供を残さずに死んだ場合は弟が兄嫁を妻として迎え、兄のために子をもうけるレビラート婚が一般的でした。その慣習に従ってタマルは弟オナンの妻となりますが、このオナンも子を残さずに死にます。その時は更にその弟と結婚する慣習ですが、舅のユダは三男シェラをタマルの夫にした時、シュラまで死んでしまうことを危惧し、タマルと結婚させようとしませんでした。当時、婦人が子供を産まないということは恥ずべき事と考えられていたため、タマルは遊女を装って舅ユダに近づき、ユダから二人の子ペレツとゼラフを産みます。マタイは「ユダはタマルによってペレツとゼラを (生んだ)」(1:3)と記します。
・5節に出てくるラハブはエリコの遊女(ヨシュア記2〜6章)で、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい助けました。ヨシュアは、それに感謝し、ラハブに夫を与え、そのラハブから生まれたのがボアズです。マタイは「サルモンはラハブによってボアズを(生んだ)」(1:5)と記します。ラハブが何故遊女になったのかは分かりません。遊女は当時の社会でも蔑まれる存在でした。その遊女がイエス・キリストの系図に入っています。5節後半のルツはモアブの女で、エリメレクの子マフロンと結婚しますが、夫は死に、さらに義父も死んで、姑ナオミに従ってベツレヘムに行き、姑を助けます。彼女はその地でエリメレクの親族ボアズと結婚し子を産みます(ルツ記4章)。マタイは「ボアズはルツによってオベドを(生んだ)」(1:5)と書きます。
・6節に出ますウリヤの妻とはダビデの武将ヘテ人ウリヤの妻バテシバで、彼女は夫ウリヤが戦場にいる時ダビデ王に見初められて床を共にし、妊娠します。ダビデは自分の部下であったウリヤを部下の将軍に命じて戦場で死なせ、未亡人バテシバを妻として娶ります。このバテシバからソロモン王が生まれます(サムエル記下11‐12章)。しかしマタイはここでバテシバの名前を出さずに「ウリヤの妻」とだけ記します。バテシバはウリヤの妻であってダビデの妻ではなかった。それなのにダビデはその夫人を無理やりに自分のものとした。「メシアはダビデの子から生まれる」と信じられていた時代に、そのダビデこそ罪びとであったことをマタイは強調しています。
・四人の女性に共通するのは、それぞれに後ろめたい過去を持つことです。タマルは舅ユダとの姦淫を通して、子を生みました。ラハブの職業は娼婦で、かつ異邦人でした。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯してソロモンを生んでいます。また、ルツもユダヤ人の嫌う異邦出身の女性でした。イスラエルの歴史の中にはアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカ等、賞賛されるべき女性はたくさんいますが、彼らの名前は系図には現れません。逆に、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちをあえて、マタイはキリストの系図の中に選んでいます。何故なのか、昔から、多くの人が疑問に思ってきたところです。

2.罪びとを憐れまれる神

・イエスはヨセフとマリアの長男としてお生まれになられましたが、マルコ福音書によれば、故郷ナザレ村の人々はイエスのことを「マリアの子」(マルコ6:3)と呼んだと記します。父兄社会の中では人は通常は父親の名前で呼ばれますから、イエスは「ヨセフの子」と呼ばれるべきであるのに、「マリアの子」と呼ばれています。この表現は「ヨセフの子ではなくマリアの子」、「イエスは私生児であった」という響きを持っており、ユダヤ人の中でイエスの出生に悪口をいう人たちがいたことを示します。キリスト教がユダヤ教から分離独立していったのは紀元70年ごろですが、母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。
・そう批判されても仕方のない状況下でイエスがお生まれになったのは、事実です。マタイはその事実を踏まえ、仮に私たちの両親が、否、私たち自身がタマルやバテシバのように罪を犯した存在であっても、神は罪を犯す私たちの悲しみを知っておられ、それを赦しておられると主張するためにあえて系図の中に4人の罪ある女性たちの名前を挿入したと思われます。パウロは語ります「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ8:3)。
・四人の女性たちはそれぞれ罪を犯しましたが、それは生きるために止むを得ない罪でした。タマルは舅の子を生みますが、当時の女性にとって嫁いで子を産まずに去るということは耐え難い屈辱でした。だから、あえて舅の子を生みます。その舅の子ペレツがイエスの系図を構成します。ラハブは娼婦でしたが、誰が喜んで娼婦になどなるでしょうか。恐らくは家が貧しく娼婦として売られた等の事情があったはずです。しかし、そのラハブの産んだ子から神の子の系図を構成するボアズが生まれています。ウリヤの妻バテシバはダビデに無理やり王宮に連れ去られ、夫はダビデに殺されています。バテシバの一生は決して平和ではなかった。神はこの女性たちの悲しみを知っておられ、それを憐れまれた。だから、彼女たちは神の子の系図に入ることを許されたとマタイは主張しているのです。
・この福音書を書いたマタイも悲しみを知っています。彼は当時の社会の中で、嫌われ排除された徴税人であったとされています(9:9)。しかし、イエスはそのようなマタイをも弟子として受け入れて下さった。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれたと思われます。それ故に「罪びと」と言われたマタイの苦しみも知って下さった。自分が差別され苦しんだ人こそが、差別に苦しむ他者を憐れむことが出来る。それを知るマタイだからこそ、キリストの系図の中に4人の差別された女性の名前を入れたのではないかと思えます。

3.罪の赦し

・今日の招詞にヨハネ8:10-11を選びました。「イエスは、身を起こして言われた。『婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか』。女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。人々はイエスを罠にかけるために姦淫を犯した女をイエスの前に連れてきて言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。イエスは言われます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。このイエスの言葉に人々は一人一人立ち去って行きました。自分は罪びとではないと言える人は一人もいなかったからです。イエスは女に言われます「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
・千葉県館山市に、「かにた婦人の村」という施設があります。もと売春をしていた女性たちの厚生施設として深津文雄牧師が造りました。日本では戦前・戦後を通じて売春が公に認められていましたが、昭和33年売春防止法が施行され、売春で暮らしを立てていた女性たちのために全国に婦人施設が作られました。しかし、女性たちの中には長い間の売春生活により、性病にかかり、体や神経を蝕まれた人たちも多く、その人たちは行き場がなかった。その人たちが暮らせる場所として造られたのが「かにた婦人の村」です。中野バプテスト教会の修養会で20年前にそこを訪問したことがあります。施設が出来てから40年近くがたち、収容されていた人たちは皆老人になっており、中には梅毒のため廃人同様になっている人たちもいました。また家族の引取りがなかった人たちの遺骨が納められた納骨堂もありました。生きている人たちに会い、また既に骨になっている人たちとも出合い、男性の欲と罪が多くの女性を苦しめた現実を目の前に見て、自分が男性であることを恥ずかしく思った記憶があります。貧しさのため、あるいは戦争のために、多くの人が売春婦として売られ、苦しんで行きました。神は、その女性たちの悲しみと苦しみを知り、それを憐れます。
・神は私たちが弱さのために罪を犯すことを知っておられます。そして私たちが罪を認めた時に私たちの罪を赦されます。精神科医の神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で語ります「罪深いままでよいのだ、ありのままでよいのだ、そのままでお前の罪は赦されているのだ、と。もしそのような声が世界のどこからか響いてくれば、罪の人ははっと驚いて歓喜の涙にかきくれ、とりつくろいの心も捨てて、あるがままの身を投げ出し、その赦しを素直に受け入れるだろう」(同書p156)。この赦しがマタイ福音書冒頭に、またヨハネ8章にもあるのです。この赦しを経験した者は、もはや以前の生活には戻れません。だから、私たちは教会に来るのです。何故ならば、私たちもこの赦しを経験したからです。福音書の最初のページは赦しから始まっています。私たちはこのことに感謝し、「アーメン、わが主よ、あなたは生きておられます」と讃美したいと思います。


印刷用ページ 

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。