すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年11月25日聖書教育の学び(2009年10月29日祈祷会、イザヤ65章、求めよ、そうすれば与えられる)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-18 22:01:52 (34 ヒット)

2018年11月25日聖書教育の学び(2009年10月29日祈祷会、イザヤ65章、求めよ、そうすれば与えられる)

1.求められることを待ち望む神

・捕囚から帰還した人々は生活の苦しさを訴え、「主の手が短くて救えない。主の耳が鈍くて聞こえない」と不満を言っていた(59:1-2)。それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」、「主は常にあなたたちに救いの手を向けてこられた」と反論する。
-イザヤ65:1-2「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」。
・「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べている」と預言者は批判する。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前だった。50年の捕囚の間に民はバビロニア化され、信仰が異教化していた。
-イザヤ65:3-5「この民は常に私を怒らせ、私に逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき、墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし、豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら、『私に近づくな、私はお前にとってあまりに清い』と言う。これらの者は、私に怒りの煙を吐かせ、絶えることなく火を燃え上がらせる」。
・信仰の異教化との戦いが旧約の一つのテーマだ。約束の地に入った民はバール信仰に魅せられ、アッシリアの勢力が強まるとアッシリアの神々を拝んだ。旧約に「主の目に悪とされる」という記述が49回も出てくるが、多くは異教礼拝を指している。これは旧約だけでなく、現代の問題でもある。キリスト教においても韓国のキリスト教は道教や儒教との混合教の要素を持つ。「聖書のみ」、信仰の異教化を防ぐためにはそれに徹する必要がある。
-列王記上16:30-31「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」。
・主は御言葉がゆがめられることを許されない。それが捕囚後の生活が祝福されない主因だとイザヤは告発する。
-イザヤ65:6-7「見よ、私の前にそれは書き記されている。私は黙すことなく、必ず報いる。彼らのふところに報いる。彼らの悪も先祖の悪も共に、と主は言われる。彼らは山の上で香をたき、丘の上で私を嘲った。私は、初めから彼らがしてきた業を量り、そのふところに報いる」。

2.求める者への祝福と求めない者への裁き

・異教化した群れに中にも正しい信仰を求める者は必ずいる。その者たちは祝福すると主は言われる。その時、不毛地のシャロンの湿地も、砂漠のアコルの谷も、羊や牛が群がる豊かな地に変えられる。
-イザヤ65:8-10「主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな、そこには祝福があるから、と人は言う。私はわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を、ユダから私の山々を継ぐ者を引き出そう。私の選んだ者らがそれを継ぎ、私の僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ、アコルの谷は牛の伏すところとなり、私を尋ね求めるわが民のものとなる」。
・アコルの谷は、罪を犯したアカンが家族と共に石で打ち殺された谷(ヨシュア7:24‐26)であり、この場所は「苦悩の谷」と呼ばれた。その「アコルの谷」が、「牛の群れの伏す所となる」。ホセアはイスラエルの民が悔い改め、回復される時、乾いた砂地の谷は、「望みの門」(ホセア2:15)となると預言している。
・しかし祝福は全ての人に与えられるのではない。預言者は冷静にこのことを伝える。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知だ。
-イザヤ65:11-14「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、禍福の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の目に悪とされることを行い、私の喜ばないことを選んだからである・・・見よ、私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける。見よ、私の僕らは心の喜びに声をあげるが、お前たちは心の痛みに叫びをあげ、魂を砕かれて泣き叫ぶ」。
・「求める者は与えられる」(マタイ7:8)。しかし求めない者には救いは与えられない。その冷徹な事実を見よ(放蕩息子の父親は憐れみ深いが、その息子が帰ったゆえに救いがなされた。帰らなければ破滅しかないであろう)。
-ルカ15:20-24「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した・・・『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』」。

3.新しい天と新しい地の幻

・イザヤは65章前半で「主の名を呼ぶ者に主は必ず答えられる」と言った。「主はあなたからの呼びかけを待っておられるのだ、あなたが呼べば答えてくださるのだ」と。
-イザヤ65:1「私に尋ねようとしない者にも私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも私はここにいる、ここにいると言った」。
・その主の応答こそ、新しい天地の創造だ。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見る。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始める。
-イザヤ65:17-18「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。
・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語る。
-イザヤ65:19−20(口語訳)「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる」。
・イザヤの時代、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かったのだろう。サハラ以南のアフリカ諸国の平均寿命は40〜50歳だ。栄養不良による乳幼児死亡率の高さ、不衛生による感染症死や戦乱による死者も多い。イザヤ書を私たちが「自分の出来事」として読んでいく時、このアフリカの人々にどのように関っていくのか。
-ルカ10:27-28「彼は答えた『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります』。イエスは言われた『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる』」。
・家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していた。しかし、これからはそのようなことはない。また生まれた子どもが死ぬこともさらわれることもないと宣告される。
-イザヤ65:21-23「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」。

4.幻を持つことの意味

・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見る。
-イザヤ65:25「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」。
・ヨハネもまた、ローマ帝国の迫害により消滅しようとする教会共同体に、神の国の幻を提示する。
―黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
・これは幻であって現実ではない。しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていく。キング牧師の「私には夢がある」という演説はその典型だ。
−1963年キング牧師の演説から「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。
・これは人道主義ではない。信仰の出来事だ。神が行為される故に私たちも行為していく。幻は希望なのだ。どのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼び求める行為なのだ。
−イザヤ65:24「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」。


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