すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年9月9日聖書教育の学び(2018年5月31日祈祷会、士師記12章、イスラエルの罪の歴史としての士師記)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-09-02 17:55:26 (131 ヒット)

1.12部族の団結を崩すエフライムの行動

・エフタがアンモン人との戦いに勝利した時、最大部族であったエフライム族は自分たちに相談なしに戦ったとして、大軍を率いて脅しに来た。エフタの所属するギレアドのような少数部族が国の指導者になることに、大部族のエフライムは不満を持った。
−士師記12:1-3「エフライム人が勢ぞろいして、ツァフォンに赴き、エフタに言った『アンモン人との戦いに出向いた時、なぜあなたは、私たちに同行を呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる』。エフタは彼らに言った『私と私の民がアンモン人と激しく争っていた時、あなたたちに助けを求めたが、敵の手から私を救ってくれなかった。あなたたちが救ってくれることはないと思い、私は命がけでアンモン人に向かって行った・・・どうして今日になって私に向かって攻め上り、戦おうとするのか』」。
・エフタは少数部族ギレアドの出身だ。エフライムは「おまえたちは私たちから離脱してヨルダン川東岸に住んだ逃亡者だ。それが我々を差し置いて戦果を誇っている」と批判した。エフタは怒り、エフライムと戦った。
−士師記12:4-5「エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが『あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ』と言ったからである」。
・エフライムはギデオンがミディアン人に勝利した時も干渉している。彼らは、自分たちは戦わないのに、最大部族として、戦いの報酬だけを得ようとしている。
−士師記8:1「エフライムの人々はギデオンに『あなたはミディアンとの戦いに行く時、私たちを呼ばなかったが、それはどういうことか』と言って、激しく彼を責めた」。
・一致して戦うべき時に、自分たちは戦わず、その成果に文句だけをつける人が必ずいる。エフライムは嗣業地割当の時も、ヨシュアに文句を言っている。このような行為が集団の一致を乱していく。
−ヨシュア記17:15-17「ヨシュアは答えた『あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するが良い』。ヨセフの子らが『山地だけでは足りません。しかし平地に住むカナン人は・・・皆、鉄の戦車を持っています』と言うと、ヨシュアは・・・答えた『山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう』」。

2.イスラエルの罪の歴史としての士師記

・士師時代末期には、イスラエルは内部抗争に明け暮れる。13−16章のサムソンを最後に、17章以下にはもう士師は現れず、ダン族の土地の割込みに伴う争い(嗣業の地を追われて新しい領土を他部族から剽窃する)や、ベニヤミン族の全イスラエルとの戦いが記される。主はイスラエルを内戦状態に放置された。
−士師記20:28「当時、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが御前に仕えていた。イスラエルの人々は言った『兄弟ベニヤミンとの戦いに、再び繰り返して出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか』。主は言われた『攻め上れ。明日、私は彼らをあなたの手に渡す』」。
・士師記記者は、罪を「彼らは自分の目に正しいとすることを行った」と記述する。主の霊がイスラエルからとともにいないことを象徴する言葉だ。
−士師記21:25「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」。
・約束の地への到達は救いの成就のはずであった。それなのに何故争いが起きるのか。
−申命記8:7-10「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。・・・あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。
・旧約の歴史が教えることは、救いは地上では完成しないということだ。約束の地への到達は救いではなかった。私たちの人生においても地上では救いは完結しない。地上の人生は仮住まいに過ぎず、過ぎ去る。
−ヘブル11:13-16「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。・・・彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。・・・神は、彼らのために都を準備されていたからです」。

3. エフタ物語を再考する

・エフタは「勝利の暁には家の者を生贄として捧げます」と誓願してアンモン人との戦いに臨み、勝った。エフタは誓願の規定に従い、自分の娘を生贄として捧げることになってしまった。内村鑑三は「士師エフタの話〜少女の犠牲」について注釈する。
−内村鑑三全集第19巻から「残酷と言えば残酷です。昔はアブラハムがその子イサクを燔祭として神に捧げようとしたその刹那に、神は一頭の羊を下して、これをイサクの身代わりにしたとの事です(創世記第22章)。神は何故に同じ手段で、ここにエフタの娘を救われなかったのでしょうか。人身御供は、聖書が堅く禁じる事です。エフタがもしここにこの事をしたとすれば、それは神の律法に背いたのです」。
・「誓願そのものが、既に間違いであったのです。その成就は、敢えて怪しむに足りません。私共は、エフタの迷信を憐れみましょう。彼の浅慮を責めましょう。しかしながら、彼の誠実を尊び、彼の志を愛せざるを得ません。しかし、燔祭の事実はどうであったとしても、犠牲の事実は、これをおおうことはできません。エフタはここに、凱旋の帰途において、彼の一人の娘を失ったのです。この事によって、彼の高ぶった心は低くされ、誇ろうとした心はへりくだされたことでしょう」。
・「エフタはこの時、真の栄誉なるものが、この世に無いことを悟ったことでしょう。この世において曇りのない歓喜、欠ける所のない成功、涙のない名誉なるものは無いのです。エフタは流浪の身から一躍して一国の首領と成った時に、償いたいと思っても償えない損害に遭遇したのです。彼はこの後六年間、イスラエルとギレアデを裁いたとあります(12章7節)。しかし、六年の栄華は、彼にとって決して悲哀のない栄華ではなかったのです。彼は終生、凱旋当日の悲劇を忘れなかったに相違ありません。アンモン人の王を睨んだ勇者の目は、たびたび悲しい犠牲の事を思い出して、熱い涙に浸されたに相違ありません。彼はたびたびギレアデの首領にならずに、トブの地で彼の一人の娘と共に隠れて、幸福な日を終生送りたかったと願ったでしょう」。
・「しかし、幸福は人生最大の獲物ではありません。義務は幸福に優ってさらに貴いのです。義務のゆえに私共は、たびたび幸福を捨てざるを得ません。そして義務のために私共が蒙る損失は、決して損失ではないのです。エフタは彼の幸福を犠牲にして、彼の国を救いました。そしてエフタの娘は彼女の生命を犠牲にして、彼女の父の心をきよめました。犠牲に犠牲、人生は犠牲です。犠牲なしには、人生は無意味です。幸福は人生の目的ではありません。犠牲こそ人生の華です。もしイスラエルを救うためにはエフタの苦痛が必要であり、そしてエフタ自身を救うためには彼の娘の死が必要であったということであれば(そして私は必要であったと信じます)、神の聖名は讃美すべきです。エフタは無益に苦しまず、彼の娘は無益に死にませんでした。神はそのようにして人と国とを救われるのです」(内村鑑三「士師エフタの話〜少女の犠牲」、明治45年6月10日)。
・東京大学・高橋哲哉氏は「戦前の靖国体制は戦争犠牲者を神として祀ることによって戦争を遂行した。戦後の経済成長も安全保障も「犠牲」の上に成り立っている。福島の原発事故は、原発推進政策に潜む「犠牲」のありかを暴露し、沖縄の普天間基地問題は、日米安保体制における「犠牲」のありかを示した。もはや誰も「知らなかった」とは言えない。沖縄も福島も、中央政治の大問題となり、「国民的」規模で可視化されたのだから。経済成長や安全保障といった共同体全体の利益のために、誰かを「犠牲」にするシステムは本当に正当化できるのか」と問いかける(『犠牲のシステム 福島・沖縄』から)。
・高橋哲哉氏は著書の中で、内村鑑三に言及する。「祖国のための死をたたえることは、日本だけではなく、欧米の近代国民国家もそれをナショナリズムの核とし、戦争を繰り返してきた。キリスト教の犠牲の論理としては、内村鑑三が日露戦争中の1904年に出した「非戦主義者の戦死」や、旧約聖書エフタの物語の中で「犠牲に犠牲、人生は犠牲であります。犠牲なくして人生は無意味であります」と書いている」ことを批判した。キリスト教の犠牲の論理の中核は「贖罪信仰」であり、キリストの犠牲により救われるとの教えが内村やその他のキリスト者の犠牲礼賛を生んだと高橋氏は考えている。


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