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みんなの証
みんなの証 : 2018年8月5日聖書教育の学び(創世記21:9-21,イシマエルをもかえり見られる神)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-07-29 19:09:00 (120 ヒット)

1.イシマエルの母ハガルの妊娠

・アブラハムは「子を与える」との約束を神から受け、それを信じた(15:4)。しかし妻サラは不妊で子供が生まれる気配もない。アブラハムとサラは約束の成就を待ち切れず、自分たちの力で神の約束を満たそうとした。
−創世記16:1-3「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った『主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入ってください。私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません』。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった」。
・妻に子が産まれない時、側女に子を産ませて世継ぎを得ることは許されていた。しかし相続の際には紛争が生じ、申命記はその処理規定を設けている。律法もやむを得ないものとして多妻制を認めている。しかし、側女に子が生まれ正妻に子がなければ、側女は正妻を見下すようになる。アブラハムの家でも妊娠したハガルが正妻サラを下に見るようになり、嫉妬に狂ったサラはハガルを追放するようアブラハムに迫る。
−創世記16:4-5「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた。サライはアブラムに言った『私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように』」。
・サラとアブラハムが為したことは、約束の成就を待たずに、自力で解決しようとしたことだった。二人は「子を授かる」のではなく、「子を造る」ことを選択した。現在でも子のない夫婦は不妊治療を行ってでも子を持とうとする。子供なしには家族とは言えないのだろうか。難しい問題だ。
-不妊治療を行った男性からの告白「40歳を過ぎた頃から、学生時代の友人と飲みに行くと、必ず『不妊治療』の話になった。妻の必死な姿を日々目の当たりにしているから、安易に『止めよう』とは言えない。僕も授かれるものなら授かりたいという気持ちもある。ただ、僕は途中から『無理だろう』ということはわかっていた。人工授精も、体外受精もやったが、何度も妻は流産した。それでも、彼女が諦めの境地に達するまでは、僕からは『終わりにしよう』とは言えなかった。彼女が自分を責め、あらゆる努力をしていたのを間近で見ていたからだ。その頃は、家に帰るのが辛かった。私たちが不妊治療を終焉させることが出来たのは、妻が45歳を過ぎてからだ。一般的な年齢よりかなり早く、更年期障害になった。それで妻は、ようやく、残りの人生を二人で過ごしていく踏ん切りをつけることができた」(朝日新聞2015年10月23日)。
・アブラハムはハガルの追放を黙認し、サラはハガルを家から追い出す。これが「信仰の父」(ヘブル11:17)と言われ、「信仰の母」(1ペテロ3:6)と言われた二人が行ったことだ。創世記は二人の醜さを隠さない。二人も私たちと同じように、過ちを犯し続けながらも主の名を呼び続けた
-創世記16:6「アブラムはサライに答えた。『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』。サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」。

2.イシマエルの誕生

・ハガルは逃げて砂漠をさまよう。そのハガルに主の使いが現れ、元いた場所に帰るように促す。
―創世記16:7-9「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』。『女主人サライのもとから逃げているところです』と答えると、主の御使いは言った。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい』」。
・彼女は女奴隷であり、故郷のエジプトに戻っても保護してくれる家はなかったであろう。彼女はアブラハムの天幕に帰る以外に子供を安全に生む道はなかった。主は使いを通して、「私があなたと生まれてくる子を守る」と語られる。
-創世記16:10-12「主の御使いは更に言った。『私は、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす』。主の御使いはまた言った。『今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。 彼は野生の驢馬のような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす』」。
・イシュマエル、「神聞きたもう」の意味である。当時の世界では奴隷は人の数にも入らなかった。しかしそのような女奴隷さえも気にかけてくださった神に、ハガルは感謝し、神を「エル・ロイ」と呼んだ。
-創世記16:13-14「ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です』と言った。それは、彼女が、『神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではないか』と言ったからである。そこで、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある」。
・ハガルはアブラハムの天幕に戻り、アブラハムとサラも事の次第を聞いて悔い改め、ハガルを迎え入れ、彼女は子を産む。その子はイシュマエルと名付けられた。
-創世記16:15-16「ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」。
・このイシュマエルがアラブ人の祖となる。神はアラブ人さえも祝福されている。今日のイスラエルではアラブ人(パレスチナ人)は迫害されているが、これは聖書的には間違った行為である。アラブ人もユダヤ人も共にアブラハムの子なのだ。
-創世記25:7-9a「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」。
・人がこの神(エル・ロイ=私を顧みられる神)を見出した時、どのような境遇の中にも帰っていくことができる。それはヨブが苦しみの中で見出した神であった。
―ヨブ記36:15「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。
・この神こそが、放蕩息子が立ち返ることを待ち望まれる神である。
ルカ15:20-21「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」

3.イシマエルの追放

・イサクの誕生でアブラハム家に笑いが生まれた。しかしその笑いが一瞬にして悲劇に変わる。感謝してイサクを受け取ったサラが、今度は嫉妬のために側室の子イシマエルの追放を画策する。
−創世記21:8-10「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」。
・子の生まれないアブラハム夫妻はイシマエルを相続人として育ててきた。イシマエルもまたアブラハムの子なのである。しかし正妻の子が生まれると、側室の子は邪魔になる。サラの信仰も現実の前に砕ける。アブラハムは二人の子を前に悩む。しかし神は、「相続人はイサクであり、イシマエルは追放せよ」と言わ、アブラハムは神の言葉に従う。
−創世記21:11「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」。
・アブラハムはイシマエルとその母を追放する。二人の生存は主に委ねられた。
−創世記21:14「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」。
・母と子が荒野をさまよう。彼らはやがて水がつき、死を覚悟する。
−創世記21:15-16「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『私は子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」。
・しかし神はイシマエルとその母を保護される。彼もまたアブラハムの子だからである。
−創世記21:17-21「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする』。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいた時、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた」。

4.新約聖書はこの物語をどう受け止めたのか

・パウロはガラテヤ書の中で、イサクを霊の子と呼び、イシマエルを肉の子と呼んで区別し、ユダヤ人同胞にあなた方は霊の子であり、相続人であると強調する。
−ガラテヤ4:22-31「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした・・・兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、"霊"によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。要するに、兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」。
・創世記は「イシマエルがイサクを迫害した」とは記していないし、神は「イシマエルをも顧みられた」とある。パウロでさえ、聖書の読み方を間違えるのだろうか。へブル書もまたアブラハムとサラの信仰を強調している。人は聖書からも読みたいことを読んでいくのだろうか。
−へブル11:11-12「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」。
・ユダヤ教は、通常イシマエルのことをよこしまな人物として見ていた。新約聖書では、イシマエルへの言及をほとんど含んでいない。イシュマエルは、例えば律法としてのユダヤ教の象徴とされてきたが、現在イサクと比肩してみなす伝統は拒絶されている。イスラムでは、イシュマエル(イスマーイール)に対して肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシマエル母子を追体験するものとされている。イスラムの伝統では、イシマエルを全てのアラブ人の先祖とみなしている。イスラム教の開祖ムハマッドは「コーラン」の中で、みずからをイシマエルの子孫と称しているという。


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