すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年6月17日聖書教育の学び(2015年2月8日説教、第二コリント9:6-15、恵みとしての献金)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-06-10 21:12:30 (239 ヒット)

1.エルサレム教会への献金問題

・第二コリント書を読み続けています。本日読みます9章は前回8章と並んで「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立してきました。やがてそれら異邦人教会が母国のエルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、それと同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。私たちの教会も新小岩バプテスト教会を母教会として生まれましたが、今では母教会とは違う形の教会形成を行っています。そのためパウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援のための献金を進めていました。献金は結果的には成功したようですが(ローマ15:25-27)、その過程では様々な混乱が起こりました。コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。
・パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣したと語ります「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。複数者を送るのは献金運動についての誤解を解くためでした。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。教会がお金を扱うときにはこのような慎重さが求められます。私たちの教会でも毎月始の第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、それをどのように用いたのかを、1円単位で報告しています。献金には公平性と透明性が必要だからです。
・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えています。「豊かに播く者は豊かに収穫する」。蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金できるということは、たくさん与えられたことだ。その恵みをお返しするのが献金ではないか」とパウロは語ります。
・パウロは後にエルサレム教会へ献金を届ける旅に出ますが、その時次のように述べています「しかし今は(ローマのあなた方の所ヘは行かず)、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:25-27)。エルサレム教会から「霊的なものにあずかったのですから、肉のもので(献金を通して)彼らを助ける」のだと。

2.恵みとしての献金

・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今はエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げるのだと。イエスが語られたように、「神を愛するとは隣人を愛する」ことです(ルカ10:27-28)。だからパウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に与えた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。彼は続けます「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。
・パウロの願いは、献金の交わりを通して、エルサレム教会と異邦人教会の間の誤解が解け、共に神を讃美するようになることです。パウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。そしてパウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。

3.私を試してみよと言われる神

・今日の招詞としてマラキ3:10を選びました。次のような言葉です。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよと万軍の主は言われる。必ず、私はあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」。マラキは「神はあなた方が貧しいことは知っておられる。しかしその貧しさの中で収穫の十分の一を捧げてみよ、そのことを通して、あなた方が神に生かされていることが明らかにされるであろう」と語ります。ここでのマラキは物質的な見返りを約束しています。マラキは続けます「私はあなたたちのために、食い荒らすいなごを滅ぼして、あなたたちの土地の作物が荒らされず、畑のぶどうが不作とならぬようにすると万軍の主は言われる。諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる」(マラキ3:11-12)。献金には祝福が伴います。
・曽野綾子「心に残るパウロの言葉」の中に、「神様、ケチケチしないで」という一文があります。曽野さんの知り合いの男性、ボランティア活動に熱心で、時々まとまった額のお金も捧げていたそうですが、ある時に彼女に語ったそうです。「面白いことに余分に出すと、その分くらい信じられないほどの儲けがある。神様が埋め合わせをしてくださるのかと思う。それである時、思い切って神様に言って見たのです“出した分の埋め合わせなど、そんなケチケチしたことをしないで、もっとガバっと儲けさせて下さい”。ところが面白いもので、決してそうはならない。あくまでもその分くらい埋め合わせをして下さる」。献金を通して恵まれる出来事は実際にあります。教会会計が「恵みの会計」と言われる根拠も底にあります。不思議なことに必要な分は与えられますが、必要以上のものは与えられない。
・しかし私たちには疑念も残ります。例えば、「飢餓が発生している所で、最後の一口の食物を子どもに与えた者は自分の死期を早めるだけではないだろうか」、あるいは「災害救助のために献金をしても、私の年金額が増えるわけではない」、その現実もまた確かにあります。私たちにはバランスのとれた献金理解が必要です。マラキ書から「十分の一献金」の考え方が生まれましたが、硬直的に考える必要はないと思います。パウロは語ります「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい」(9:7)。日々の糧に事欠く人が十分の一献金を捧げることは家計を破綻させます。神は決してそのような献金を望まれない。他方、高額所得の人が十分の一を捧げたらそれで十分に捧げたことにはなりません。献金は投資ではなく、既に多くのものをいただいた事に関する感謝です。十分の一はあくまでも基準であって、「持てるものに応じて、心に決めた通りに」、捧げれば良いのです。
・今日貧困が世界的な現象になっています。この問題は、私たちの献金で解決できるわけではありません。そのためには社会の構造転換が必要です。同時にその中で、私たちが出来ることを行っていくことは大事です。だから私たちの教会では、毎月第三主日の席上献金をペシャワール会、海外医療協力会、ギデオン協会等に捧げることによって社会の構造転換に関わっていくのです。それは小さな行為ですが、献金を通して資産・所得の再配分行為に参加していきます。献金は神からの贈り物であり、私たちが献金できるように恵んで下さったのは神であり、献金を通して私たちは隣人を愛していくのです。「福音がどんなに高等な理論として説かれても、実際の生活に生きてこなければ福音ではない」(榎本保郎)、私たちは「献金を通して隣人を愛せという教えを具体化していく」のです。そのことを覚えたいと思います。


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