すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年4月29日聖書教育の学び(2014年10月5日説教、1コリント8:1-13、キリスト者の自由とは何か)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-22 19:31:44 (116 ヒット)

1.肉を食べるべきかどうかは信仰の本質ではない

・コリント人への手紙を読み続けています。今日の主題は「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」という問題です。7章で結婚の問題について助言したパウロが、この8章では食物の問題について助言します。おそらく、コリント教会からの質問の順序に沿ったものなのでしょう。この問題は当時の異邦人教会に取っては重要な問題でした。何故ならば、コリントを含めたギリシア・ローマ世界には多くの神殿があり、神殿では毎日動物の犠牲が捧げられ、その肉の一部は捧げ物として焼かれましたが、他の多くは市場に払い下げられ、人々はそれを食肉として食べていました。つまり、当時流通していた食肉の多くは「偶像に供えられた肉」であり、その肉を食べることはエルサレム教会が禁止していた「偶像礼拝」に当たるのではないかと懸念されていたのです。
・キリストの福音はユダヤから始まり、その後異邦人社会にも広がっていきました。その時、ユダヤ教における食物規定を異邦人にも適用するのかが課題となってきました。ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や異教の神殿に捧げられた犠牲の動物の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていました(レビ記17:8他)。最初の教会の構成員はほとんどユダヤ人でしたので、この食物規定は特に大きな問題にはなりませんでした。ところが、教会がギリシア・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。そのためにエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人も「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるよう」(使徒15:20)決定され、エルサレム教会の名で、「偶像に供えられた肉は食べてはいけない」と諸教会に通知が出されていたのです。
・信仰と市民生活との緊張にどう折り合いをつけるのかという問題を、私たち日本の教会も抱えています。戦前の日本では天皇は「現人神」(あらひとがみ、生きている神)であり、天皇のために戦死した人々を祀る靖国神社を頂点とする護国神社参拝は国民の義務とされていました。戦争が拡大すると参拝は強制され、1932年上智大学の学生の一部が靖国神社への参拝を偶像礼拝として拒否したため、「キリスト教は日本の国体と相容れない邪教である」との非難が高まり、やがて宗教団体法が制定され、日本の教会は国家の統制下に入ります。わずか70年前の出来事です。コリント教会で起こった問題は私たちの問題でもあるのです。その私たちが異教社会の日本でキリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけて行くのか、例えば仏式の葬儀に参加すべきか、親の位牌を継承してもよいのか、死後にお寺の墓地に埋葬されても構わないのか、今日的課題です。
・前述のように、ユダヤ教社会では、偶像に捧げられた肉を食べることは罪とされていました。エルサレム使徒会議でも神殿に捧げられた肉は異邦人も食べてはいけないと決められました。「偶像に捧げられた肉を食べる」ことは、偶像礼拝であるとされたのです。ここで問題がおきます。コリントには多くのギリシアやローマの神々を祭った神殿があり(数十の神殿があったとされています)、人々は結婚式や誕生日のお祝い等を神殿で行い、付属の飲食施設で酒食が振舞われるのが日常でした。上流階級の人々は、そのような食事(主食は神殿に捧げられた肉でした)に招待されることがしばしばありました。そのような時、キリスト者は信仰のゆえに招待を断るべきか、しかし断れば、社会生活から締め出されてしまうという問題に直面しました。
・教会の中の裕福な人たちは、問題を解決するために、自由を主張しました。彼らは言います「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」、だから「神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れない」(8:4)と。パウロも彼らの主張を認め、「その通り、食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。ユダヤ人のパウロが、エルサレム教会の偶像肉禁止令から解放された発言をしています。しかし同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。
・「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(8:7)。ここにおいて、問題は、「偶像に捧げられた肉を食べることが良いのかどうか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。パウロは言います「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8:8)。肉を食べるか、食べないかは信仰の本質に関わる問題ではない。だから食べても良いし、食べなくとも良い。しかし「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘う」(8:9)。あなたが食べることによってつまずく人がいてもなお食べることは、罪であるとパウロは語ります。

2.しかし、信仰の本質にかかわる問題では譲歩しない

・当時のコリント教会の構成員のほとんどは、異教礼拝からの改宗者でした。彼らは神殿での飲食を通して、また偶像礼拝に戻ってしまうかもしれないと懸念していました。パウロは「神殿に捧げられた肉を食べても構わない、そもそも偶像などいないのだから」とうそぶく人々に語ります。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(8:10-11)。「キリストがあなたがたのために死んでくださったのに、あなたがたは信仰の弱い人々のために、自分の食事さえ変えるのはいやだというのですか」とパウロは問いかけます。もはや問題は肉を食べるか、食べないかではなく、隣人をどう考えるかの問題です。
・パウロは語ります「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(8:12)。「食べることが正しいのかではなく、食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が中心課題です。答えは明らかです。パウロは言います「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)。
・偶像に捧げられた肉を食べるかどうかは、信仰の本質に関わる問題ではありません。偶像の神などいないからです。しかし、食べることによってつまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題です。他者の救いを閉ざす行為だからです。今、日本でも、食物禁止規定を持つ隣人が増えてきました。インド人が多いヒンズー教徒は牛が聖なる動物である故に、牛肉は食しません。マレーシヤやインドネシアの人々はイスラム教徒であり、豚肉は食べませんし、その他の肉も戒律に則った調理をしたもの(ハラル)以外は食しません。留学生や観光客の増加に対応して、日本でも特別の食事を用意する場所が増えてきました。特定の食べ物を食しない人たちの配慮が今後の日本でも大事になってきます。

3.キリスト者の自由とは何か

・今日の招詞に1コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。パウロは偶像に捧げられた肉を食べることの議論を10章でも続けます。大事な問題だからです。パウロの態度ははっきりしています「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(10:25)。何でも食べてもよいが、誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べることを止めなさいと勧めます(10:28)。その人がつまずくことを避けるためです。そして招詞の言葉が来ます「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。
・ここにおいて、キリスト者の生活の基本が何かが明らかになってきます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)。知識に基づく強さではなく、愛に基づく弱さを私たちは求めるべきなのです。キリスト者の自由とは「隣人と共にある自由」であり、隣人がつまずくのであれば、自分が正しいと思うことも断念する自由です。キリスト者は何を食べても良い、「地とそこに満ちているものは、主のもの」(10:26)だからです。しかし自由を自己追求のためには用いません。肉だけでなく、お酒やたばこを嗜むことも自由です。しかし、妊娠した女性が胎児のためにお酒やたばこを控えるように、キリスト者は隣人のために自分の自由を制約します。
・「隣人のために何かを断念する自由」、それを聖書は「愛」と言います。この愛に基づく自由の断念をパウロはコリント書の中で繰り返し語ります。6章ではお金を貸したのに返してくれない人を裁判に訴えた教会員に対して、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのか。なぜ、むしろ奪われるままでいないのか」(6:7)として、債権の放棄を求めます。9章では伝道者は報酬を貰う権利があるが私はそうしないとして、自活伝道を訴えました「私の報酬とは、福音を告げ知らせる時にそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです」(9:18)。パウロは「隣人のために自分の自由を制約する」生き方を選びました。しかし理解されなかったようです。9章以下を見ると、パウロに対する非難や中傷が相当程度にあったことが伺えます。神のいない人間関係は誤解や中傷によって崩れます。しかし神の下にある人間関係は崩れても再生します。その証拠にパウロの手紙はその後何人もの人により書き写され、多くの教会で読まれ、今日聖書として残りました。
・私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。行為が人を救うわけではありません。しかし、信仰は行為を導くのです。キリストが私たちのために死んでくださったのだから、私たちもキリストのために死ぬ、具体的には他者との愛の中に生きます。それは抽象論ではなく、具体的な生活の中で実践されるべきことです。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10:31)。キリスト者は全ての事に自由です。しかし、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のためにも死なれた。ですから、他者への愛が自由を制限します。それがキリスト者の自由です。その自由を私たちは与えられているのです。


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