すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年4月22日聖書教育の学び(第一コリント7:17-24)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-15 17:39:06 (105 ヒット)

1.今ある状態のままでキリスト者たれ

・コリント教会には奴隷も自由人もいた。奴隷の人たちは、何とか奴隷の境遇から抜け出したいと焦燥感を持っていた。パウロはそのような人々に、召された時に奴隷であった人々は奴隷のままでいなさいと勧める。
−1コリ7:20-21「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」。
・何故ならば、キリストによって召された者は、キリストによって自由にされたのだとパウロは言う。
−1コリ7:22「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。」
・また自由人として召された者は、その時、キリストの奴隷になったのだ。どのような職業生活をおくるかは、救いに関係がない。むしろ、どのような信仰生活をおくるかに、心を向けなさい。
−1コリ7:22-24「主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。・・・兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」。
・終わりの時は近づいている。その時、どのような職業につこうが、どのような家庭を形成しようが、本質的な問題ではない。最も大事なことは、あなたがキリストに属していることではないか。
−1コリ7:29-31「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」。

2.コロサイ書における従属

・コロサイ書3章は「家庭についての教え」を述べる。ここでは、妻と夫、子と父、奴隷と主人の関係が記されている。具体的には「妻は夫に仕えなさい」、「子は親に従いなさい」、「奴隷は主人に従いなさい」と説かれている。ある人はこの箇所をさして言う「パウロはキリストにあっては男も女もなく、奴隷も自由人もないと教えたのに、ここでは逆のことを教える。パウロでさえ、世の慣習、制度から自由でなかったのか」(ガラテヤ3:28)。別の人は言う「ここでは弱者の従属が説かれている。この従属規定のために、古代・中世は暗黒の時代だった。近代はこの従属から解放され、自由・平等・博愛の理想を求めた所から始まった」。コロサイ3章で説かれている家庭訓は古い教え、家父長的倫理であり、男女の平等・親子の人格的尊重の説かれる現代では聞く価値がないことなのだろうか。
・18−19節では妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられている。それは単に「夫に従え」と言われているのではなく「主を信じる者にふさわしく、夫に仕えよ」と言われている。ギリシャ語では「エン・キュリオー=主において」である。キリストに従うように夫に従え、信仰の行為として夫に仕えよと言われている。同じ言葉が夫にも向けられる「夫たちよ、妻を愛しなさい」。古代において「妻は夫に従え」という教えはギリシャにもあった。「妻を治めよ=支配せよ」との夫への勧告はあった。しかし、夫に対して「妻を愛せよ」という教えはなかった。当時、妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではなかった。従って、「妻を愛せよ、つらく当たってはいけない」と夫に呼びかけられていることは革命的な教えであった。
・次に子どもに対して「親に従いなさい」と説かれている。古代において、子が父に従うことは当然であった。しかし、ここでは同時に父に対して「子につらく当たるな」と説かれている。当時の子どもたちは何の権利も持たなかった。その子どもの人格を敬えと言われている。しかも「主に喜ばれる」事として言われている。子が親に従う、親が子を人格として敬うことが信仰の出来事として説かれている。これは今までになかったことだ。
・最後に、奴隷は「主人に従え」と言われている。当時は奴隷制社会だった。パウロは奴隷制を不当なものではなく、当然のものとして受け入れることを求めているのだろうか。そうではないことが4:1を読めばわかる。奴隷が主人に従うことを定めた戒めは多いが、主人に対して「奴隷を正しく、公平に扱うように」求めた文書は聖書以外ない。奴隷は殺そうが、病気で死なせようが、主人の意のままであった。しかし、パウロは主人に言う「あなた方はそうではあってはならない。あなたの奴隷もまた主に愛されているのだから」と求めている。奴隷も主人も共にキリストのものだから、奴隷を痛めつけてはならないと命じられている。当時の世界で、奴隷主に対して、このような戒めを送ったのは、異例なことである。
・パウロは何故、子どもや妻に従属を勧めるのか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからだ。子どもは養ってくれる親なしでは生きることは出来なかった。妻の経済的自立のない当時においては、夫に従うしか、妻の生計の方法はなかった。奴隷もまた、主人に養われる以外の生存はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを神が与えてくださった道として積極的に選び取って行きなさいとここで言われている。

3.第一ペテロ書に見る従属

・第一ペテロも同じ教えを述べる。
−第一ペテロ2:18−19「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。
・ここでは寛大な主人だけではなく、無慈悲な主人であっても従えと求められている。神がそのようにこの世を作られたのだから仕方がないという諦めではなく、もっと積極的な意味がある。ペテロは続ける
−第一ペテロ2:20-24「「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。キリストは『ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました』」。
・キリストがののしられてもののしり返さず、苦しめられても報復されなかったように、あなた方も与えられた人生の中で最善を尽くせ、奴隷であることを逃れて新しい身分にあこがれるよりも、神があなたに奴隷の身分を与えて下さったのであれば、奴隷として最善を尽くして生きよとの信仰の選択が迫られている。ペテロは妻にも同じことを言う。自分の夫が未信者であることを歎くより、あなたの信仰に基づいた従属を通して、夫に信仰とは何であるかを示しなさい。神が何故あなたに未信者の夫を与えたのか、それはあなたを通して夫が信仰に入るためであり、そのために最善を尽くせと言われている。
−第一ペテロ3:1-2「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。

4.聖書の教えと私たちの選択

・個々にある三つの教えは諦めの教えではない。奴隷の身分から解放される機会があればその機会を生かせ、しかし奴隷であることを不当として主人の下から逃走し、一生を逃げ隠れてして送ることが神の御心ではない事を知れと言われる。婦人に対しては、どのような夫であれ従え、しかし夫が死ねば再婚しても良いと言われる。無慈悲な主人、不信仰の夫、かたくなな父、このような現実から目をそむけるな。現実に立ち向かえ、現実を神が与えて下さった導きとして積極的に従って行け。これこそキリストが為されたことであり、あなた方が従う道なのだといわれている。
・ここにおいて、私たちの主体的選択による従属の意味がわかってくる。現在の境遇は神が与えてくれたものだ。それに不満を言い、一時逃れの行為をしても、そこからは何も生まれない。むしろ、与えてくれた夫、与えてくれた父、与えてくれた主人を敬い、従うことを通して、道が開かれて来るのだ。ここに支配と従属に代わる新しい掟、自ら僕となる聖書の説く従属がある。それは自ら仕えて行くという積極的従属だ。パウロはコロサイの人々に言う「現在の苦しみを忘れるために霊の力を借り、神秘を求めても仕方がないのだ。現在の与えられた境遇の中で、何が神の御心であるかを求めていくのが、足が地に付いたキリスト者の生き方ではないか」。
・最後にアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの「平静についての祈り」を聞こう。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。教会形成も同じだ。人が足りない、お金が足りない、設備が足りないと歎くより、今与えられているもので何が出来るのかを求めよ。不足や困難が与えられているとすれば、それを通して神が私たちをどこへ導こうとされているかを祈り求めよ。そこに道が開かれる。聖書は私たちにそう教える。


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