すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年4月8日聖書教育の学び(2014年8月17日説教、1コリント1:10-18、十字架の言葉に生きる)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-01 17:53:22 (150 ヒット)

1.コリント教会の分裂騒動

・ローマ書を読み続けてきましたが、先週で終了し、今日からコリント書の学びに移ります。コリント書はパウロが開拓伝道したコリント教会に宛てた手紙です。コリント教会は多くの問題を抱えていました。それらの問題に対処するため、パウロは何度もコリント教会宛の手紙を書いています。聖書には二通の手紙だけが収録されていますが、実際は四通ないし五通手紙が書かれたと考えられています。今日読みますコリント第一の手紙は紀元55年頃、滞在先のエペソで書かれたと思われます。
・パウロはマケドニア伝道を終えてギリシアのアテネに行きましたが、アテネでは何の成果もなくパウロは意気消沈してコリントにわたります。しかしコリントの人々はパウロを受け入れ、1年半の伝道を通して、そこに教会が生まれていきます(使徒行伝18章以下)。教会設立後、パウロはコリント教会の今後をアポロに委ねて去り、今度はエペソの開拓伝道に力を注ぎました。そのエペソにいるパウロのところに、「コリント教会がおかしくなっている、人々が分派に分かれて争っている」との報告が届けられました。教会内の争いはいつの時代にもあります。今日、私たちは、パウロがコリントへ出した手紙を手がかりに、教会に争いが起きた時、どのように対処すればよいのかを学びます。
・パウロが去った後のコリントでは、人々がそれぞれの正しさを主張して、他の人々と対立し始めていました。パウロに導かれてバプテスマを受けた人々は、パウロの教えを大事にしました。パウロの後継者アポロは博識で雄弁でしたので、アポロの説教に感動した人々は、アポロ派を形成していきました。そのアポロは、教会内に分派争いが生じた時、身を引いてコリントを去ります。手紙が書かれた当時、コリントには牧師がおらず、エレサレム教会からの巡回伝道者が訪れて、回心者にバプテスマを授けていたようです。巡回伝道者からバプテスマを受けた信徒たちは、「エルサレム教会の指導者ペテロこそ本当の使徒だ」としてペテロ派になったのでしょう。また、教会内の争いにうんざりしていた人々は「私はキリストにつく」と言って、別のグループを形成したようです。こうしてコリント教会は分裂状態に陥ってしまいました。
・パウロは教会の人々に問います「キリストはいくつにも分割されたのですか」(1:13)。教会はキリストが頭であり、教師はキリストに仕える僕に過ぎないのに、何故、僕である教師が主であるキリストより重視されるのですかと彼は問います。次にパウロは「私があなたがたのために十字架につけられたのですか」と問います。「キリストが死んで下さったのであって、私が死んだのではない。あなた方は、私に救われたのではなく、キリストの十字架で救われたのだ。その十字架を仰ぎながら、互いに争うとしたら、十字架は飾りになってしまったのか」とパウロは問いかけます。
・最後にパウロは言います「あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか」。「名によって=名の中へ」への意味です。あなたがたはバプテスマを受けて、キリストの名の中に入れられた、キリストに属する者とされた。それなのに誰がバプテスマを授けたかにどうしてこだわるのか。パウロからバプテスマを受けた者はパウロ派になり、アポロから受けた人はアポロ派になる、それが正しい信仰と思うのかとパウロは問います。バプテスマとは水に入ってキリストと共に一度死に、水から引き上げられてキリストと共に新しく生きることです。そのキリストに結ばれる行為が何故、人に結ばれる行為となるのかとパウロは問いかけます。

2.君もそこにいたのか

・コリント教会の争いは他人事ではありません。私たちの教会にも起こる出来事だからです。私の出身教会は中野バプテスト教会ですが、中野では40年間牧会された先生が高齢になって名誉牧師となり、新しい牧師が招聘されましたが、教会の中に前任牧師を慕うグループと、現在の牧師を慕うグループが分かれ、何人かの人は教会内の争いに嫌気がさして教会を出て行かれました。この篠崎キリスト教会でも、牧師と有力執事が対立し、教会が分裂し、多くの信徒が散らされていった悲しい歴史を持っています。どこの教会でも、コリントのような争いは起こりうるのです。では何故、そのような争いが起こるのでしょうか。
・パウロは、「あなたがたがキリストの十字架の意味を本当には理解していないから、このような争いが起きるのだ」と語ります。彼は手紙の中で述べます「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1:18)。キリストの十字架は私たちに決断を迫ります。「Were you there when they crucified my Lord」という黒人霊歌があります。日本語では「君もそこにいたのか」です。「君もイエスを十字架につけたのではないのか、君も自分のことのみを優先し、他者を足蹴にして生きてきたのではないか。十字架につけられたキリストは、君に、君の罪を告白することを迫るのだ」という歌です。
・キリストの十字架に直面して、自分の罪が本当にわかった時、世の知恵は人を救う力がないことがわかります。人間は自らの知恵によって、地中から金属を抽出することが出来るようになりました。その金属を用いて人間が最初に造ったものは、他人を殺傷する武器でした(創世記4:22-23「ツィラもまた(レメクによって)、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった・・・レメクは妻たちに言った『・・・私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す』」)。私たちはキリストの十字架の時、まさにその場にいて、他の人々と同じく「イエスを十字架につけよ。自分を救えない者がどうして他人を救うことなど出来ようか」と叫んでいたのです(マルコ15:31)。だからパウロは叫びます「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」(1:17)。あなた方はキリストの十字架を虚しくしているのだとパウロはコリントの人々に語るのです。

3.十字架の言葉に従う

・今日の招詞に1コリント1:22-24を選びました。次のような言葉です。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。聖書学者の佐藤研氏は「十字架」という日本語があまりにもロマンチックな表象になり、イエスの死の実態とかけ離れている故、「十字架刑」ではなく「杭殺刑」を用いるように提案します。彼は言います「十字架と訳されているstaurosは本来、杭を意味し、杭殺刑は、古代においてはきわめて重大であったところの、人間の『誇り』を徹底的に破壊し、恥辱の極みに突き落とす処刑法である・・・それは見せしめの効果を最も悪辣に狙った惨殺方法なのである」(佐藤研「洗礼と十字架、訳語はこれで良いのか」、新約聖書翻訳委員会編『聖書を読む、新約編』、岩波書店、2005年、p.11)。
・十字架刑とは見せしめの拷問と処刑であり、愚かであり、無意味であり、おぞましいものです。十字架ではなく、「杭殺柱」なのです。しかし神はイエスをこの十字架から救出されなかった。そのことを通して人間に悔い改めを迫られた。この愚かしさを見て、人間は自己に絶望し、救いは人から来ないことを知り、神の名を呼び求めるようになります。だからこの十字架こそ「神の知恵」、「神の力」になりうるのです。
・「救いは人間からは来ない」、何故なら人間は他人を傷つけ、他人を殺してまで自分の生存を守ろうとする存在だからです。今年2014年は第一次世界大戦開始から100年、ノルマンディー上陸作戦から70年の節目です。そのノルマンディーを舞台にした戦争映画「プライベート・ライアン」のDVDをこの夏もう一度見ました。1998年にS.スピルバークによって作られ、アカデミー賞を受賞した作品です。映画では冒頭の20分間、ドイツ軍とアメリカ軍のすさまじい戦闘シーンが続きます。機関銃が唸り、砲弾が飛び交い、人の手足がちぎられ、海は血で真っ赤になります。双方数十万人の兵士たちが戦い、一日だけで双方の死者は2万人を超え、その死者たちは今ノルマンディーの墓地に眠っています。人間は有史以来戦争を続けてきました。戦争、殺し合いこそが人間の本質であり、それを提示するのがキリストの十字架です。しかし神はイエスをその十字架死から起された。それを知った時、もう「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はケファに」という言葉が出るはずがないではないかとパウロは語るのです。土井健司という聖書学者は語ります「キリスト教は、この世の理不尽さの極みであるところのイエスの十字架を出発点にしており、それ故にこそ、この世の理不尽さの中で、なお人々に希望を与え続けることが出来る」と語ります(土井健司『キリスト教を問いなおす』(筑摩新書、2003年、p.190,p.207)。
・教会はこの世にありますが、この世と一線を画す神の国共同体です。この世にある故に、この世の霊と行いが教会の中に入り込んできます。「自己実現」というこの世の知恵の本質は、「自己中心主義=エゴ」です。教会は会員が自己実現する、すなわち「自分の正しさ」を主張する場ではなく、「神の正しさ」を賛美する場です。神の正しさという視点から見れば、パウロもアポロもただの人にすぎないという視点を持つことが必要なのです。同じように十字架や洗礼を美化することも避ける必要があります。十字架はおぞましい人間の悪であり、その悪からは何も良いものは生れません。良いものはその悪の中で死なれたイエスを神が起された、そこから生まれるのです。洗礼はその十字架と共に死ぬ行為です。洗礼によって私たちが救われるのではなく、洗礼によって私たちは死ぬのです。パウロが語るように「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(ローマ6:4a)。一旦死ぬことを通して救いが来ます。パウロは続けます「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4b)。この本質を見失わない限り、教会分裂は起きません。教会は人によってなったものではなく、神によって造られ、教会の主は人ではなく、キリストだからです。


印刷用ページ 

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。