すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年3月25日聖書教育の学び(2014年4月13日説教、マルコ15:33-41、本当にこの人は神の子だった)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-03-18 21:17:09 (191 ヒット)

1. 神の見捨ての中のイエスの死

・マルコ福音書を読んでおります。イエスは木曜日の夜に捕らえられ、死刑宣告を受け、金曜日の朝9時に十字架にかけられました(15:25)。十字架刑は両手とくるぶしに鉄の釘が打ち込まれて、木に吊るされます。手と足は固定されていますので、全身の重みが内臓にかかり、呼吸が苦しくなり、次第に衰弱して死に至ります。十字架はローマが反逆者に課した残虐刑です。イエスの時代、ユダヤでは、支配者ローマに抵抗する多くの人たちが、反逆者、テロリストとして、捕らえられ、殺されました。その数は数千人を超えるといわれています。何千人もの人々がローマ軍により十字架刑で殺されて行きましたが、その中でイエスの十字架死は世界史を動かす力を持ちました。それは「十字架で死なれたイエスが死に打ち勝って復活された」という信仰が生まれたからです。「イエスは復活された」、それ故に「イエスは神の子であった」と弟子たちは信じます。この信仰が教会を誕生させます。しかし、「その神の子が何故十字架で殺されたのか」、弟子たちには大きな疑問でした。「イエスの死の意味は何だったのか」、弟子たちは聖書(旧約聖書)を手がかりに探求していきます。その探求の結果が福音書にあるイエスの受難物語です。受難週の今日、マルコを通じてイエスの死の意味を考えていきます。
・イエスは「朝の9時に十字架にかけられ(25節)、昼の12時になった時、全地は暗くなり、3時まで続いた」とマルコは語ります(33節)。「全地が暗くなった」、マルコはそのことの中に、終末の到来を見ています。預言者アモスは語ります「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」(アモス8:9)。アモスの預言が成就した、終わりの日が来た、だから闇が大地を覆った、マルコは神の怒りが天地を暗くしたと私たちに訴えます。
・3時になった時イエスが叫ばれます「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」(34節)。アラム語で「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」という意味です。この言葉は詩篇22編からの引用です。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」(詩篇22:2)。イエスは小さい頃から親しんでおられた、詩篇の言葉で自分の思いを叫ばれました。それは、嘆きであり、苦しみの叫びです。イエスは激しい叫びと涙を持って父なる神に「なぜ私をお見棄てになるのか」と訴えられました。しかし何の応答もありませんでした。マルコはイエスが、絶望の中で、それでも神の名を叫びながら、死んでいかれたと記述します。
・イエスが死なれた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた」とマルコは記します(15:38)。神殿の垂れ幕とは、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。至聖所は年に一回大祭司が入り、罪の贖いのために動物の犠牲を捧げる場所です。聖所と至聖所の幕が裂けた、イエスの死により罪の贖いのための生け贄えの犠牲は不要になった、その象徴として神殿の幕は裂かれたとマルコは言っています。ヘブライ人への手紙は語ります「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない・・・この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11-12)。
・イエスの十字架刑の時、弟子たちはそこにいず、ただ婦人たちだけが立ち会ったとマルコは記しています(15:40)。弟子たちは逃げ去っていたのです。彼等はイエスの弟子として自分たちが捕えられるのが怖かった。同時に、十字架上で無力に死ぬ人間が救い主であると信じることが出来なかった。しかし、その弟子たちがやがて「十字架で死なれたイエスこそ、私たちの救い主である」と宣教を始めます(使徒2:24)。

2. 十字架の現場で奇跡が起きた

・イエスは十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで、息を引き取られましたが、この叫びは先ほど見ましたように詩篇22編冒頭の言葉です。弟子たちは「イエスこそメシア、救い主」と信じてきたのに、そのメシアが無力にも十字架につけられ、十字架上で絶望の言葉を残して死なれた。「この方は本当にメシアだったのか、メシアが何故絶望して死んでいかれたのか」、弟子たちは詩篇22編を通して、イエスの死の意味を探していきます。詩篇22編にはイエスの受難を預言するような言葉が満ちています。福音書にある人々の嘲笑の言葉も、詩篇22編からの引用です「私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」(15:31-32,詩編22:8-9)。ローマの兵士たちはイエスの服をくじで分けますが(15:24)、その光景も詩篇22編の引用です「犬どもが私を取り囲み、さいなむ者が群がって私を囲み、獅子のように私の手足を砕き・・・私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」(詩篇22:17-19)。最後に詩人は歌います「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください。私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。私の魂を剣から救い出し、私の身を犬どもから救い出してください」(詩篇22:20-21)。
・イエスは人に棄てられ、絶望の中に死んで行かれました。イエスが十字架にかけられた時、人々はイエスを嘲笑しました。しかし、イエスが息を引き取られた後では嘲笑は消え、その代わりに思いがけない光景が語り始められます。マルコはイエスの十字架刑を指揮していたローマ軍の百人隊長が「本当にこの人は神の子であった」と告白したと記します(15:39)。ローマでは皇帝が神の子と呼ばれました。しかし、ローマ帝国を代表してその場にいた百人隊長が、皇帝ではなく、皇帝の名によって処刑されたイエスを「神の子」と呼んでいます。状況から考えると、これは奇跡としかいいようのない言葉です。

3.無力の中に示された奇跡

・今日の招詞に1コリント1:22-24を選びました。次のような言葉です「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。イエスは十字架上で人々の嘲笑の中に死んでいかれました。通りがかりの人はイエスを嘲笑して言います「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:29-30)。祭司長たちも嘲笑します「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(15:31-32)。ユダヤ人たちはイエスに、「神の子であれば十字架から降りることが出来るはずではないか、降りることが出来ないのはお前が神の子ではないからだ」と嘲笑します。しかしイエスは十字架から降りず、死んでいかれました。イエスと共に十字架につけられた者たちさえ、イエスを罵ったとマルコは記します(15:32b)。
・秋田大学の持田行雄氏は述べます「ユダヤ人が求めたのはしるし=奇跡である。彼らは十字から降りてみよ、そうすれば信じようと言ったが、イエスは降りられなかった。そのためユダヤ人はつまづいた。ギリシア人が求めるのは知恵=合理性だった。神の子であるならば、十字架から降りることが出来るのに降りないとしたら愚かだと。だからギリシア人もつまづいた。しかしパウロは十字架につけられたまま、降りて来なかったキリストを宣べ伝える。降りて来なかった、そこにこそ十字架の奇跡がある。何故ならば奇跡から信仰が始まるのではなく、信仰から奇跡が始まるのである」(持田行雄「キリスト教倫理の信仰的根拠」)。
・福音書記者マルコは次のように理解して物語を書いたと思われます。「イエスは神の子であった。イエスは神の子故に十字架から降りることができた。それにもかかわらず、彼は降りなかった。神はイエスを十字架につけられたままにされた」。「しかし神はそこに共におられた。それ故、昼の十二時になると全地は暗くなり(15:33)、神殿の垂れ幕は裂け(15:38),イエスの死を見つめていた百人隊長が『本当にこの人は神の子だった』と告白した(15:39)」。マルコの教会はユダヤ人からの、また異邦人からの迫害の中にあったと思われます(13:9「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」)。彼らは世から、人からの見捨ての中にあったのです。しかし、神は自分たちを救って下さらない、何も行為されない、「神は自分たちを見限られたのか」という信仰のゆらぎが教会の中にありました。マルコはその人々に「神はイエスを十字架につけられたままにされたが、そのイエスを神は起こして下さった(復活させて下さった)。十字架の時も共にいて下さった。だから力を落とすな」と語りかけているのです。「神が介入しないことを通して、イエスの贖いの業が為された。だから私たちの苦しみは無意味ではない」とマルコは語ります。
・奇跡を起さなければ信じないというのは、神に対する挑戦です。しるしを求めることは神を試みることです。それ故イエスは神から見捨てられながらも、しるしを求められなかった。そのイエスを神は肯定され、起された。それが十字架の意味であり、復活の意味です。その事実は私たちの生き方を変えます。イエスが人に棄てられ、絶望の中に死んで行かれたのであれば、私たちも人の見捨てにあっても良いではないか。苦難が私たちに重くのしかかる時、私たちはしばしば言います「この苦しみはあなたなどにはわからない」。そして私たちは心を閉ざし、自分の世界に閉じこもります。しかしイエスの十字架の苦しみは私たちのどのような苦しみよりも深い。イエスは苦難の底で絶望しながらも、「わが神、わが神」と叫ばれました。イエスは「神なしで死なれた、しかし神はイエスと共におられた」。イエスの受難が私たちに伝えることは、「神は私たちと共にいて、私たちの苦しみを知り給う。このことが、絶望からの希望を私たちに与える」という事実です。私たちが苦難の中にあり、誰もそれを理解してくれない時にも、神はそこにおられる。その信仰が神の民を生み、神の民の共同体である教会を形成していくのです。


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