すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年3月4日聖書教育の学び(2009年11月8日説教、マルコ12:38−44、ひたむきな信仰こそ)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-25 17:55:09 (166 ヒット)

1.イエスはすべてを捧げるために来られた

・マルコ福音書を読み続けています。イエスは日曜日にエルサレムに入られ、神殿で民衆に教えられました。パリサイ人やサドカイ人が論争を挑んできましたが、誰もイエスに勝てません。一人の律法学者はイエスに告白します「先生、おっしゃるとおりです。・・・心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛するということは、どんな焼き尽くす献げ物や生贄よりも優れています」と。その後、誰もイエスにあえて問うものはいなかったとマルコは記します(12:34)。
・その後、イエスの方から人々に問われます「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」(12:35)。イエスがエリコを出られた時、盲人バルテマイはイエスに叫んで言いました「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」。イエスがエルサレムに入城された時、人々はイエスを歓呼して叫びました「ダビデの子にホサナ」。メシア、救い主はダビデの子孫から生まれる、そのメシアこそイスラエルをローマの植民地支配から解放してくれるとユダヤの人々は信じていました。人々はイエスの為された不思議な業を見、力ある教えを聞いて、この人こそメシアかもしれないと思いました。だからエルサレムの人々はイエスを迎えて、「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。「ダビデの子よ、エルサレムを異邦人ローマの支配から解放して下さい」との願いがそこにあります。
・それに対してイエスは言われます「私はダビデの子ではない。私はエルサレムをローマの支配から解放する為に来たのではない」。自分の使命は地上に神の国を建てることではなく、人々の心の中に神の国を建てることだ、「神の平安の中に生きることこそ神の国なのだ」とイエスは言われます。そしてイエスは、神殿で一人の貧しいやもめが自分の持っているもの全て献げたのを見て、心を動かされて言われました「私はあの貧しいやもめと同じだ、私はあなた方に自分を献げるためにこのエルサレムに来たのだ」。マルコ福音書12章41節以下の物語は「やもめの献げもの」して、よく知られています。今日はこの物語を通して、「信仰による平安」について学んでいきたいと思います。

2.すべてを捧げたやもめ

・イエスの時代、エルサレム神殿には多くの富が集まっていました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。そこにはまた、律法学者もいました。彼らの多くはパリサイ派に属していました。パリサイ派は律法とその釈義である「口伝律法」を厳密に守ろうとした派です。律法に精通していた彼らは、神の戒め=律法を守るように民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。しかしイエスは律法学者たちを批判して言われます「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(12:38-40)。彼らの行動はすべて「人に見せるため」(マタイ23:5)だとイエスは批判されます。「彼らは神を信じ崇めているのではなく、自分を信じ崇めている」と。
・この律法学者の姿は、私たちの生き方への警告でもあります。私たちも人からどう評価されているか、あるいは人からよく思われるためにはどうしたらいいか、そのようなことばかりを考えています。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつながり、人とのつながりを生きることはできません。イエスの批判の中に「やもめの家を食い物にする」(13:40)という言葉が出てきます。これは41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょう。やもめにとって夫の遺産相続は死活問題でしたが、このような遺産相続などのもめごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで、当時の律法学者たちは法外な手数料を取って、貪っていたという現実があったようです。
・この律法学者と正反対の立場にいたのが「やもめ=寡婦」でした。聖書の中で、寡婦は、寄留の他国人や孤児と並んで、いつも社会的弱者の代表です。「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない・・・寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22:20-22)と律法は記します。寄留者とは、周囲に自分を守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。
・イエスは神殿の賽銭箱に向かって座っておられました。イエスのおられるところから人々が献金する様子がよく見えます。当時、エルサレム神殿の中庭には13の賽銭箱があり、献金の種類によって賽銭箱が分かれていたそうです。箱のそばには祭司がいて、大口献金の時には、祭司が献金者と献金額を読み上げる慣習があったそうです。そのため、周りの人たちも誰がいくらくらい献金しているのかを知ることが出来、人々は先を争ってたくさんの献金をしました。献金額の大小が、その人の信仰を測るものさしになっていたました。
・その時、一人のやもめがレプタ二つを献金しました。おそらくは祭司のいないところで隠れるようにして献金したのでしょう。レプタは当時使われていたギリシア貨幣の最小銅貨レプトンの複数形、レプタ二つで1デナリの64分の1、1デナリが労働者1日分の賃金でしたから、今日の貨幣価値では100円位のお金、言うなれば50円玉二つを献げたようなものです。しかし、イエスはやもめの表情から、彼女が持っているもの全てを入れたことを悟られ、感動されます。イエスがどのように感動されたのか、43節の言葉からわかります。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました「よく聞きなさい」。原語のギリシア語では「アーメン、レゴー、ヒュミン」という言い方です。イエスはやもめの献金に「アーメン、アーメン」と言われたのです。
・じっと見ておられたイエスには、やもめの気持ちが手を取るようにお解りになりました。やもめの手元に今、レプトン銅貨が二つあります。最期のお金です。しかし、今日は神様に特別に恵みをいただいた、この感謝を表したい、そのためには手元にあるものの一部ではなく、全部を献げたい。やもめはこのお金を献げてしまった後、今日のパンをどうするのかは考えていません。「必要なものは神が与えてくださる。だからすべてを捧げよう」。イエスはやもめの表情から彼女の心を推察され、「持っている全てを献げる、後のことは父なる神に委ねる」、そのやもめの信仰をご覧になった。イエスはその信仰に感動され、「アーメン」と言われたのです。

3.持たない者の幸い

・やもめは持っているものをすべて献げました。では、私たちも、持っているものを全て売り払って貧しい人に施すべきなのでしょうか。あるいはすべてを捨てて修道院に入り、すべての時間を神に献げることを求められているのでしょうか。ある人たちはそう考え実行しましたが、平安は来ませんでした。犠牲的に献げてもそこに喜びは生まれないのです。献げるとは生かされている恵みに対する感謝であり、献げる事の出来ることを喜んだ時、その献げものは神に喜ばれる献げものになるのです。
・今年60歳になりました。人生の4分の3は生きた勘定です。その経験から言えることは、人が自己実現を求めて、自分の満たしを求めて生きても、そこには平安がないと言うことです。人が自分の幸福のみを追求した時、それは律法学者のような生き方になります。長い衣を着て自分の地位を誇り、広場で挨拶されて自分の地位に満足し、会堂で上席に座って自分の地位を確認する生き方です。現代で言えば大会社の役員のようなものです。でもその喜びは続かない。やがては新しい人がその場を占め、彼は片隅に追いやられます。会社生活の中で多くの人を見てきました。同期のトップで役員に昇進し、得意になって会社の廊下を歩いていても、役員を退任すれば誰も振り向かないようになります。自分を養っても幸せにはなれないのです。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(1ヨハネ2:17)。正にそうなのです。
・今日の招詞に列王記上17:13-14を選びました。次のような言葉です「エリヤは言った『恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない』」。エリヤの時代、大旱魃があり、飢饉がシリヤ地方にも及び、貧しいサレプタのやもめの家では食糧備蓄が底を尽き、死を覚悟していました。そのやもめに、主はエリヤのためにパンを供せよと命じられます。やもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」という主の言葉通り、飢饉の間、やもめ一家とエリヤは養われたという話です。どのようにして必要が満たされたのか、私たちにはわかりませんが、何らかの事実が基底にあって伝説化された物語であろうと思われます。「すべてを差し出した、後はあなたに任せる」、そのところに神の救いの力が働いたのです。現代の複雑な経済社会でも、サレプトのやもめやレプタ二つを捧げたやもめのような生き方は可能なのでしょうか。可能だと思います。
・私たち夫婦は今、教会の牧師館に住んでいます。引退後、住む家は用意していません。結婚して32年になりますが、これまで何度も住宅を買う機会はありました。30歳の時にはマンションの売買契約書にサインしたこともありますし、45歳の時には住宅購入のために頭金を振り込んだこともあります。しかしちょうど業界団体に出向したり、福岡に転勤になったりで、住宅を購入することなく、今に至りました。もし住宅を購入して多額のローンを抱えていたら、50歳で勤め先を退職して牧師になることはなかったでしょう。持たないゆえに、牧師になることが出来た。今、将来について特に不安はありません。「60年間養ってくださった神は、これからも養ってくださる」と信じているからです。
・「持たない者の後ろ盾は神しかいない」。貧しいやもめはレプタ二つしか持っていないから全てを献金できたと思います。レプタ一つ(1日分の賃金の1/128)を残してもパンは買えないからです。仮に彼女が10デナリ(10日分の賃金)を持っていたら半分の5デナリを自分のために残したでしょう。持たない故に神に頼り、そこから神の国が見えて来たのです。サレプタのやもめもそうです。彼女は最後の粉と油でパンを焼いて、食べたら死のうと思っていました。そこにエリヤからの要望(私のためにパンを焼きなさい)があった、だからエリヤのために最後の粉でパンを焼いて提供しました。彼女も神に頼らざるを得ませんでした。私の住宅問題もそうで、神に頼るしか道がないから頼るのです。その時、「必要なものは神が与えてくださる」、「これまで養ってくださった神はこれからも養ってくださる」との信仰が生まれ、何者にも代えがたい「神の平安」が与えられていきます。持つ能力を与えられた人は、「大いに稼ぎ、大いに貯め、大いに捧げる」ことを目指し、持たない人は「神に依り頼む」ことを目指していく。そして共に神を賛美して生きる、その時、私たちの教会が神の国の一部になって行きます。


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