すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年2月25日聖書教育の学び(2009年4月5日説教、マルコ11:1-11、馬ではなくロバに乗って)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-18 17:14:17 (261 ヒット)

1.ロバに乗ってエルサレムに入城されるイエス

・今日から4月、新しい年度を迎えますが、今日はまた受難週の始まりの日でもあります。イエスはユダヤの過越祭りの時に、エルサレムに入城されました。その時、エルサレムの群集は道に棕櫚の葉を敷いて、イエスを歓迎したと伝えられています。そのため、イエスがエルサレムに入られた日曜日を「棕櫚の主日」と呼び、教会暦では今日4月5日が棕櫚の主日です。
・今日はマルコ11章を通じて、この棕櫚の主日の出来事を学びます。大事な点は二つあると思います。一つはイエスがロバに乗ってエルサレムに入られたことです。イエスはメシア、王としてエルサレムに入られますが、王にふさわしい乗り物は馬であってロバではありません。それなのに何故ロバに乗って入城されたのか、これが考えるべき大事な点の一つです。もう一つはイエスを歓呼して迎えた民衆が、その6日後の金曜日には、「十字架につけろ」と叫びます(15:13)。それは何故なのか、学ぶべき第二の点です。
・マルコの本文に入ります。マルコは記します「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ロバのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい』」(11:1-2)。イエスは二人の弟子に、「向こうの村へ行ってロバを借りて来なさい」と言われました。「向こうの村」、おそらくはベタニア村です。そこにはイエスと親しかった「マリアとマルタ」が住んでいますし、またイエスが病気を癒された「らい病人シモン」も住んでいました。彼らに頼めばイエスの為にロバを用立ててくれるに違いありません。イエスは弟子たちに注意を与えて遣わされました「だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)。
・イエスは何故ロバを必要とされたのでしょうか。並行記事のマタイ21章は次のように説明を加えています「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった『シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って』」(マタイ21:4-5)。預言者とはゼカリヤのことです。イエスはゼカリヤの預言にならってロバの子に乗って、エルサレムに入城されました。イエスは解放者としてのメシアを求める人々の期待を知っておられました。その期待に応えるには、馬に乗って、威風堂々と入城するのが普通です。メシア=王であるならば、その方がふさわしい。しかし、イエスは馬を選ばれず、ロバを選んで、エルサレムに入られました。ロバは風采の上がらない動物です。王にふさわしい乗り物ではありません。しかし、イエスはあえて、ロバを選んで、エルサレムに入られました。
・ここでロバが聖書においてどのように扱われていたのかを知る必要があります。出エジプト記13:13には次のような記事があります「ロバの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない」。旧約聖書においては、すべての家畜の生む初子は神に捧げることが求められていましたが、ロバだけは代りに子羊を捧げよ、何故ならばロバは卑しい動物であり、神に捧げるのにふさわしくないからだとされていました。イエスは旧約聖書を熟知されていましたので、当然出エジプト記の記事もご存知であったと思われます。「神に捧げるにふさわしくない」ロバに乗って入城される、そこに自分がどのような形で死ななければいけないのかというイエスの覚悟が窺えます。「私はメシアであり、あなたがたを救う為に都に来た。しかし、あなたがたが期待するように軍馬に乗ってではなく、ロバの子に乗って来た。私がロバのように卑しめられて死ぬことを知らせるために」というお気持ちが、ロバに乗るという行為に示されています。
・イエスはこの行為を通して人々に語られます「馬は人を支配し、従わせるための乗り物だ。しかし、私は支配するためではなく、仕えるために来た。あなたがたに本当に必要なものは戦いで勝利を勝ち取ることではなく、和解だ。人間同士、国同士の和解に先立って、まず神との和解が必要だ。あなたがたの罪がその和解を妨げている。だから私はあなた方の罪を背負うために来た」と。ロバは風采が上がらず、戦いの役に立ちません。しかし、ロバは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って担います。イエスも重荷を担うために来たと言われます。

2.イエスを歓呼し、やがては罵倒する民衆

・イエスはエルサレムに入城されました。エルサレムでは、高名な預言者が来るとして、人々が集まって来ました。不思議な力で病を治し、悪霊を追い出されるイエスの評判は都まで伝わっていました。もしかしたら、この人がモーセの預言したメシアかも知れない、都の人々は期待を持ってイエスを歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」(11:9-10)。「ホサナ=私たちを救って下さい」、「ダビデの国を今こそ建てて下さい」と群集は叫びました。「あなたがメシアであれば、このイスラエルから占領者ローマを追い出し、再びダビデ王国の栄光を取り戻して下さい」と群衆は期待して叫びました。その歓声の中を、イエスは一言も言われずに、進んで行かれます。
・人々が求めていたのは、栄光に輝くメシア、軍馬に乗り、大勢の軍勢を従え、自分たちを敵から解放し、幸いをもたらしてくれる強いメシアです。重荷を代わりに負ってくれるロバに乗るメシアではありません。イエスは木曜日にユダヤ教指導者たちの派遣する兵士たちに抵抗することなく逮捕され、深夜の裁判でも一言も抗弁されず、金曜日の朝にはローマ軍に渡され、ローマ兵の鞭を受けてその身体は血と汗と埃でまみれていました。どこにも王の面影はありません。民衆はその惨めなイエスの姿を見て、「この人はメシアではなかった」と思い始めます。期待が強かっただけに、裏切られたときの失望も大きくなります。だから民衆は叫びます「この偽メシアを十字架につけろ、この何も出来ない男を殺してしまえ」と。歓声が罵声に変わっていったのです。こうしてイエスは金曜日に十字架につけられ、死んでいかれました。

3.馬ではなくロバのように生きる

・今日の招詞にイザヤ49:4を選びました。次のような言葉です「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。イエスがいつ十字架で死なれたのか、歴史は記録していません。ローマの支配下にあって騒乱罪での処刑は日常の出来事であり、イエスの処刑もその一つにしか過ぎず、特段の歴史的重要性は無かったからです。この世的に見れば、イエスの死は意味のない、無駄な、愚かな死でした。しかし私たちはイエスの復活と弟子たちの証しを通して、その死が無駄ではなかった、「一粒の麦が地に落ちて死んだ」故に私たちは救われた事を知っています。そして今は、イエスが何故、「馬ではなくロバに乗ってエルサレムに入城された」のかを理解します。
・聖書は馬に頼る生き方を拒否します。イザヤは言いました「助けを得るためにエジプトに下り、馬に頼る者はわざわいだ。彼らは戦車が多いのでこれに信頼し、騎兵がはなはだ強いのでこれに信頼する。しかしイスラエルの聖者を仰がず、また主にはかることをしない」(イザヤ31:1)。馬は力の象徴です。馬に頼るとは、自分の力に頼り、他人を支配して生きていく人生です。しかし、馬は肉に過ぎず、倒れます。倒れるものに望みを託すなと聖書は言います。それに対して、ロバに乗る人生とは主にのみ依り頼んで歩いていく人生です。ロバは柔和で忍耐強く、人間の荷を黙って負います。ロバは馬ほどに力もなく、ロバは馬ほど速く走れず、ロバは馬ほど大きくない。そのロバを主は馬よりも高く評価された。ここに私たちの生き方が示されているのではないでしょうか。
・時代の中で華やかな脚光を浴びる人はいます。能力に恵まれ、指導者として成功する人もいます。しかし、多くの人は名も知られずに生き、死んでいきます。私たちの人生は他者に評価されることによって意味が生じるのではなく、ロバのようにやるべきことを黙々として行い、負うべき荷を負う人生でよいのではないかとイエスは言われます。あえて言えば、「私たちの人生はこの世で完成する必要はない」のです。イエスの人生もこの世で完成しなかった。イエスは十字架で罪人として卑しめられて死んで行かれた。しかし神はそのイエスを「引き揚げて」下さった。そうであれば無駄な、無意味な人生などない。「いたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」としか思えない人生であっても、評価してくださる方は、私たちが一生懸命に生きたことを知っていてくださる。それで十分ではないでしょうか。
・内村鑑三は「後世への最大遺物」と言う講演をしました。彼は高崎藩士の子として生まれ、札幌農学校時代に洗礼を受けてクリスチャンになります。彼は講演の中で、われわれは後世に何を遺せるかを問い、お金、事業、思想を挙げた上で次のように言います。「それならば最大遺物とは何でしょうか。私が考えて見ますに人間が後世に遺すことのできる、そうして誰にでも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物は“勇ましい高尚なる生涯”であると思います。高尚なる勇ましい生涯とは何か、それはこの世の中はけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であることを信ずることです。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることです」と語っています。
・「いたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」と思える時にも、「裁いて下さるのは主であり、働きに報いて下さるのも私の神である」との信仰を持って生きる人生こそ、ロバの生き方です。忍耐強く、愚痴を言わずに、黙々と他者の荷を負っていく。そのようなロバを「主がお入用なのです」と用いて下さるかたがおられる。私たちが「召される」とはそういうことです。そして私たちは「召された」故に、今日、ここにいる。今日、ここにいることの素晴しさを知っていただければと思います。


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