すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2018年2月11日聖書教育の学び(マルコ7:31-37、エファタ=開け)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-02-04 21:03:28 (299 ヒット)

1.デカポリスでの癒し(2015.5.10祈祷会から)

・イエスはティルス地方を出て、シドン、デカポリスと異邦の地を巡り、ガリラヤ湖の対岸に来られた。そこに、村人が、耳が聞こえず、舌の不自由な人を連れて来て、イエスに癒しを願った。
―マルコ7:31−32「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」
・イエスは聴覚と言語の機能を失っている人を、騒がしい群衆から引き離し、患者の両耳に指を入れ、唾で患者の舌を濡らし、天を仰いで祈り、「エファタ(開け)」と叫ばれた。患者は耳が聞こえ、話せるようになった。患者を連れて来た人々は驚いた。
―マルコ7:33−35「そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけて、その舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」
・マルコ福音書にはアラム語をそのまま残したいくつかの記事がある。マルコ7章では「エッファタ=開け」という言葉が用いられ、マルコ5章では「タリタ・クム=少女よ、起きなさい」という言葉が用いられている。その場にいた弟子たちは、イエスから発せられた言葉が強く刻まれ、忘れることができなかった。そして目撃者の一人ペテロが出来事をマルコに伝え、マルコも感銘を受けて、アラム語の発音をそのまま表記して、自分の福音書に書き込んでいったと思われる。「エッファタ=開け」も同様であろう。イエスの肉声がここに記録されている。
・人々は驚き、イエスの癒しを言い広めた。
―マルコ7:36−37「イエスは人々に、だれにもこのことを話していけないと口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべてすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」
・「神の国は既に来ている」とイエスは言われた。私たちが「エファタ」と言っても耳の悪い人の耳を開けることは出来ないし、「タリタ・クミ」と言っても死んだ人が生き返るわけではない。しかし、私たちは私たち自身の「聖なる者との出会い」体験を通して、それが出来る方がおられることを知っている。この物語では「村人たちは他者とコミュニケートできない人に心を痛め、何とか治らないものかと願い、その人をイエスの前に連れてきた」。村人たちの信仰が障害の人をイエスに出会わせ、イエスのうめきをもたらし、このうめきが、この人を交わりに中に戻した。私たちには出来ないことでも神には出来る、その信仰を持って私たちは人々を教会に導き、イエスとの出会いを祈る。
・共観福音書には115の癒しの記事がある。イエスの活動の中心は癒しだった。しかし後の教会はイエスの癒しを軽視する。「エファタ」と言えば聾が治る、そのような魔術的な側面が忌避されたのだろう。私たちは癒しを奇跡という側面ではなく、イエスがどのような思いでそれを為されたかを見る必要がある。
-マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」。
・イエスが癒されたのは、多くの場合、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々であった。その人々に対し、イエスは「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、「清くなれ」と宣言し、癒した(マルコ1:40-45)。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、「棺に手を触れ」、彼を生き返らせた(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われた(マルコ3:1-6)。イエスは自らが痛む(社会的制裁を受ける)ことにより、病む者たちの痛みを共有された。このような癒しを教会はもっと学ぶ必要があるのではないか。

2.エファタ(2009.09.06説教から)

・イエスはこの人と出会うと、「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」とマルコは記します(7:33)。この人と一対一で向き合われたのです。そして病んでいる患部、耳と舌に触れられました。しかしそれだけでは十分ではありません。だからイエスは「天を仰いで、深く息をつかれた」(7:34)。「天を仰ぐ」、神の力を与えてくれるよう請い願う動作です。「深く息をつき」、ギリシア語「ステナゾー」で、本来の意味は「うめく、もだえる」です。イエスは人間自身の力では変えることの出来ない嘆きや苦しみを負うこの人を前にもだえ、うめき、そのうめきの中から、「エッファタ」という言葉を言われています。すると「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とマルコは記します(7:35)。イエスの祈りに応えて、イエスを通して神の力が働き、癒しの出来事が起こりました。
・マルコは、イエスが「共にうめかれた」と記します。イエスは何故、この人と共にうめかれたのか、それはこの人と「出会った」からです。その出会いを導いたのは村人でした。マルコは記します「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(7:32)。村に「耳が聞こえず、舌の回らない人」がいた。村人たちは他者とコミュニケートできないこの人に心を痛め、何とか治らないものかと願っていたが何も出来なかった。そこにイエスが来られた。イエスはこの地方でかつて悪霊につかれた人を癒したことがあります(マルコ5:20)。村人たちはその評判を聞いており、その預言者が近くに来られたことを知り、この人ならば癒してくださるかもしれないと思って、その人をイエスの前に連れてきたのです。イエスはそこに、村人の信仰を見られました。村人たちの信仰が障害の人をイエスに「出会わせ」、イエスの「うめき」をもたらしたのです。このうめきが、この人を交わりに中に戻しました。
・作家・柳田邦夫氏は「犠牲-わが息子・脳死の11日間」という本を書いています。彼の次男は自殺を図り、11日間脳死状態を続けた後亡くなりましたが、柳田氏はその時のことを本に書きました。柳田氏は死につつある息子に寄り添いながら、死には三つの形態があることに気づきます。「一人称の死」、「二人称の死」、「三人称の死」の三つです。一人称の死とは自分自身の死で、これは人間には認識できない死です。二人称の死とは、親子や配偶者、兄弟、親しい友人等の死で、この死を経験した者は、自分の一部がなくなるような深い悲しみ、喪失感を味わいます。三人称の死とは、自分と関りのない人の死で、例えばアフリカで何千人が餓死しても、隣町で自殺する方がいても、自分の生活は昨日と同じようであり、夜眠れないこともありません。
・イエスはこの障害の人と出会われた時、その人を三人称ではなく、二人称の関係ととらえられた。そのため、「共にうめく」という出来事が生じたのです。そして、それをもたらしたのは、隣人たちの信仰でした。彼らもまたこの病の人を三人称ではなく、二人称として、自分の問題として、とらえたのです。マルコはこの物語を人々の賛美で締めくくります「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(7:37)。他者のために労した人々は、やがて神の出来事の証人になっていきます。ユダヤ人たちはイエスの業を見ても讃美できませんでしたが、異邦の人々は「今、神の国が来た」ことを喜ぶことが出来た。そして神の国は、人々の信仰とイエスのうめきによって、もたらされたのです。

3.共にうめく(2009.09.06説教から)

・パウロはローマ8:22-23で、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と語りますが、ここの「うめく」という言葉も「ステナゾー」です。パウロは「被造物がすべて、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」と言います。この世にはあまりにも悲しいこと、不条理なことが多く、その中でどうしてよいかわからない時、うめくしかないです。しかしその「うめき」から何かが生まれます。パウロは言います「このうめきは産みの苦しみであり、うめきを通して救いが与えられる」と。パウロはローマ書の中で言葉をつなぎます「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(8:26)。私たちが祈ることも出来ない時には、神の霊が私たちに代わってうめいて執り成してくださると。「うめきは力である」というのです。
・マルコ7章の物語では、近隣の人たちが、「耳が聞こえず舌の回らない人」の課題を三人称、自分には関係のない問題とはとらえずに、二人称、自分の家族の問題と同じようにとらえ、その人をイエスの元に連れて来ました。その信仰がイエスに「共にうめく」ことを可能にさせ、この人の癒しを導きました。その癒しを通して、この人はコミュニケーションを回復することが出来ました。心を通わすことが出来ないでいた人が、隣人と一緒に喜ぶ存在に変えられました。それを可能にしたのは、村人の働きでした。
・「三人称の出来事を二人称化する」、それこそイエスが私たちに求められていることです。それは自分一人ではなく、隣人と共に生きる生き方になります。ある時にはそれは重荷を担う生き方になるかもしれない。しかし素晴らしい生き方です。何故ならそのことを通して神の栄光を見る、神と出会うのですから。障害を持つ人々の隣人は讃美して言いました「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。この物語で恵みをいただいたのは、癒された本人でしょうが、それ以上にこの隣人たちかもしれないと思います。私たちも隣人になるよう招かれています。そして隣人になるとは「三人称の出来事を二人称化して、その人をイエスの前に連れてくる」ことなのです。


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