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みんなの証
みんなの証 : 2018年1月21日聖書教育の学び(マルコ3:1-6、安息日の癒し)
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-01-14 21:46:59 (189 ヒット)

1.マルコ3:1-6「手の萎えた人をいやす」

・イエスは繰り返し、安息日に病の人をいやされた。これは安息日を絶対の聖日(仕事をしてはいけない日)とする律法学者やファリサイ人に対する挑戦であり、ユダヤ人たちはイエスを異端の教師と見始めていた。そのイエスが安息日に会堂に入られた。イエスを待ち受けていたのは、安息日にいやしの業を行うかどうかを試みるファリサイ派の人々の視線だった。
−マルコ3:1-2「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気がいやされるかどうか注目していた。」
・イエスは試みる者たちの視線にためらうことなく、手の萎えた人に近づかれた。そして監視するファリサイ人たちに、「安息日を守るためなら人の命を救わなくても良いのか」と問われた。彼らは一言も答えなかった。
−マルコ3:3-4「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」
・イエスはその日が安息日であるかを問わず、病人を癒された。無視されたファリサイ派とヘロデ派の人々は、イエスを抹殺すべく、共同謀議を始めた。
−マルコ3:5-6「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元通りになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一諸に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」

2.イエスはあえて安息日に癒しをされた

・イエスは律法を犯すことが死の危険を伴うことを承知の上で、安息日に人を癒される。イエスは自分の身を削って人の命を救われる。福音書記者はそのイエスに、「苦難の僕」の姿を重ねる。
−マタイ8:16-17「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆癒された。それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』(イザヤ53:4)」。
・イエスは安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちを批判するファリサイ人に対して、「安息日は、人のために定められた」と答えられた。安息日の癒しを非難する人々に対しては「安息日に許されているのは、善を行うことではないのか」と問いかけられた。イエスを動かしているのは神への愛と隣人への愛だ。神は人間の休息のために安息日を設けて下さった、それを人は勝手に細かい規定を作り、煩雑にして、束縛の規則に変えてしまった。それは神の御心に反するのではないかと問われた。
・ファリサイ人たちも緊急の場合は安息日規定を破ることを認めていた。当時のラビは言う「人間の命を救うことは安息日を押しやる」。しかしイエスは更に一歩を踏み込まれる「安息日に行うべきは善か悪か」、父なる神は安息日も働いておられる、そうであれば安息日に善を行うことは、何もしないことに優るのではないか」。隣人愛の要求が律法に新しい命を吹き込んだ。しかし、ファリサイ人や律法学者には受け入れがたい要求だった。

3. 安息日(三省堂聖書思想辞典から)

【旧約】
1.制度:“安息”とは、宗教的意図をもっておこなわれる“仕事の休止”を意味している。安息日の慣行は既にモーセの律法の最古の部分に現われており(出20:8 出23:12 出34:21)。起源はたぶんモーセ以前にさかのぼると思われるが、明らかでない。安息日は、聖書では週という聖なる周期と密接に結ばれており、休息と歓喜と礼拝集会でこれを終わらせる日となっている(ホセ2:13 恐4:23 イザ1:13)。
2.根拠:契約法典は、安息日のもたらす休息には奴隷にも一息つかせるという人道的な面があることを強調する(出23:12)。申命記も同じ見解を示している(申5:12-14)。しかし、祭司伝承ではこの日に別の意義が付与されている。すなわち、人間の労働は創造主なる神の活動を、7日目の休業は神の聖なる休息を模倣するものと考えられるようになっている(出31:13-17 創2:2-3)。かくて、神は安息日を一つの徴{しるし}としてイスラエルに与え、自分がその民を聖化することを知らせようとしたといえるのである(エゼ20:12)。
3.遵守:律法は安息日の休息をひじょうに厳格に解し、火を起こすこと(出35:3)・薪を集めること(民15:32-36)・食事を用意すること(出16:23-30)などを禁じている。預言者たちは、安息日の遵守は終末的約束が実現するための条件であると考える(エレ17:19-27 イザ58:13-14)。ネヘミヤが安息日を完全に守ることに固執している理由もここにある(ネヘ13:15-22)。この日を「聖別する日」(申5:12)とするために、聖なる集会(レビ23:3)・いけにえの奉献(民28:9-10)・供えのパンの更新(レビ24:8 蟻9:32)などがおこなわれる。エルサレム以外の地では、これらの儀式に代わるものとして、会堂(シナゴーグ)で集会が開かれ、信仰者たちは共同の祈祷{きとう}に従事し、聖書の朗読と講解にあずかっている。マカバイ時代には、安息日の休息を厳守するあまり、武器をとって安息日を犯すよりもむしろ虐殺されることを選ぶハシディームの人々が現われているほどである(汽泪2:32-38)。新約時代に移るころ、エッセネ派の人々が厳格に安息日を守っており、かつファリサイ派の学者が安息日に関する細則をつくりだしていたことは周知のとおりである。

【新約】
1.イエス:イエス・キリストは、安息日の掟{おきて}を明白に廃止したわけではなく、この日に会堂に通い、その機会に福音を宣布している(ルカ4:16 ルカ4:31)。しかし彼は、ファリサイ派の人々が説く形式的厳格主義を非難し、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マコ2:27)と断言し、愛を実践する義務を休息の形式的遵守に優先させている(マタ12:5 ルカ13:10-16 ルカ14:1-5)。また「人の子は安息日の主でもある」(マコ2:28)とも明言して、自分が安息日に対して権能を有することも教える。実は、このような行動が律法学者たちの反感を買うことになる(→ヨハ5:9-18)。安息日に善をなすために働いたイエスは、天地創造を終えて安息に入っても、なお世界を治め人間を生かしつづけている父を模倣していたといえよう(ヨハ5:17)。
2.弟子たち:イエスの弟子たちも、最初のころは安息日の掟を守っている(マタ28:1 マコ15:42 マコ16:1 ヨハ19:42)。主の昇天後も、ユダヤ人に福音を宣教するためには安息日の集会が利用される(使13:14 使16:13 使17:2 使18:4)。しかしまもなく、週の初めの日、つまりイエスが復活した日が“主の日”として教会の礼拝日となり(使20:7 黙1:10)、ユダヤ人が安息日におこなっていた施与(汽灰16:2)や神の賛美の実行はこの日に移される。この新しい考え方によると、ユダヤ人のかつての安息日は、旧約の他の多くの制度と同様、前表としての意味をもつことになる。信仰者は、この日に労働を休むことによって、神が7日目に安息したことを記念する。ところで、イエスは復活によってこの神の安息にはいっており、信仰者は彼のあとに従って同じ安息にはいるという約束を受けている(ヘブ4:1-11)。その日こそ、彼らが、創造の業を終えて安息した神を模倣し、かつこの神と一致しながら、いっさいの労苦から解放されて憩う真の安息日となるであろう(ヘブ4:10 黙14:13)。 (C.Spicq, P.Grelot)


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