すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年10月22日聖書教育の学び(ヨブ記38-41章、ヨブに語りかける神)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-15 20:53:31 (67 ヒット)

1.神の応答(38章前半)

・ヨブの苦難についてのヨブと友人たちの議論は終わった。しかし問題は未解決である。苦難の意味は見出されなかった。長い沈黙の後に神が語られる。その神の回答は予想外のものであった。
−ヨブ記38:1-3「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ」。
・ヨブの問いは「自分は無実であるのに何故このように苦しめられるのか、神の正義はどこにあるのか」というものであった。それに対して神は答えられる「お前がこの世界の中心にいるのか。お前の問題はこの創造世界を根底から崩すような問題なのか。お前は被造物の一人に過ぎないではないか」。4節以下、創造世界について「お前は何を知っているのか」がヨブに問われる。
−ヨブ記38:4-11「私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか・・・海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎から溢れ出た。私は密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、私はそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け『ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた」。
・「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われる時、人は答えることができない。大地や天体がどのようにして創造されたか知らないからだ。創造の神秘を前に人は自分の限界を知る。海の波に対して「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じられるのに、人はその限界を超えて海辺に住み、その結果津波で死者が出ると「神はおられるのか」と叫ぶ。「此処より下に家を建てるな」とは自然の枠内で生きよとの知恵であった。
・次に一日の天体の動きがどのようにして為されるかを、ヨブよ、お前は知っているのかと問われる。ヨブは当然に知らないから黙るしかない。今日の私たちは夜明けが地球の自転により生じることを知るが、それでも太陽が昇るときの神秘に打たれる。ヘブライ人は神が光の源である太陽を創造された事を知る故に、彼らの1日は「夕から始まる」。恵みとしての朝(光)を彼らは迎える。
−ヨブ記38:12-15「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。大地の縁をつかんで、神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。大地は粘土に型を押していくように姿を変え、すべては装われて現れる。しかし、悪者どもにはその光も拒まれ、振り上げた腕は折られる」。

2.ヨブが知ったこと(38章後半)

・次に神は海の深淵とその底にあるとされた陰府の存在についてヨブは尋ねられるが、答えることは出来ない。
−ヨブ記38:16-18「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか。死の門がお前に姿を見せ、死の闇の門を見たことがあるか。お前はまた、大地の広がりを隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ」。
・現代人はこの自然世界の神秘を知ると思い上がる。3.11で明らかになったことは、人間は自らが創りだした原子力エネルギーの廃棄物処理の方法さえ知らなかったということだ。神はヨブに「人間は被造物に過ぎないのに創造主になろうとするのか」と問いかける。
−ヨブ記38:19-21「光が住んでいるのはどの方向か。暗黒の住みかはどこか。光をその境にまで連れていけるか。暗黒の住みかに至る道を知っているか。そのときお前は既に生まれていて、人生の日数も多いと言うのなら、これらのことを知っているはずだ」。
・神はヨブの苦難の問題には立ち入らない。ヨブの中心課題である苦難を問題にしない所に、ヨブの中心課題への最良の答えがあるのではないだろうか。ヨブは神を求めながら結局は自分の義を求めていた。人は自己を中心に物事を見るが、神の視点から見れば物事の意味はまるで異なる事に気づかない。自己からの解放、自己の問題が世界の中心ではない。それをヨブ記は私たちに教えるのではないだろうか。
−ヨブ記38:22-29「お前は雪の倉に入ったことがあるか。霰の倉を見たことがあるか。災いの時のために、戦いや争いの日のために、私はこれらを蓄えているのだ。光が放たれるのはどの方向か。東風が地上に送られる道はどこか。誰が豪雨に水路を引き、稲妻に道を備え、まだ人のいなかった大地に、無人であった荒れ野に雨を降らせ、乾ききったところを潤し、青草の芽がもえ出るようにしたのか。雨に父親があるだろうか。誰が露の滴を産ませるのか。誰の腹から霰は出てくるのか。天から降る霜は誰が産むのか」。
・「知らないことを知らない」と認め、「自己の苦難よりも大事な問題がある」ことを知った時に、苦難は解決されるのではないだろうか。自己のことばかりを考える故に人に思い悩みが生じるのではないだろうか。
・神の答えはヨブの問いに直接答えたものではなかった。しかし神は創造された世界を肯定され、ヨブもまたその肯定の中にある。ヨブも生きることを許されている。そのことを知れば、全ての悩みもなくなるのではないか。
-エゼキエル18:31「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。

3. 被造物を生かす摂理についてお前は何を知るか(39章前半)

・ヨブ記は38章から神の言葉が始まり、38章後半から39章にかけて神の言葉の第二弾が始まる。ここでは動物の世界に見られる自然世界の不思議さが語られ、人間本位にしか世界を見ることの出来ないヨブに悔い改めが迫られる。最初に展開されるのは、獅子や烏がどのように生かされているかの不思議さである。
−ヨブ記38:39-41「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れがにうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出るとき」。
・獅子は動物を食べ、烏は死肉を漁る。彼らの犠牲になる動物たちが「獅子の犠牲になって殺されるのは不合理であり、不条理だ」と叫ぶか。叫ばないだろう。それが自然の摂理なのだ。しかし「お前、ヨブは自分の名誉が傷つけられたと叫んでいる。お前の見方はあまりにも人間中心主義ではないのか。お前は山羊や牝鹿の出産の場に立ち会っているか。私は立ち会っている」と神はヨブに迫る。
−ヨブ記39:1-4「お前は岩場の山羊が子を産む時を知っているか。雌鹿の産みの苦しみを見守ることができるか・・・雌鹿はうずくまって産み、子を送り出す。その子らは強くなり、野で育ち出ていくともう帰ってこない」。
・お前は野ろばを生かす私の働きを知っているか、お前は野牛の生態について何を知っているか。彼らは僅かな食料を求めてお前たちの家畜にはなることはなく、私によって野に生かされている。そのことを知っているか。
−ヨブ記39:5-10「誰が野生のろばに自由を与え、野ろばを解き放ってやったのか。その住みかとして荒れ地を与え、ねぐらとして不毛の地を与えたのは私だ・・・野牛が喜んでお前の僕となり、お前の小屋で夜を過ごすことがあろうか。お前は野牛に綱をつけて畝を行かせ、お前に従わせて谷間の畑を掘り起こさせることができるか」。

4.駝鳥や馬や鷲を生かすものは誰か(39章後半)

・13節から駝鳥の生態が語られる。駝鳥は卵を生んでもそれを放置し、自然のままに委ねる。それでも彼らは絶滅しない。何故だと思うか、私が生かしているからだと主なる神は言われる。
−ヨブ記39:13-18「駝鳥は勢いよく羽ばたくが、コウノトリのような羽毛を持っているだろうか。駝鳥は卵を地面に置き去りにし、砂の上で暖まるにまかせ、獣の足がこれを踏みつけ、野の獣が踏みにじることも忘れている・・・神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。だが、誇って駆けるときには馬と乗り手を笑うほどだ」。
・お前たちは野生の馬を飼い慣らし、戦争のために用いるが、彼らに力と勇気を与えたのは誰か。彼らはお前たちのために創造されたのか。お前たちは「人間こそ創造の中心であり、他の被造物は全て自分たちのために創られた」と思っているが、本当にそうか。「お前が世界の中心なのか、しかしお前は何も知らないではないか」。
−ヨブ記39:19-24「お前は馬に力を与え、その首をたてがみで装うことができるか。馬をいなごのように跳ねさせることができるか。そのいななきには恐るべき威力があり、谷間で砂をけって喜び勇み、武器に怖じることなく進む。恐れを笑い、ひるむことなく、剣に背を向けて逃げることもない。その上に箙が音をたて、槍と投げ槍がきらめくとき、身を震わせ、興奮して地をかき、角笛の音に、じっとしてはいられない」。
・最後に鷹と鷲が語られる。鷹は時期が来れば移動し、鷲は高い空を飛び、その雛に餌を与える。それはお前がしているのか。鷹や鷲さえも生かしているのは私ではないのか。
−ヨブ記39:26-30「鷹が翼を広げて南へ飛ぶのはお前が分別を与えたからなのか。鷲が舞い上がり、高い所に巣を作るのは、お前が命令したからなのか。鷲は岩場に住み、牙のような岩や砦の上で夜を過ごす。その上から餌を探して、はるかかなたまで目を光らせている。その雛は血を飲むことを求め、死骸の傍らには必ずいる」。
・被造物を生かされる神に感謝し、信頼して生きる。イエスもそのような生き方を求められた。
−マタイ6:26「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。
・自然世界の摂理を見た時、自分一個の善悪や、正しさにこだわるのは、あまりにも人間中心の世界観であり、神の思いは人間を超える。こう言われた時、ヨブは引き下がるしかない。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。

*ヨブ記39章参考資料「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」を読む
・「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」という本があります。著者は幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)で、ヨブ記を例にとりながら、「神とはなにか、信仰とは何か」を問うた書です。人は不幸なことがあると、その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかと考えます。「罰が当たった、天罰だ」と。あるいは「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思う人もいます。しかし著者は、この世に起こる不正義、悪、不条理な出来事は、単なる自然、物理法則によるものであり,神に起因するものではないと断言します。
・ヨブ記では、神自身が「正しいと認めているヨブ」が何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされます。3人の友人がヨブに対して繰り広げる説明は、神は「善にして全能の神のなさることに間違いはない」という教理の押し付けです。しかし、ヨブは納得せず、逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責めます。友人たちは最後には「ヨブが神に対して罪を犯した」と言って責め、ヨブは神に対して説明を求め、最後に神は答えられます。その中に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たち、「善にして全能の神のすることに間違いはない」という主張をし続けた人たちへの断罪です(42:7)。
・著者の信じる神は、正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる方です。著者は「神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができないのだ」と考えます。神はこの世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行するような独裁的専制君主ではないからです。神は混沌に秩序を与えるために世界を創造されました。その神の創造は今も行われています。つまり、混沌がまだ残されています。その混沌を私たちは「不条理」と呼びます。著者は語ります「病人や苦痛に苛まれている人が『一体私がどんな悪いことをしたというのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である」。

5. 神は人間だけのために存在するのではない(40章前半)

・神はヨブに対して創造世界の神秘を示し、「お前が天地を造ったのか、お前があらゆる生き物を生かしているのか、お前の苦難はこの創造世界の中心なのか」と問われた。そう問われた時、ヨブは神の前に平伏せざるを得ない。ヨブの問題は解決されなかったが、解消した。苦難の意味がわからずとも良いことを知った。
−ヨブ記40:1-5「ヨブに答えて主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブは主に答えて言った。私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」。
・しかし、ヨブの悔い改めはまだ十分ではない。ヨブが求めたのは神の義ではなく、自己の義であった。ヨブは「自分は正しく神は間違っている」と主張した。そこにこそ、「自らを神にしようとする」ヨブの罪がある。
−ヨブ記40:6-10「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。男らしく腰に帯をせよ。お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために私を有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。威厳と誇りで身を飾り栄えと輝きで身を装うがよい」。
・人間は「もし神が義であるなら、悪はどこから来るのか」とうそぶく。しかし、このような神義論は人間の罪を棚上げにしている。何故悪があるのか、聖書は「悪は人間の罪から来る」と示唆する。
−イザヤ59:1-2「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」。
・ヨブ記が示す方向性も同じだ。「何故悪があるのか、それは神が悪人をも生かそうとされているからだ」とヨブ記は語る。神は悪人でさえ、悔い改めて戻ることを待ち望んでおられる。それ故、悪に対する猶予があると。
−ヨブ記40:11-14「怒って猛威を振るい、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で勝利を得たことになるのだから」。

6.ベヘモットとレビヤタンを見よ(40章後半)

・40章後半からベヘモットとレビヤタンの記事が登場する。古代神話に描かれる混沌の原始時代の陸と海の怪物で、長い間実在の存在と思われ、中世まではサタン(龍)の別名とされていた。
−ラテン語エズラ記6:47-52「五日目にあなたは、水が集まっている第七の部分に、生き物や鳥や魚を生み出すように命じられました・・・それからあなたは、二つの生き物をえり分けられ、その一つをベヘモット、もう一つをレビヤタンと名付けられました。そしてあなたは、両者を互いに引き離されました。水が集まっている第七の部分に両者を置くことができなかったからです。そしてベヘモットには三日目に乾いた土地の一部を与え、そこに住むようにされました。そこは一千の山のある土地でした。レビヤタンには水のある第七の部分をお与えになりました。あなたはこの二つを保存し、あなたのお望みのとき、お望みの人々に食べさせるようにされました」。
・旧約神話の源流はメソポタミヤの創造神話の中にある。そこでは怪物たちが征服されて混沌が秩序に変わる、それが創造だとされていた。旧約の人々はそのような怪物もまた神の支配下にあると理解した。
−ヨブ記40:15-24「見よ、ベヘモットを。お前を造った私はこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる。見よ、腰の力と腹筋の勢いを。尾は杉の枝のようにたわみ、腿の筋は固く絡み合っている。骨は青銅の管、骨組みは鋼鉄の棒を組み合わせたようだ。これこそ神の傑作、造り主をおいて剣をそれに突きつける者はない。山々は彼に食べ物を与える。野のすべての獣は彼に戯れる・・・川が押し流そうとしても、彼は動じない。ヨルダンが口に流れ込んでも、ひるまない。まともに捕えたり、罠にかけてその鼻を貫きうるものがあろうか」。
・具体的な叙述としてはナイルに住む河馬が考えられている。後半のレビヤタンは鰐が想定されているようだ。そこにあるのは決して人間の自由にならない存在があるが、それもまた神の創造物であるという主張である。ジョン・ホッブスはその著で国家をリヴァイアサン(レビヤタン)的存在として論じた。
−リヴァイアサン(Leviathan)「トマス・ホッブズが著した政治哲学書。1651年に発行された。題名は旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタンの名前から取られた。ホッブズは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」であるとし、この混乱状況を避けるためには、「人間が天賦の権利として持ちうる自然権を政府(リヴァイアサン)に対して全部譲渡(という社会契約を)するべきである」と述べ、社会契約論を用いて従来の王権神授説に代わる絶対王政を合理化する理論を構築した。ホッブズは人権が寄り集まって国家をつくるのだと考えた。すなわち国家機構は、厖大な人間が集まってつくりあげられた巨大な“人工人間装置”のようなものではないか、それは幻獣リヴァイアサンのようなものではないかと考えたのである。
・神は人間のために存在しているのではなく、人間もまた神の被造物の一つに過ぎない。それを知ることこそ、人間の智恵ではないかとヨブ記は私たちに問いかける。私たちの苦難が何故あるのか、私たちは知らない。ただイエスはその私たちのために十字架を負って下さった。それを知れば苦難もまたイエスに従う道の中にある。
−競灰螢鵐4:8-10「私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。

7. 創造神話の怪物レビヤタンの示すもの(41章前半)

・ヨブ記では40章前半に創造神話の陸の怪物ベヘモットが、40章後半から41章に海の怪物レビヤタンが登場する。両者はメソポタミヤ神話をイスラエルが神の創造神話の中に取り入れたものである。レビヤタンはここではナイルに住む鰐の姿で示される。普通の鰐であれば鉤で捕らえることが出来ようが、この怪物はそうはいくまいと語られる。
−ヨブ記40:25-26「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ、その舌を縄で捕えて屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ、顎を貫いて轡をかけることができるか」。
・ヨブ記では人間では制御できないものの象徴としてレビヤタンが示される。
−ヨブ記41:10-17「彼がくしゃみをすれば、両眼は曙のまばたきのように光を放ち始める。口からは火炎が噴き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る。首には猛威が宿り、顔には威嚇がみなぎっている。筋肉は幾重にも重なり合い、しっかり彼を包んでびくともしない。心臓は石のように硬く、石臼のように硬い。彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」。
・私たちはこのようなヨブ記の記述を神話として嘲笑するが、神の創造の業は神話でしか表象できないものではないか。ベヘモットとレビヤタンの物語を通して、ヨブには理解できない創造の神秘が語られ、その神秘の中では「自分は正しい、神は間違っている、私は神を告発する」というヨブの訴えがいかに愚かであるかが示される。
−ヨブ記41:1-3「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ。見ただけでも打ちのめされるほどなのだから。彼を挑発するほど勇猛な者はいまい。いるなら、私の前に立て。あえて私の前に立つ者があれば、その者には褒美を与えよう。天の下にあるすべてのものは私のものだ」。

8.人間の限界を知る(41章後半)

・生命誕生の歴史と人間の歴史を対比した時、人間は如何に小さな存在であるかがわかる。地球が生まれたのは46億年前、人類が登場したのは20万年前、その壮大な歴史の中で私たちは70年か80年の命を生きる。
−「地球が生まれたのはいまから46億年前のことと考えられています。まだ熱かった地球が徐々に冷えて海が出来、生命が生まれたのは地球誕生から6億年位経った40億年前です・・・原始の生命が生まれたところは深い海の底で、海水の温度も高いところでした。何故浅い海に生命が生まれなかったのでしょうか。その大きな理由の一つと考えられるのが生命に有害な宇宙線です。現在、生命を守る地球の多重バリアーには、地球磁場、大気、オゾン層がありますが、地球磁場がまだ形成されていなかった頃には浅い海で生命が生まれたとしても降り注ぐ宇宙線によって壊されてしまったのでしょう。生命が浅い海に移動してくることができたのは地球に磁場が形成され、有害な宇宙線の進入を防ぐことが出来るようになった27億年前です。そして、生物が陸上に進出してきたのは紫外線を防ぐオゾン層が形成された5億年前のことです」(生命の誕生と放射線(原子力教育を考える会HPから)。
・ヨブ記のレビヤタンはやがて巨大な竜(サタン)としてヨハネ黙示録に描かれる。
−ヨハネ黙示録12:9「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」。
・ヨハネ黙示録ではこのサタンが捕らえられ、封じ込められることによって、神の国(千年王国)が登場すると考えられた。ヨハネはサタン(ローマ帝国)の支配も神によって制御されることを神話的表象で描いた。
−ヨハネ黙示録20:2-3「この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである」。
・しかしこの神話的表象を文字通りに信じた時、そこに様々な問題が生じる。アメリカ宗教史を研究する森孝一は、アメリカ人は千年王国を文字通りに信じ、それを持って自分たちの戦争を正当化してきたと述べる。
-森孝一・千年王国とアメリカの使命「千年王国論には前千年王国論(キリストが再臨し,この世を裁いた後、千年王国を実現する)と後千年王国論(神の民の努力により千年王国が実現し,その後にキリストが再臨する)があり、アメリカに入植したピューリタンたちは前千年王国論に従い,キリストの再臨に備えるために純粋な教会と正しい国家の建設を目指した。その理想がジョン・ウィスロップの説教「丘の上の町」に示される選民思想である。しかし、ジュナサン・エドワーズが中心となってなされた第一次大覚醒運動(1730−1760年)より後千年王国論が主流となり、それがアメリカの独立運動をもたらし,その後のアメリカの使命感(キリスト陣営の旗手)となり、外交政策の基本ともなった。この二元論的な思考が植民地時代には対立するニュー・フランスの国教カトリックを「反キリスト」とし、やがては植民地を束縛する英国本国を終末時における「反キリスト」とみなす独立戦争が始まる。その後、この後千年王国思想が「世俗的千年王国論」となり、冷戦期においてはキリスト陣営が自由主義陣営であり、反キリスト陣営が共産主義陣営になり、ソ連を「悪の枢軸」と呼んで対立し、反共産主義の戦いとしてのベトナム戦争を招来する。冷戦後は対立軸がイランとなり、イランが反キリストになっていき,その結果アフガン・イラク戦争が起きていく」(同志社大学一神教学際研究センター2007年シンポジウムから)。
・「聖書はキリスト教信仰の基本であるが、それは2000年前の言葉と思想で書かれており、それを現代の言葉で読み直す(非神話化する)」ことが必要である。しかし、現代世界の唯一の超大国であるアメリカにおいて「聖書の言葉は神の言葉であり,文字通りに理解すべきだ」と信じる人々が多数を占め、「聖書の教え(ヨハネ黙示録の千年王国説)に従って外交が行われる事実は不気味である。私たちはヨブ記を笑えない世界に住んでいるのだ。


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