すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年10月15日聖書教育の学び(ヨブ記32-37章、エリフの弁明)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-10-08 18:06:52 (64 ヒット)

1.エリフの登場

・ヨブと三人の友人たちの議論は31章で終わり、38章から神の言葉が始まる。しかし、現在のヨブ記では32〜37章にエリフの弁論が挿入される。エリフは31章前には記述がなく、また38章後にも登場しないことから,多くの注解者はこの32〜37章は後代の編集者(おそらくは正統主義神学に立つ人々)が,あまりにも急進的なヨブの神学(応報論の否定)に対して、全体を緩和するために挿入したものと見ている。最初にエリフは三人の友人たちが言葉を失った故に,彼らを支援するために議論に加わると述べる。
−ヨブ記32:11-17「私はあなたたちの言葉を待ち、その考えに耳を傾け、言葉を尽くして論じるのを聞き、その論拠を理解しようとした。だが、あなたたちの中にはヨブを言い伏せ、彼の言葉に反論しうる者がない・・・彼らは気を挫かれて、答えようとせず、言うべき言葉を失っている。私は待ったが、彼らは語らず、行き詰まり、もう答えようとしない。それなら私が自分の言い分を述べさせてもらおう。私の意見を言わせてもらおう」。
・エリフの具体的弁論は33:6から始まるが,彼は明らかに三人の友人たちと同じ応報論の立場に立つ。彼にとって「自分は正しい,神は自分を敵とされている」というヨブの主張は瀆神的であり、我慢がならないものだった。
−ヨブ記33:8-12「あなたが話すのは私の耳に入り、声も言葉も私は聞いた。『私は潔白で、罪を犯していない。私は清く、とがめられる理由はない。それでも神は私に対する不満を見いだし、私を敵視される。私に足枷をはめ、行く道を見張っておられる』。ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます」。
・「神は人よりも大なる方であり、被造物であるあなたが何故創造主である神と争うのか。そこにあなたの根本的な間違いがあるのではないか」とエリフはヨブを追求する。
−ヨブ記33:13-18「なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることをいちいち説明されない。神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない。人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる。人が行いを改め、誇りを抑え、こうして、その魂が滅亡を免れ、命が死の川を渡らずに済むようにされる」。

2.苦難を神の教育とみるエリフの議論

・エリフの言葉は,エリフが「苦難は神が教育のために人に与えられる」と理解していることを示す。エリフはヨブに与えられた業病(らい病)もそのようなものだと理解している。
−ヨブ記33:19-25「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。肉は消耗して見えなくなり、見えなかった骨は姿を現し、魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく。千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、 彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう」。
・応報論に立つエリフは悔い改めて神に立ち返れば,神は救ってくださると信じ,ヨブにもそう伝える。
−ヨブ記33:26-30「彼は神に祈って受け入れられ、歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ、再び神はこの人を正しいと認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。『私は罪を犯し、正しいことを曲げた。それは私のなすべきことではなかった。しかし神は私の魂を滅亡から救い出された。私は命を得て光を仰ぐ』と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」。
・「苦難により、人の心が低くされ、心が砕かれて、人は神に立ち返る」という考え方は新約にもある(ヘブル12:4-12)。それは真理の一端を示すのであろう。しかし、現実には「癒されない病があり、回復されない不条理」がある。それを私たちはどのように理解したら良いのだろうか。心理学者の加来周一は書く「答えのない不条理があるのではないか。その時、人はその不条理を答えのないままに受容していくことが求められるのではないだろうか」。

3.エリフのヨブ批判

・ヨブ記32〜37章のエリフの弁論は正統神学に立つ後代の人々が,あまりにも急進的なヨブの神学(神への疑義、応報論の否定)に対して、反論のために挿入したものと見なされている。34章からエリフの第二回目弁論が展開されるが,そこでは神の行為に疑義を挟むヨブの行為を瀆神的だと非難する。
−ヨブ記34:5-9「ヨブはこう言っている『私は正しい。だが神は、この主張を退けられる。私は正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに矢を射かけられて傷ついた』。ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む。『神に喜ばれようとしても何の益もない』と彼は言っている」。
・エリフにとって、「神に過ち」などないし、「神は人間の行為に応じて報われる」のは当然のことであるし、ましてや「神が罪を犯す」など考えられない。彼は「生ける神」を求めて苦しむヨブを顧慮することなく、自己の信じる教理(彼自身の神観、人間化された神)を滔々と述べる。
−ヨブ記34:10-15「分別ある者は、私の言葉を聞け。神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ。神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない。誰が神に全地をゆだね、全世界を負わせたというのか。もし神が御自分にのみ、御心を留め、その霊と息吹を御自分に集められるなら、生きとし生けるものは直ちに息絶え、人間も塵に返るだろう」。
・「神には絶対に間違いがない」と断定すれば、不条理に追い込まれた人間は、その結果をただ受け入れることしか出来ない。神批判は許されないのだろうか。1755年リスボンで大地震と津波があり(M8.5〜9)、死者が6万人に達したとき, ヴォルテールは批判して言った「慈悲深い神が監督する我々の最善の可能世界は崩壊した」(カンディード)。ヴォルテールの批判は当時の神理解の間違いの批判であり、このような批判を通して,人間の神理解は進んでいく。その意味で3.11の大震災以降、ヨブ記が読まれ,「神はおられるのか」という議論が起こっていることは良いことだ。

4.教理的言説の怖さ

・16節からエリフはヨブに問いかける「あなたは正義の神を罪あるものと呼ぶのか。王者に向かってならず者と言うのか。そういうあなたは何者なのだ」と。
−ヨブ記34:16-19「理解しようとして、これを聞け。私の語る声に耳を傾けよ。正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか。王者に向かって『ならず者』と言い、貴い方に向かって『逆らう者』と言うのか。身分の高い者をひいきすることも、貴族を貧者より尊重することもないお方、御手によってすべての人は造られた」。
・エリフはたたみかける「人間は有限な存在であるのに,無限な方を批判することが出来ようか」。エリフはヨブの苦しみを全く理解しようとはせず、ただ自分の教理的確信を述べる。
−ヨブ記34:20-30「これらの人も瞬く間に、しかも真夜中に、死んでいく。権力ある者は身を震わせて消え去り、力ある者は人の手によらず、退けられる。神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。悪を行う者が身を隠そうとしても、暗黒もなければ、死の闇もない・・・数知れない権力者を打ち倒し、彼らに代えて他の人々を立てられる。彼らの行いを知っておられるので、夜の間にそれを覆し、彼らを砕き、神に逆らう者として見せしめに、彼らを打たれる・・・神が黙っておられるのに罪に定めうる者があろうか。神が顔を背けられるのに目を注ぐ者があろうか・・・神は、神を無視する者が王となり、民を罠にかけることがないようにされる」。

5.エリフの三度目のヨブ批判

・34章でエリフは「絶対なる神」に対して異議申し立てをするヨブを激しく批判した。神絶対主義に立つエリフにとって,神を批判するヨブは許せない存在だった。
−ヨブ記34:9-12「神に喜ばれようとしても何の益もないと彼は言っている。さて、分別ある者は、私の言葉を聞け。神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ。神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない」。
・エリフはヨブの間違いを糾して言う「天を仰ぎ見るだけで,神と人間の間の限りない断絶を知ることが出来る。有限な人間が無限な神に何の影響を及ぼしうるのか,何も無い。人間の罪が神を損なうことも、また人間の正しい行為が神を益することも無いのだ」と。エリフは、神は超越者であるという彼の神義論を展開している。
−ヨブ記35:2-8「神は私を正しいとしてくださるはずだとあなたは言っているが、あなたのこの考えは正当だろうか・・・天を仰ぎ、よく見よ。頭上高く行く雲を眺めよ。あなたが過ちを犯したとしても、神にとってどれほどのことだろうか。繰り返し背いたとしても、神にとってそれが何であろう。あなたが正しくあっても、それで神に何かを与えることになり、神があなたの手から何かを受け取ることになるだろうか。あなたが逆らっても、それはあなたと同じ人間に、あなたが正しくてもそれは人の子にかかわるだけなのだ」。
・仮に神がエリフの言うように天に鎮座される超越神であれば,その方は私たちと何の関係もない。エリフは神を抽象論的に考えることによって、神を人間と無縁の存在にする。そのような思想は旧約聖書の他の箇所にもある。しかしイエスが教えてくださった神はそのような方では無い。イエスの神は私たちの人生に深く関わられる方だ。
−マタイ6:31-33「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。

6.生きることの意味

・エリフはヨブの「神は私の訴えを聞いてくださらない」という「神への疑問」を否定して言う。「あなたが叫んでも神が聞いてくださらないと文句を言う。それはあなたが神を真摯に求めないから聞かれないだけなのだ」と。それは「祈りが足らないから病気が治らないのだ」という偽宗教家の言葉と同じだ。
−ヨブ記35:9-13「抑圧が激しくなれば人は叫びをあげ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める。しかし、だれも言わない『どこにいますのか、私の造り主なる神・・・は』と。だから、叫んでも答えてくださらないのだ。悪者が高慢にふるまうからだ。神は偽りを聞かれず、全能者はそれを顧みられない」。
・エリフは重ねて神の沈黙を否定する。「あなたの訴えは神の元に届いている。ただ時期が来ないので神は回答を保留されている。あなたは待つべきなのに無意味に騒ぎ立てる」とヨブを攻撃する。
−ヨブ記35:14-16「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ。今はまだ、怒りの時ではなく、神はこの甚だしい無駄口を無視なさるので、ヨブは空しく口数を増し、愚かにも言葉を重ねている」。
・ヨブは苦難の意味を求めて神に問うが、神からの回答はなかった。ヨブ記は人間の知恵の限界を示す。「有限な人間には苦難の意味など理解出来ない。彼が出来るのは主を畏れることだけだ」とヨブ記は示している。
−ヨブ記28:12-23「知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか。人間はそれが備えられた場を知らない。それは命ある者の地には見いだされない・・・では知恵はどこから来るのか、分別はどこにあるのか。すべて命ある者の目にそれは隠されている・・・その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」。

7.エリフの四度目のヨブ批判

・ヨブ記には32章から突然エリフが登場する。エリフは32〜37章で彼の持論(神の正しさ、人間の卑小さ、その中における苦難の意味)を語る。36〜37章はそのエリフの最終弁論だ。エリフは持論を繰り返す「神の摂理は人間の理解を超える。ただ神はいつも人を見ておられ、人それぞれの業に応じて報われる」と。
−ヨブ記36:5-10「まことに神は力強く、たゆむことなく、力強く、知恵に満ちておられる。神に逆らう者を生かしてはおかず、貧しい人に正しい裁きをしてくださる。神に従う人から目を離すことなく、王者と共に座につかせ、とこしえに、彼らを高められる。捕われの身となって足枷をはめられ、苦悩の縄に縛られている人があれば、その行いを指摘し、その罪の重さを指し示される。その耳を開いて戒め、悪い行いを改めるように諭される」。
・エリフの考え方は旧約に共通する。正統主義神学の神は「正しい者に祝福を、悪しき者に処罰を与えられる」である。次の言葉はまさに正統主義神学の言葉である。
−ヨブ記36:11-14「もし、これに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いのうちに、年月を恵みのうちに全うすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える。神を無視する心を持つ者は、鎖につながれていても怒りに燃え、助けを求めようとしない。彼らの魂は若いうちに死を迎え、命は神殿男娼のように短い」。
・しかし現実はそうではない。そこにヨブの苦しみがある。人は苦難に意味を認める限り、その苦難を耐えていける。しかし、苦難の意味がわからなくなった時、その苦難は人を圧倒するようになる。エリフはそれが理解できない。
−ヨブ記9:22-24「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」。

8.苦難の意味

・エリフは、苦難は「神が人を教育するためにある」という。苦難にそういう一面があることはその通りだろう。彼が言うように「神は苦難を通して人の耳を開かれる」のは事実だ。
−ヨブ記36:15-16「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ」。
・しかし同時に不条理としか言いようがない苦難があることも事実だ。私たちは苦難を抽象化してはいけないのではないか。その時にはヨブのように神を告発しても良いのではないか。
−ヨブ記31:35-37「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。 私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」。
・エリフは言う「苦難にあった時には、あなたの中に原因があるのだから、悔い改めて神を求めよ」と。
−ヨブ記36:17-21「あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう。だから注意せよ、富の力に惑わされないように。身代金が十分あるからといって、道を誤らないように。苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのはまさにこのためなのだ」。
・エリフのように苦難を抽象化した時、それは神議論ではなく、人議論になってしまう。
−カウンセリングの立場から見たヨブ記「最近のヨブ記研究の中に、カウンセリングの立場からの見方がある。カウンセリングにおいて最も重要なことは、相手との関係の樹立であり・・・ドグマや固定化したアプローチの仕方は逆に相手に大きな痛手を負わせてしまう。ヨブの3人の友人たちは、キリスト教のドグマと既成概念に立って真の援助を与えることに失敗する牧師のようなものである。彼ら3人は・・・どこまでも応報主義の立場に立ち、その原則から一歩も出ようとしない。エリファズの態度は逆にヨブを傷つけ、怒らせた。それは肉体の苦しみに加えて、精神的な攻撃であるように感じられたのである・・・ビルダデはすべてを簡略化するタイプで、カウンセリングの基本姿勢として不適当である。さらにツォファルは,自分の感情をむき出しにするというカウンセラーとしては最も不適当なタイプを示している。3人の友人たちの弁論は,結果から見れば,沈黙のうちに共に居た方が、はるかにまさっていたことを示している」。

9.正統主義神学からの批判

・エリフは神の絶対を認めず、「神は不公平だ」、「私に対して正しくない」と不平をいうヨブを嗜めるために発言する。彼の論拠は明らかで、「神は偉大であり、人は神の働きの全体を見ることは出来ない。だから神に不服申し立てをするなどとんでもない」というものだ。
−ヨブ記37:23-24「全能者を見いだすことは私たちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない」。
・彼はその論拠として、神の創造された天地の働きがいかに優れたものであるかを説明しようとする。最初に彼は、神は地上に雨を降らして人間を養い、同時に落雷を通して悪人を懲らしめられる」と語る。
−ヨブ記36:27-33「神は水滴を御もとに集め、霧のような雨を降らす。雲は雨となって滴り、多くの人の上に降り注ぐ。どのように雨雲が広がり、神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを悟りうる者があろうか。神はその上に光を放ち、海の根を覆われる。それによって諸国の民を治め、豊かに食べ物を与えられる。神は御手に稲妻の光をまとい、的を定め、それに指令し、御自分の思いを表される。悪に対する激しい怒りを」。
・次にエリフは、神は雷を通して自己の存在を知らされると言う。古代人は雷雲の中に神の御座があると考えた。
−ヨブ記37:1-5「それゆえ、私の心は破れんばかりに激しく打つ。聞け、神の御声の轟を、その口から出る響きを。閃光は天の四方に放たれ、稲妻は地の果てに及ぶ。雷鳴がそれを追い、厳かな声が響きわたる。御声は聞こえるが、稲妻の跡はない。神は驚くべき御声をとどろかせ、私たちの知りえない大きな業を成し遂げられる」。
・そしてヨブに問いかける「この驚くべき御業を為される方に対してあなたは逆らおうとしているのだ。人間であるあなたが神に逆らうことなど出来ない。それを知れと」。
−ヨブ記37:14-18「ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業について、よく考えよ。あなたは知っているか、どのように神が指図して密雲の中から稲妻を輝かせるかを。あなたは知っているか、完全な知識を持つ方が、垂れこめる雨雲によって驚くべき御業を果たされることを。南風が吹いて大地が黙すときには、あなたの衣すら熱くなるというのに、鋳て造った鏡のような堅い大空を、あなたは、神と共に固めることができるとでもいうのか」。

10.体験に裏打ちされた言葉の重み

・エリフは有無を言わせない口調でヨブに迫る。まるで神の代理人のようだ。しかし、それはヨブにとっては何の慰めにもならない。ところが38章以下で神が語りはじめた時、ヨブは神の前にひれ伏す。
−ヨブ記38:1-6「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か、知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか」。
・神が語られたことはエリフの語りとほぼ同じだ。しかしエリフの語りはヨブに何の悔い改めも生じさせず、神の語りはヨブを変えた。エリフは正しいことを言っている。しかし言葉は正しいから伝わるのではない。人が自分が体験したこと、直面したことを語る時にはその言葉は伝わるが、知らないことを知っているように語ってもその言葉は伝わらない。ヨブの言葉がそれを示す。
−ヨブ記42:5-6「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
・苦難も同じだ。ヨブは苦難を経験した故に語れたが、エリフはそれを知らない故に、正しいことを語っても、その言葉は説得性がない。弁護士の岡村勲氏は山一證券の顧問弁護士だったが、山一破綻で損をした投資家に逆恨みで妻を殺された。彼は犯罪被害者になって初めて、自分がこれまで知らなかったことを知ったという。


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