すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年10月1日聖書教育の学び(ヨブ記1-2章、苦難の意味)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-09-24 21:52:38 (69 ヒット)

1.ヨブの物語(ヨブ記1章前半)

・ヨブ記のテーマは「苦難」である。世の中には悪人と思える人が栄え、善人とされる人が苦難の中に生涯を終えることがある。突然の災害や事故で亡くなる人も多い。そのような時、人は叫ぶ「神はいるのか、いるのであれば何故このようなことを為されるのか」。これまで多くの人が不条理の中で苦しみ、ヨブ記を読んできた。「苦難は罪の結果与えられるのか、それとも人を鍛錬するためにあるのか、あるいは意味を見出せない不条理なのか」。
・主人公ヨブは家族に恵まれ、富や地位にも恵まれ、また信仰的にも非の打ち所がない、敬虔な人であった。
−ヨブ記1:1-5「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。 息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた『息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした」。
・天上では主なる神と天使たちが会議を開いており、そこにサタンが来た。主はサタンに「ヨブほどの正しい者はいない」と誇られるが、サタンは「人は物質的な利益が与えられるから信仰するのであり、恵みを取り去れば途端に神を呪うようになる。ヨブもその例外ではない」と挑発する。神はサタンがヨブを試みることを許される。
−ヨブ記1:6-12「ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた『お前はどこから来た』。『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました』とサタンは答えた。主はサタンに言われた『お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている』。サタンは答えた『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません』。主はサタンに言われた『それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな』。サタンは主のもとから出て行った」。
・古代の人々は神の周りには天使がいて様々の役割を果たし、その中でサタンは告発者としての役割を持つと考えた。そのサタンは「人間の宗教も道徳も所詮は利己心の変形に過ぎず、人は利益なしには信仰しない」と考えていた。世の実例を見る限りその通りだと思える。闇の子(サタン)は光の子(信仰者)より賢いのである(R.ニーバー)。

2.苦難の意味(ヨブ記1章後半)

・ヨブに苦難が与えられる。最初に彼の牛とろばが奪い取られ、次には羊が、さらにはらくだも奪われてしまう。
−ヨブ記1:13-16「ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た『御報告いたします。私どもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、私一人だけ逃げのびて参りました』。彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った『御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。私一人だけ逃げのびて参りました』。彼が話し終らないうちに、また一人来て言った『御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、私一人だけ逃げのびて参りました』」。
・財産を失っただけではなく、今度も子供たちもすべて奪い取られてしまう。ヨブは茫然とする。
−ヨブ記1:18-19「彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った『御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。私一人だけ逃げのびて参りました』」。
・今回の東北津波でも多くの人がヨブと同じ体験をした。人々は言った「神も仏もいないのか」。それに対してヨブは言う「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。しかしヨブの言葉が単なる強がりであったことはやがて明らかになる。ヨブはまだ最悪を経験していない。ヨブの本質、人間の罪が明らかになるために、さらなる苦難が用意される。
−ヨブ記1:20-21「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。

3.さらなる苦難(ヨブ記2章前半)

・苦難に会う時、日本人は言う「神も仏もいないのか」。神の存在が当然の前提であるユダヤ人はそう言わない。数々の苦難を与えられてもヨブはつぶやかなかった。彼は言う「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。
−ヨブ記1:20-21「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った『私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』」。
・しかしヨブはまだ最悪を経験していない。サタンは言う「人は自分の命のためには全財産を差し出す。彼は財産を失い、子どもを失ったかもしれない。しかし彼自身は何の害も受けていない」。ヨブに新たな苦難が用意される。
−ヨブ記2:1-6「主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た・・・ 主はサタンに言われた『お前は私の僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、私を唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ』。サタンは答えた『皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません』。主はサタンに言われた『それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな』」。
・「皮には皮を」は原文では「皮の奥に皮が」、人は自分の命を救うためであれば平気で他人の命を差し出す。アダムはイブが与えられた時、彼女を「肉の肉、骨の骨」と喜ぶが、イブが過ちを犯し、その咎が自分に向けられた時、見捨てて言う「あなたが妻を与えなかったら私は罪を犯さなかった」と。私が悪いのではない、私たちは常に弁解する。
−創世記3:11-12「神は言われた『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか』。 アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』」。
・ヨブに与えられた苦しみは「らい病」であった。その病気は肉が崩れ、腐臭を放ち、感染するので、忌み嫌われ、また天刑病=罪の報いと信じられていた。知恵者、義人と尊敬されていたヨブが、周りの人から卑しみと軽蔑の目で見られるようになる。ヨブは家を離れ、塵の上に座って嘆く。
−ヨブ記2:7-8「サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」。

4.ヨブが崩れ始める(ヨブ記2章後半)

・彼の妻は「神を呪って死になさい」と冷たく突き放す。らい病者は神に呪われた者、妻さえもそのような目で彼を見る。しかしヨブはまだ崩れない。彼は言う「幸いが神から来るのであれば災も受けるべきではないか」。
−ヨブ記2:9-10「彼の妻は『どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう』と言ったが、ヨブは答えた『お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか』。このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」。
・その時、ヨブの三人の友がヨブの災いを聞いて、彼を慰めるために遠方より来る。三人は変わり果てたヨブの姿を見て、言葉を失ってしまった。
−ヨブ記2:11-12「ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」。
・これまで平静を保っていたヨブが三人の無言の慰めに接して終に折れる。彼は自分の生まれた日を呪い始める。今まで隠されていた彼の怒り、彼の神に対する不満が爆発し始める。「ここでのヨブは誕生日を呪っているのではない。その背後の者、神を呪い始めている」と関根正雄は言う。
−ヨブ記3:1-4「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」。
・その契機になったのは三人の友の来訪である。慰めようとする友人たちの言葉に応答しながら、彼の感情は高ぶっていく。人は病気そのものよりも、その病気を通して見える気持ち(「罪を犯したからこのような罰を受けたのだ」という無言の問責)に傷つく。これまでのヨブは表面を取り繕っていた。しかし、無言の問責を受けて気持ちが崩れた。人を傷つけるのは人の視線と言葉ではないだろうか。

5.ヨブ記1-2章参考資料 C.G.ユング「ヨブへの答え」

・旧約聖書の「ヨブ記」は、たえず人々の関心を引きつけてきた。行ないの正しいヨブが、なぜ子供を殺され、財産を失い、不治の病いにかからねばならなかったのか。しかも、サタンの誘いに神がのってヨブを試した結果として。ユングの感受性は何よりもまず「ヨブ記」の異様な雰囲気に引き寄せられる。そこでは聖書の中で他に類を見ないことが起こっている。人が神に異を唱え、反抗しているのである。神との確執の中でヨブが見たものは、神の野蛮で恐ろしい悪の側面であった。ヨブは神自身でさえ気づいていない神の暗黒面を意識化したのである。
・ここでユングは独創的な見解を打ち出す。神は人間ヨブが彼を追い越したことをひそかに認め、人間の水準にまで追いつかなければならないことを知った。そこで神は人間に生まれ変わらなければならない、というのだ。ここにイエスの誕生につながる問題がある。旧約と新約の世界にまたがる神と人間のドラマを、意識と無意識のダイナミックなせめぎあいを通して、ユングは雄大に描いている。「ユングの数ある著作の中でも最高傑作」と訳者が呼ぶのも至当であろう。
・ユングの「ヨブへの答え」は、聖書の心理学的な読み解きである。神と人の葛藤のドラマとも言える。ヨブは神を畏れ敬う勤勉なまじめな人物だった。この人物にサタンが目をつける。「ヨブは敬虔な男だと言われていますが本当にそうでしょうか、ひとつ試してみてください」。この誘いに神は乗ってしまう。それ以来ヨブは数々の不幸に見舞われる。妻と子を失い、財産を失い、不治の病に掛かって灰の上をのたうち回る。この時になってヨブは、初めて旧約の神に異議申し立てを行う。あなたはなぜ、真面目に生きてきた私に不義を行うのですか。神はそのとき自分の被造物を見せて自分の力の絶大さを誇る。ヨブは口に手を当てて沈黙するしかなかった。というのが「ヨブ記」である。
・嫉妬深く怒り易い旧約の神は、心理学的には、無意識の暴発した形と捉えなおすことができる。それまで誰も神の暴挙に対して旧約で異議申し立てをした人物はいなかった。神という無意識の暴発に対して、ヨブという小さな人間が、意識の立場から異議申し立てを行った。ヨブの問いかけに対して、神の反省と応答が始まった。最初、神の反応は知恵文学という形で聖書に現れた。神は自分の剛直な頑なさを反省して、知恵という女性性で人間に答え始めた。次に聖書において、預言者たちの預言のなかでの神の子、人の子の登場が、神側からの反応として見られるようになる。
・けれども「神は情け知らずで無慈悲ではないか」というヨブの問いかけへの決定的な答えがもたらされる。それは、神が自ら人間となってこの世に生れ出て、人間の苦しみ悲しみを自ら経験して天に帰る、そのことで怒れる神の愛の神への完全な変化が行われるというものだ。つまり、神は不義で無慈悲ではないかというヨブの問いかけへの最終的な答えが、イエス・キリストの誕生と生涯と受難であるとユングはいう。イエスとして苦しみを経験してようやく神は人間の苦しみ、悲しみを実感しえたのである。このようにユングは聖書を神という無意識が反省的意識を獲得する過程ととらえて、怒れる神から優しい神の転換点をヨブ記に見たのである。卓抜な聖書の読み方で、神が成長するという視点が斬新である。心理学的には大きな足跡をこの書でユングは残した。


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