すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年7月30日聖書教育の学び(2015年8月13日祈祷会、創世記4章、新たな命の誕生と兄弟殺し)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-07-23 21:27:25 (36 ヒット)

1.楽園追放

・創世記3章前半において、人間の罪とは何かが明らかにされる。人間の罪は、神が「食べてはいけない」と禁止されたものを食べたことにあるのではない。過ちを犯してもそれを自己の責任として受け止めることができず、その責任を他者に、最後には神のせいにしてまで逃れようとする。そこに罪の原点がある。罪とは過ちを犯すことではなく、その過ちを認め、謝罪できないところにある。だから、神は人を楽園から追放することを決められる。楽園に住むには人はあまりに幼く、外に出て成長する必要があったからだ。
・しかし、楽園追放は罪に対する呪いではない。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」。神は着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放された。つまり死ぬべき人を生かそうと決意された。
-創世記3:20-24「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある』。主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」。
・人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になる。地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配出来ないもの、ただ神の恵みにより与えられる事を知る。楽園の外に出ることを通して、初めて人は神の恵みを知り、神を求める者に変えられていった。
-創世記3:17-19「神はアダムに向かって言われた『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」。
・女も同じだ。女は苦しんで子を産むことを通して、死ぬべき存在であるのに、生命の継承を許して下さる神の恵みを知る。労働は苦しみであり、出産もまた苦しみだが、その苦しみを通して、本当の喜びを知る道を、神は与えて下さった。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知る。失楽園は決して呪いではなく、祝福なのである。人は過ちを通して成長していく、ここから人間の歴史が始まったと創世記は語る。
-創世記3:16 「神は女に向かって言われた『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する』」。
・私たちは創世記の物語をバビロニアの創造神話や日本の古事記のような神話として聴く時、それは私たちの生き方とは関わりがない物語に終わる。そうではなく、私たちが創世記を、古代イスラエル人の信仰告白として聴く時、すなわち人は何故、他者を愛することが出来ないのか。人は何故、他者と向き合って生きることができないのかを聴く時、自分の本当の姿=罪を知り、その罪からの解放を求めるようになる。
・イエスは二人の犯罪人と共に十字架につけられた。罪人の一人は自分の罪を悔い、「このような私でも天国に行くことは出来ますか」とイエスに懇願する。それに対してイエスが言われた言葉が「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言う言葉だ。この楽園=ギリシャ語パラデイソスはヘブル語のパルデス(園)から来る。エデンの園である。イエスは天の御国を楽園として語られている。旧約聖書はイスラエル民族の歴史を描いた書であり、人の歴史は争いの歴史だ。創世記3章は男女の争いを語り、創世記4章は兄弟の争いを語り、出エジプト記は民族の争いを語る。人は他者を愛することが出来ない。だから争いが起き、苦しみが始まる。そこに私たちの原罪がある。その原罪を十字架につけない限り、平安はない。だから私たちはキリストを仰ぐ。キリストの十字架死によって、私たちは贖われ、楽園=神の国の平安に入る。
-ルカ23:42-43「そして『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい』と言った。するとイエスは『はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる』と言われた」。
・イエスは最後の晩餐の席上でも楽園について語られる。最初の人アダムは人を愛することが出来なかった故に楽園を追われた。私たちもアダムの末として人を愛することが出来ない故に、天の楽園に戻ることは出来ない。その私たちのためにイエスが十字架で死なれ、十字架を通して、天に戻る道を与えられた。
-ヨハネ14:2「私の父の家には住む所がたくさんある。あなたがたのために場所を用意するために私は天に帰る」。

2.弟を殺したカインの罪

・創世記4章は、楽園を追放されたアダムとエバに子が与えられ、カインとアベルが生まれるところから物語が始まる。兄のカインは土を耕す者(農耕者)に、弟アベルは羊を飼う者(牧羊者)となった。
-創世記4:1-2「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった」。
・収穫の時が来て、カインは土の実りを、アベルは羊の初子を献げ物として持ってきたが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」。
-創世記4:3-5「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた」。
・主が何故そうされたかについて創世記は何も述べない。「神が不公平をされるわけはない。カインの捧げ物が受け入れられなかったのはカインが悪いからだ」と考えて不条理を合理化してはいけない。人の世には、理由のつかない不条理や不公平があるという現実を見つめることが大事だ。ヨブ記の友人たちは慰めるために来たのに、教理にこだわってヨブを裁き始める。
−ヨブ記8:1-4「シュア人ビルダドは話し始めた。いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ。神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」。
・不公平、不条理に直面した時、私たちはどうするのか。カインのように怒って相手を殺すのか、あるいはあきらめるのか、神に苦情を言うのか。アベルは善人でカインは悪人だったからだと決めつけてしまうと、この大事な問いかけが失われ、物語を私たちと無縁なものにしてしまう。
−創世記4:6-7「主はカインに言われた『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」。
・神はカインの応答を待たれる。神への怒りであれば神に問えばよい。神はそれを待っておられる。しかしカインは何も言わず「顔を伏せた」ままだ。そのことによって、神に向くべき怒りが弟アベルに向かう。
−創世記4:8「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いた時、カインは弟アベルを襲って殺した」。
・弟を殺したカインに主は問われる「お前の兄弟はどこにいるのか」。カインの両親アダムとエバは罪を犯した後、神から身を隠し、「あなたはどこにいるのか」と問われた(3:9)。今、子のカインが主から問われる「あなたの兄弟はどこにいるのか」と。
−創世記4:9-12「主はカインに言われた『お前の弟アベルは、どこにいるのか』。カインは答えた『知りません。私は弟の番人でしょうか』。主は言われた『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる』」。

3.罪を犯した者を捨てられない神

・カインの罪により血が流れ、それが地を不毛にし、人の生存を脅かすようになる。古代では気候不順があれば飢饉が生じ、大地の不毛が人々をその住む所から追い立てた。古代の人々は、大地の不毛を「人の罪により地が呪われた」と理解した。チエルノヴィリの原発事故によりウクライナの農地は汚染され、福島原発事故により、地域の村や町が廃墟になりつつある。「地はあなたの故に呪われる」、「人間の罪が地を汚している」、状況は現在も続いているのではないか。
・カインは罪の宣告を通して、自分の犯した罪の重さを知り、恐れおののく。自分も殺されるかもしれないという恐怖を通して、カインはアベルの苦しみを知り、神に助けを懇願する。
−創世記4:13-14「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう』」。
・神はカインのような殺人者の叫びさえ聞かれ、彼の保護のためにしるしをつけられたと創世記は語る。
−創世記4:15「主はカインに言われた『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」。
・この「カインのしるし」をめぐって物語が展開するのが、ジョン・スタインベックが書いた「エデンの東」(1952年、1955年映画化)だ。創世記では弟を殺して追放されたカインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」(4:16)とあり、「エデンの東」という小説のタイトルはここから来ている。創世記1章で「産めよ、増えよ、地に満てよ」(1:28)と祝福された家族が何故互いに争うものになったのか、人は原罪を背負って、エデンの東に住む存在なのだ。私たちもまた「カインの末裔」なのだ。しかし神はカインに「しるし」を与え守ってくださった。現代の私たちにとって「カインのしるし」とは何なのか。

4.しるしとしての十字架

・神はカインを追放されたが、彼にしるしをつけて保護された。カインは妻を娶り、カインの子孫からレメクが生まれる。彼は語る「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」。七倍の復讐はカインを保護するためのものだったが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己のためだ。レメクには罪の自覚はない。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対する。自己の力への信頼が競争と対抗を生む。この人間中心主義の流れが現代にも継続されている。
-創世記4:23-24「レメクは妻に言った『アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍』」。
・他方、神はアダムとエバに新しい子を与えられる。セトであり、彼の子孫たちは主の御名を呼び始める。
−創世記4:25-26「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。
・ここに、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」求める人々の系図が生れていく。赦されたから赦していく、神中心主義の流れだ。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきた。キリスト者は自分たちがセトの子孫であることを自覚する。
-マタイ18:21-22「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った『主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』。イエスは言われた『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」。
・私たちは自己の真実の姿、罪を知るために聖書を読む。「打たれたら打ち返す」社会の中で、「七の七十倍までの赦し」(無制限の赦し)を求めていく。それはイエスの十字架を見つめた時にのみ可能になる。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちも赦しの中にある事を知る。十字架を仰ぐ時、私たちは「主の名を呼び求める者」に変えられていき、与えられる不利益や苦しみをも喜ぶ者となる。
-ピリピ1:29「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。


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