すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年6月4日聖書教育の学び(2006年7月30日説教、ローマ12:1-21、敵を愛しなさい)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-28 17:49:11 (43 ヒット)

1.愛し合いなさい

・今日、私たちは、一人の姉妹から信仰告白をいただき、新しい教会員としてお迎えしました。信仰告白の原稿は三週間前に姉妹からいただきました。原稿をお読みして、姉妹がご自分の過去を、良い点も悪い点も、ありのままに書かれている素直さに驚くと共に、イギリスの教会でローマ12章の言葉に接して、自分の罪を知り、過去を悔い改め、新しい生活に入って行かれたことを、感動を持って喜びました。神様が姉妹の人生に介入され、ここに新しい命が生まれたことを知ったからです。
・姉妹を信仰告白に導いたこのローマ12章を、今日は共に読んでいきます。ここに書かれているのは、「キリスト者はいかに生きるべきか」ということであり、その生き方を貫く縦糸としての「愛」です。パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っていました。その準備として、彼はローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の中で、彼は自分がたどった回心の歴史、キリストに出会って罪を知ったこと、悔い改めたこと、新しい生き方を示されたこと等を述べています。具体的には、1-8章で「神は私たちを救うためにキリストを遣わされた」と述べ、9-11章で「反逆したイスラエルさえ神は救おうとされている」と述べます。この神の側からの救いの申し出に対して、私たちはどう応答すべきかを述べたのが、12章以下の言葉です。
・12章の冒頭で彼は言います「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。神の救済に対する応答とは礼拝であり、礼拝とは自分の体=生活を神に捧げることだと彼は言います。礼拝とは主の日に教会に集まることだけではなく、生活の中で神を証ししていく、この世において神の救いを受けた者にふさわしく生きていく、それが礼拝だと彼は言います。具体的にはどのような生活なのか、パウロは9節以下で説明します。
・一言で言えば、それは「愛する」生活です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」には冠詞がついています。「ヘ・アガペー」、その愛、神によって示された愛です。イエスは最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗って言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。このイエスによって示された愛、相手の足を洗う愛、これがアガペーと呼ばれる愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには好きという感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛さないのです。この愛はエロスと呼ばれるものです。聖書はエロスの愛を否定しません。人間として当然な感情だからです。しかし、エロスの愛だけでは本当の人間としての交わりは不可能です。なぜなら、そこには味方と敵が生じるからです。好きな人は味方になり、嫌いな人は敵になります。そして敵がいる以上、そこに争いが生まれます。
・嫌いな人をも受け入れる愛、それがアガペーです。パウロは言います「教会に集まるお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人もいます。尊敬できない人も、好きになれない人もいます。そのような人でも「互いに愛し、尊敬をもって、相手を優れた者と思いなさい」と言われています。アガペーの愛とは好きという感情を超えた愛です。人間は嫌いな人を愛することは出来ません。だから、祈ることが求められています。パウロは言います「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:12)。
・パウロは続けます。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:17-18)。世の人々は競争を賞賛し、勝者をほめます。争わない者は弱者として嘲られるでしょう。弱者でよいではないかとパウロは言います。そして迫害されても復讐するなと言います。その言葉が19−21節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。良心で相手と戦い、相手の心に燃える炎を送れとパウロは言うのです。

2.敵を愛し、迫害するもののために祈れ

・今日の招詞として、マタイ5:43−44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。有名な山上の説教の一節です。隣人を愛せとはレビ記19:18からの引用です。レビ記には敵を憎めとは書かれていません。しかし、多くの民族が住むパレスチナでは、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵でした。人々は敵から身を守るために高い城壁をめぐらした町の中に住み、城門の内側にいる人が隣人で、そうでない者は敵であり、敵を愛することは身の危険を意味しました。敵は愛する範囲には入りません。イエスもそれが人間の当然な感情だと知っておられました。しかし、イエスは言われます「あなたは私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でも異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなたが私の弟子である意味は何処にあるのか」。
・イエスは言われます「あなたは私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたも父の子として敵を愛せ」。先に見ましたように、古代において、イエスの時代において、敵を愛するのは危険でした。今日においても状況は変わりません。多くの人々は、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はありませんし、武器を持たない軍隊はありません。その武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。相手は襲うかもしれない存在、即ち敵です。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、これが人間の論理であり、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。
・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。人々はイエスを理解することが出来ません。マルクスは言いました「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い者の教えでした。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとしました。レーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会を作ろうとしましたが、それは化け物のような社会になりました。今日、純粋な共産制をとる国はほとんどありません。何故でしょうか。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは信用出来ない存在であるからです。人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は言います。敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなるのだと。パウロはこのイエスの言葉を受けてローマ書を書いています「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。

3.燃えさかる薪

・曽野綾子の小説に「燃えさかる薪」というのがあります。このローマ12章を題材にした小説です。シンガポールに暮らす主人公亜季子は、浮気を重ねる夫との生活に嫌気がさし、離婚を告げ、日本に住む新しい恋人との新生活に臨みます。そんなある日、前の夫が爆発事故のせいで大火傷を負ったとの知らせが届きます。今、彼の回りには、彼を愛し彼を世話する人は誰もいません。彼女は仕方なく、シンガポールに戻って夫の看病をし、彼が癒しの奇跡を求めて聖地ルルドに行きたいと言えば、付き添ってフランスへ行きます。ある機会に彼女はローマ12章の言葉に触れます。そして「自分を裏切り、ひどい目にあわせ、今は助ける人もなくなった前夫に、自分の生涯を捧げることが自分の生きる道である」ことを知り、新しい生活を断念してシンガポールに戻ります。
・この本についてのコメントを載せていた一人のクリスチャン女性のホームページがありました。彼女は二人の子供を持つ共働きの主婦です。彼女は言います「自分をひどい目にあわせた人に不幸が降りかかった時、『ざまあみろ』と心から思う人はどれくらいいるだろうか。私は『ざまあみろ』と思いながら、でもそんな風に思う自分を嫌悪するだろう。・・・自分にひどいことをした人に対して、同じことをするのは自分を同じレベルにまで引き下げることだ。・・・『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』ということを聞いた主人公は、人生の真理として『あるべき姿としての人間の行為をとらねばならぬこと』の本質を直感する。主人公だけでなく、私の目をも開いてくれた一節である」。
・「怒りにまかせて相手を呪う。うまくいかないことに対する他人の責任を追及する。そのときだけ気は晴れるが、本当の満足が得られない理由がわかったような気がした。夫との関係は何よりそうだ。『私ばかり大変』と口に出し、これ見よがしに溜息をつき、時には怒りに任せてののしる。・・・『すべきことをすることが本当の満足につながる』ということを実践してみようと、まず自分がいつも笑顔でいることにした。・・・朝、出勤前のバタバタの時、一番先に起きて、夫と自分の弁当を作り、子供たちに食事をさせ、歯を磨いてやり、着替えを手伝う。自分はトイレに行く暇も化粧をする暇もなく、保育園に送って行かなければといつも不満に思っていた。でも、笑顔でおはようと言い、普段通りに家事をしながら、『顔洗ってくるからお願い』とハブラシと着替えを置いておくと、彼が子供の世話をしてくれるようになった。復讐というのは、実は自分の優位性を自分が実感するためにすることではないか。傷つけられたプライドを修復しようとすることだ。私が夫にしてきたことはこの意味での復讐だった。でも『復讐したいという気持ち』を脇に置いてみたら、少しずつ関係がよくなってきた」。
・キリストにある平和はキリストの十字架により、もたらされました。私たちは十字架を通して、神が世界を支配し、人間の歴史に介入される方であることを知りました。知ったのであれば、私たちの安全、平和を神に委ねれば良いではないかと聖書は言います。私たちはこの世が理想郷でないことは知っています。敵を愛すると言うことは、違う価値観を持つ敵を受け入れることを前提にし、危険を伴うものです。それでもそうしようと思います。敵意の隔てを崩すのはそれしかないことを聖書は教え、世界史は教え、また生活上の体験も教えるからです。何よりも、私たちは神の護りの中にあり、必要な時には神が行為して下さることを信じるからです。


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