すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年5月21日聖書教育の学び(2010年11月21日説教、ローマ8:18-30、現在の苦しみと将来の栄光)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-14 20:50:37 (39 ヒット)

1.現在の苦しみ

・ローマ書を読み続けて来ました。今日が8回目、いよいよローマ書の中核となる箇所です。先週学びましたように、キリストに出会う前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法=神の戒めを守ることによって救われようと努力しましたが、戒めを守ることのできない自分を見出し、その結果神の怒りの下にあることの恐れが彼を苦しめ、うめかせていました。彼は叫びます「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。その彼がキリストとの出会いを通して救われていきます。パウロは告白します「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。キリストの十字架を通して自分の罪が購われた、神との和解が為された、神の子としていただいたとパウロは感謝します。
・「神の子とされる」とは、永遠の命が約束されたということです。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上の生を生きています。そしてこの地上はイエスを十字架で磔にした場所、罪が支配している場所です。イエスは世を去る前に弟子たちに言われました「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15:18-19)。「私があなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」、キリスト者になることは世からの苦しみを受けることだとイエスは言われました。だからパウロも言います「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(8:17)。
・当時の社会において、キリストを信じることは、「迫害と苦しみ」を意味していました。キリストを信じるユダヤ人はユダヤ社会から異端として排斥され、キリストを信じる異邦人は皇帝礼拝を拒否する者としてローマ帝国からの迫害を受けていました。パウロはその現実を見据えます「この世でキリスト者として生きることはキリストと共に受難の人生を送ることだ」と。しかし「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います」(8:18)。聞く私たちはパウロの言葉にたじろぎます。誰も苦難など受けたくない、私たちが求めるのは現在の幸福です。世の宗教は現世利益を説く故に、多くの人々が集まります。幸福の科学や世界救世教等の人気を集めています。しかし、このような宗教は病の癒しは説いても、死からの救済は説きません。最大の苦難である死と向き合おうとしない信仰は永続しないでしょう。
・他方、聖書は「死の問題」を正面から取り上げます。パウロがローマ8章で取り上げているのも死の問題です。「被造物は虚無に服している」(8:20)、私たちは死に至る存在であり、死ですべてが無くなると思うから、人生は無意味、無価値、虚無にならざるを得ません。何故死があるのか、罪の故です。パウロは言います「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるもので・・・す」(8:19-20)。ここで言う被造物とは「自然」と言い換えてもよいでしょう。パウロは、自然そのものも人間の罪によって虚無の中でうめいていると言います。自然と人間は不可分です。人間の罪が戦争を引き起こし、戦争は大地を荒廃させます。人間の欲望が森林を乱開発し、鉱物や石油を大地から掘り出し、その結果大地は汚染されていきます。預言者エレミヤは大地の荒廃の中に人間の罪を見ます「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。現代ではアマゾンの熱帯林が乱開発によって死滅しつつあります。地球上の酸素の30%を供給し、「地球の肺」と言われる熱帯雨林の消滅はすべての生命にとって生存の危機をもたらします。「人間の罪により自然が破壊されている」というパウロの視点は、地球規模の環境破壊が進む現代において大事な言葉です。

2.苦しみを超えて

・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来る。それは生みの苦しみ、救済への過程にあるとパウロは言います「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれ・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:21-22)。人間の罪によって損なわれた自然はまた人間の悔い改めにより回復します。ペシャワール会の中村哲さんはパキスタン・アフガニスタン国境の町ペシャワールのハンセン病患者治療のために派遣されました。しかし、いくら治療しても患者は減らず、逆に増えて行く現実の中で、今必要なことは医療よりも、病気の原因である飢餓と不衛生な水の摂取を減らすことだと知りました。彼はまず井戸を掘って衛生的な水を供給し、次に水路建設を行って砂漠を農地にすることを自らの使命とし、以来25年実行してきました。彼は10年間をかけてインダス川支流から水路を引き、かつて「死の谷」と呼ばれた砂漠が、今では緑の地に変っています。何が彼にそうさせたのか「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」(ピリピ1:29)という信仰です。贖われて神の子となった者たちが自然回復のために働いているのです。福音の力が世界を変えうるのです。
・パウロは続けます「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)。私たちは霊の初穂をいただいている、つまり霊魂の救いという内面的な救済はすでに為されています。しかし相変わらず体は肉を持つゆえに罪の虜になっており、それゆえに死ぬべき運命にあります。救いは始まったがまだ完成していない、いつの日かこの体が贖われて、死んでも死なない存在になる。その日を待ち望んでいるとパウロは言います。
・今現在、私たちの救いは目に見えません。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は私たちのうめきを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には共に祈って下さるとパウロは言います「霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」( 8:26-27)。
・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、不信仰な私たちも神の約束を信じて人生を歩み続けることが出来ます。その時、私たちは「万事が益となって働く」(8:28)ことを経験します。私たちの生活は困苦と艱難に満ち、障害と誘惑に囲まれています。苦しみそのものは決して良いものではありませんが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、私たちは困苦や艱難を喜ぶことが出来る者とされています。前に紹介しました三浦綾子さんは、「癌さえも喜ぶことが出来る」ようになったと書いています「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」(三浦綾子「泉への招待」)。病も死も神がお与えになる、それは祝福なのだと受け止めていく時、人生に怖いものはなくなります。この信仰をいただいたものは他に何も要らないのではないでしょうか。

3.将来の栄光

・今日の招詞に詩編73:24-26を選びました。次のような言葉です「あなたは御計らいに従って私を導き、後には栄光のうちに私を取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰が私を助けてくれようか。私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」。詩編73篇は「悪人が栄え、善人が虐げられる現実」の中で、信仰者はどう生きるべきかを歌った詩編です。詩人は「神に逆らう悪人は栄えるのに神を敬う自分は苦労ばかりだ」と嘆きます。なぜ邪悪な者たちが栄え、罪なき者に災いが下るのか、詩人は聖所に行って祈り、そのことの意味を神に問います。その結果示されたのは、邪悪な者たちの行く末です。詩人は歌います「私は神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを。彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを」(73:17-18)。
・人は比較の世界で生きています。自分の人生が困難に満ち、他者の人生が安泰であれば、私たちは平静でいられません。人が地上の出来ごとのみに目を奪われている時、彼の信仰は揺らぎます。しかし彼が天上に目を向け、すべては神の支配の中にあることを確認する時、不条理も一時的なものであることに気づきます。彼を取り巻く現実は変わっていません。悪人は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安です。彼はやがて死ぬでしょう。しかし神は死を超えて慈しんで下さると信じる故に彼の心は平和です。彼の歌う「私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」という信仰こそ、パウロの言う永遠の命への希望「神の子とされること、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」と同じものです。
・「神は社会の不条理を糺され、泣いている人、虐げられている人を救済される」というのが私たちの信仰です。例え虐げられている人が戦乱の中で殺され、栄養不足で餓死したとしても、彼らは天上で迎え入れられている、救いは死を超えて存在する、この「目に見えないものを望んでいく」のです。パウロはコリント教会の手紙の中で言います「私たちは落胆しません。たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4:16-18)。彼は自分に与えられた苦難、病気を「一時の軽い艱難」と呼びます。「永遠の救い」という素晴らしさに比べれば、病気も失業も迫害も、さらには肉体の死さえも、「一時の軽い艱難」になるのです。
・今日の礼拝で新生讃美歌623番「時は満ちて」を歌います。「時は満ちてすべて美しくされ、示される道従い行きて、御言葉のまま歩む」。「時が満ちて」、この歌こそ、パウロがローマ8章で語る心をとらえています「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)。「救いの完成を待ち望みつつ現在を生きる」、このような人生に私たちは招かれています。


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