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みんなの証
みんなの証 : 2017年5月7日聖書教育の学び(2004年12月1日祈祷会、ローマ5章、原罪からの解放)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-01 21:02:26 (184 ヒット)

1.神との平和

・義とされた者は神との和解が成立し、神による平安が生まれるとパウロは説く。
−ローマ5:1-2「私たちは信仰によって義とされたのだから、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。
・世の人は自分の功績を積むことによって、他の人から認められ、平安を得ようとする。しかし、他の人が認めてくれないと、その平安は崩れる。人の平安ではなく、神の平安を求めよ。神の前に誇るべき何物のないことを認める時、自分が罪人で弱い者であることを承認する時、神の平安が恵みとして与えられる。
−競灰12:9-10「主は『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです」。
・弱い時にこそ強い事を知れば、苦難を喜ぶことが出来る。苦難が弱い自分を強くするために与えられた神の恵みである事を知るからだ。苦難はその意味を見出した時に、祝福になる。
−ローマ5:3-5「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。」
・この平安を私たちは値なしにいただいた。だから恵みに感謝する。
-ローマ5:6-8「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
・それはキリストが十字架で血を流して勝ち取ってくださった。
−ローマ5:9-11「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
・この神との和解、平和が、隣人との平和をもたらす。隣人との平和がない時、私たちは神との和解をいただいていない。
−汽茱魯4:20「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。

2.原罪

・私たちの中には、自分ではどうしようもない罪=原罪がある。それは「アダムが罪を犯したように、全ての人も罪を犯したからだ」とパウロは言う。原罪はカトリックが教えるように、遺伝によってアダムから伝えられたものではない。しかし人の中に厳然として罪の支配があることは明らかだ。
−ローマ5:12「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。
・アダムはエデンの園の中央に植えられた「善悪の知識の木」の実を食べた。「食べるなと命じられた」神の戒めに背いた。神の被造物が神から離れようとすれば、死ぬ。人間の中にある神から離れようとする心、それが原罪だ。
−創世記3:17-19「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』」
・アダムはヘブライ語で「人」を指す。アダムという人類の始祖が罪を犯したというよりも、アダムに代表される人間が「罪を犯し続ける存在」であることを示すために、創世記は物語化された。以降、人間の罪の問題を「アダムの堕罪の結果」とする原罪論が広く承認され、パウロもこの流れの中にいる。ラテン語聖書はこの原罪論を取るが、しかし聖書には「原罪」という言葉はない。ラテン語訳聖書は明らかに誤訳であり、この語訳をもとに、「アダムによる性行為を通じて、全人類に罪がもたらされた」という「生殖-遺伝説」(アウグスティヌス)が定着することとなってしまった。
-ラテン語聖書・ローマ5:12「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。彼(アダム)において、すべての人が罪を犯したからです。」
・罪は律法が与えられるモーセ時代以前から存在したが、罪の認識が生まれたのは、律法以降であり、パウロは「人間が神に背いていることを明らかにするために律法が与えられた」と理解する。
-ローマ5:13「律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。」
-ローマ3:20「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」

3.一人の従順がこの罪からの解放をもたらした

・アダムの罪によってこの世界に死がもたらされた。しかしキリストの死に至るまでの従順が、アダムの罪をはるかに超える恵みをもたらしたとパウロは語る。
-ローマ5:15「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」
・その恵みは「多くの罪過があっても、神の前に義とされる」恵みである。有罪の人間が、キリストの恵みによって無罪とされたとパウロは語る。
-ローマ5:16「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」
・一人の人の不従順によって死が支配したように、一人の人の正しい行為によって、多くのものに命の恵みがもたらされた。
-ローマ5:17-19「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」
・人がアダムであった時=人間の本性に従って生きている時、そこは罪が支配する死の世界であった。神に背いているという人の在り方が、多くの個々の罪を生んだ。しかしキリストにあっては、恵み(カリス)が支配する。人はキリストの贖いの業によって、罪の世界から恵みの世界に移される。それを受け入れることが信仰なのである。

4.パウロのアダム・キリスト論をどのように考えるか

・パウロは創世記のアダムに人間の原型を見て、彼の神への背きこそが「罪と死」をもたらしたと考えた。2千年前に生きたパウロにとって、アダムはまさに人類の始祖であった。しかし現代の私たちはアダムを人類の始祖とは考えない。人類は地球上に生命が発生してから何億年という長い時間をかけて進化し、人となったと理解する。その意味で創世記のアダム物語は神話である。
・しかしその神話の中に深遠な真理が示されていると理解する。「人とはどのような存在か」、「人はなぜ罪を犯し続けるのか」、を探求し、物語るものが創世記なのである。その書かれた目的は世界を科学的に説明するためではなく、神がいかにして人を救済するのかを物語る書なのである。その意味で、パウロが展開した「アダムこそが、来たるべきキリストの予型である」との論述は納得できる。
-第一コリント15:21-22「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」


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