すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2017年4月30日聖書教育の学び(2010年10月17日説教、ローマ3:21-31、信仰と救い)
投稿者 : admin 投稿日時: 2017-04-23 19:05:14 (130 ヒット)

1. ローマ書の示す罪のあり様

・今私たちは、「ローマの信徒への手紙」を毎週読んでいます。今日が三回目ですが、説教を準備しながら、この手紙は「難しい」と感じています。手紙は単にパウロがローマの教会の問題を指摘して悔い改めるように勧めているだけのものではなく、パウロが自分の信じていることを論理的に解説する教理書でもあるからです。説教準備のために何冊もの注解書を読みましたが、納得できる注解書はほとんどありませんでした。その中でこれはと思えたものが、北森嘉蔵「ローマ書講話」(教文館)でした。北森先生は「神の痛みの神学」等を書かれた著名な神学者ですが、他方、伝道のためにカルチャーセンター等で一般の方向けのお話もされています。「ローマ書講話」は先生が朝日カルチャーセンターで行った聖書講話をテープ起こししたもので、わかりやすくローマ書が解説されています。今日は北森先生の助けを借りて、ご一緒にローマ3章を読んでいきたいと思います。
・パウロはいつの日か、世界の中心であるローマに行って伝道したいと願っていました。しかし、ローマ教会には問題がありました。教会内のユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に対立があったのです。ユダヤ人信徒は異邦人が律法を守らないと言って責め、異邦人信徒はユダヤ人を堅苦しいことばかり言うが、やっていることは自分たちと同じではないかと見下していました。同じ教えを信じる信仰者の間に、なぜ対立や争いが生じるのか、パウロはその根本原因に人間の罪を見ました。そのため最初の挨拶の言葉を終えるや、パウロは「罪とは何か」を説き始めます。それが1章18節から3章20節までの箇所です。この個所は大事な個所ですので、今日は最初に、この罪の問題をもう一度振り返ってみたいと思います。
・北森先生は1−2章の記述の中で、「パラディドナイ」という言葉に注目されます。「任された、渡された」という意味の言葉で、1:24「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられた」、1:26「神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた」、1:28「神は彼らを無価値な思いに渡された(任された)」とあります。人の罪に対して、神は怒りを持って臨まれ、その怒りとして「人を為すがままに任せられた、放置された」とパウロは言うのです。人は歴史以来、争い合い、殺し合ってきました。人間の歴史は戦争の歴史であり、今でも戦争をやめることはできません。何故か、神が人を「無価値な思いに渡された」(1:28)からです。人は生命を継承するために男と女に造られましたが、人間はこの性を快楽の道具として、不倫や強姦や同性愛を繰り返してきました。何故でしょうか、それは神が人を「恥ずべき情欲に任せられた」(1:26)からです。神の怒りとして、この世は罪と不正に満ちている、あなた方もその中にあるのだとパウロは指摘しているのです。
・しかし、神の怒りは何故、「人を為すがままに任せる」という形で現れるのでしょうか。それは神が人を愛しているからです。人に自分の罪をわかってほしい、悔い改めてほしいと神は願っておられる。そして人間が自分の罪を自覚するのは、「落ちる所まで落ちる」、何も頼りに出来るものがなくなった時です。「落ちる所まで落ちるために、神は人が為すがままに任せ」られる。その結果、社会は欲望と欲望がぶつかり合う弱肉強食の世界になり、弱い者は排除され、圧迫されていく。その時、彼は神を求める。他に頼るものがないからです。北森先生の文章を読みながら思い起こしたのは、ルカ15章にあります「放蕩息子の例え」です。放蕩息子が自分の罪を認めたのは、お金を使い果たし、だれも助けてくれず、空腹の中で豚のえさでさえも食べたいと思った時でした。落ちるところまで落ちて初めて分かる自分の罪、それを知らせるために神は私たちを放置されるのです。

2. ローマ書の指摘を放蕩息子の例えから見る

・ここで「放蕩息子の例え」を振り返ってみましょう。物語は、「ある人に二人の息子がいた」という言葉で始まります。弟息子は堅苦しい父と兄との生活にうんざりし、家を出て行く決意を固め、父親に財産の分け前を要求します。父は息子の意思を尊重し、財産である土地や家畜を分け与えます。弟息子は財産を金に換え、遠い国に旅立ちました。彼はお金を湯水のごとくに浪費し、使い果たしてしまいます。その時、ひどい飢饉が起こり、彼は食べるものにも困るようになり、豚を飼う者となります。豚はユダヤ人にとっては汚れたもの、その世話をする弟息子は落ちるところまで落ちたことを意味します。
・彼は終には、「豚のえさであるいなご豆でさえ食べたい」と思うほど飢えに苦しみます。人は落ちるところまで落ちた時、初めて悔い改めます。弟息子は「豚のえさを食べても飢えをしのぎたい」と思った時に、我に返りました「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここを発ち、父のところに行こう」(ルカ15:17−18)。ここに「人を為すがままに任せる」ことを通して、人を救おうとされる神の配慮が例話化されています。
・放蕩息子は誰も頼るものがなくなって初めて、自分が「父の子」であることを思い起こしました。彼は自分の罪を認め、息子と呼ばれる資格は無いと考え、どのような裁きを受けようとも父の家に帰ることを決意します。父親は息子を「為すがままに任せて」いましたが、実は息子の身を案じ、息子が帰って来るのを待っていました。ある日、その息子が帰ってくるのが見えます。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(同15:20)。息子は父親を見ると、謝罪の言葉を口にし始めますが、父親はそれをさえぎって使用人に命じます「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」。最上の着物を着せる、子として迎えることです。手に指輪をはめる、指輪には印象がついていますので、彼を再び相続人として迎え入れたことを意味します。足に履物を履かせる、奴隷は履物を履きません。父親はこの息子の帰還を無条件で迎え、祝宴の支度をするように命じます。何故ならば「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同15:24)。
・自分の罪を認め、悔い改めて帰って来た息子を、父親は無条件で迎え入れました。それが赦し、パウロの言う福音です。パウロはローマ書の中で言います「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)。人は自分の努力によっては救われません。放蕩息子もどうしようもない所まで追い込まれました。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(3:21)。放蕩息子は父親の所に帰ることによって、無条件に彼を赦す神と出会ったのです。そしてパウロは人を赦しに導くために、神はキリストをお立てになったと言います「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」(3:22)。この赦しを通して、人は罪から解放されていきます。パウロは続けます「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(3:23-24)。

3.神の引渡しとしての受難

・すべての罪は赦されます。しかも無償で赦されます。赦されるほうは無償ですが、赦す神は代価を払われます。それがキリストの贖い、十字架です。今日の招詞としてローマ8:32を選びました。次のような言葉です「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」。この御子を「死に渡された」、「渡す」という言葉は先に見ました「パラディドナイ」という言葉です。神は御子を「死に引き渡された」、何故ならば「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(へブル9:22)からです。犠牲なしには赦しはありえない、だから神は御子を私たちのために「放り投げて下さった」、それが御子の十字架なのだとパウロは言います。
・「私のために神はその一人子を捨てられた」事実を知ることを通して、私たちは自分たちの罪を知るようになります。ちょうど、放蕩息子が父の愛を通じて自分の罪を知ったように、です。人は「神が私を救うために、御子を死に引き渡された」事実を知った時、痛みを覚えて、自分の罪を悔い改め、御子の前に跪きます。それこそパウロがロ−マ書3章で述べていることなのです。そしてパウロはこの手紙の中核となる言葉を語ります「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(3:28)。これこそが「信仰義認の真理」、私たちプロテスタント教会の信仰の基盤となっている教えです。
・パウロは律法を厳格に守るパリサイ派に属するユダヤ人でした。彼は自らを「同年輩の多くの者たちに比べ,はるかにユダヤ教に進んでおり,先祖からの伝承に人一倍熱心」であったと語ります(ガラテヤ1:14)。その律法への熱心がパウロに、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせました。彼にとって、十字架で殺されたイエスを救い主として仰ぎ、律法を軽視するキリスト教徒は許しがたい存在でした。その彼がキリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験します。天からの光に打ちのめされ、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きます。彼は問います「あなたはどなたですか」。それに対して答えがありました「私は、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)。具体的に何が起こったのかはわかりません。わかることは、パウロが復活のキリストに出会ったという事実だけです。
・そのパウロはキリストに出会う前にどのような状況に置かれていたかをローマ7章に書いています。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分、神の前に罪を指摘される自分」でした。律法によって、自分の力によって、救いを得ようとした時、パウロが出会ったのは裁きの神でした。律法を通してパウロが見出したものは自分が罪人であり、その罪から解放されていない事実でした。だからパウロはうめきの声を上げました。放蕩息子のように、です。その声に応えて復活のキリストが彼に現れました。パウロは限界状況に直面して、自己の有限性を知り、神に出会ったのです。その救済体験が「私たちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えます」(3:28)という確信になっているのです。
・宗教改革者マルティン・ルターもパウロと同じ経験をしています。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送り、毎日を労働と祈りで過ごしていました。しかし、どんなに修行しても、ルターに平安は与えられず、彼は激しい罪意識を抱くようになります。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神でした。しかし、そのルターに、突然、光が与えられます。ローマ書の学びを通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができました。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神、裁きの神として立ちふさがりましたが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる恵みの神に出会ったのです。この新しい光のもとで聖書を読み直したルターの福音理解が宗教改革を導いていきました。
・人間がどのように努力しても、救われることも義とされることも出来ない。そういう窮地に陥っている人間に神の方から救いの手が伸ばされた。それがキリストの十字架です。この真理は理性で理解できるものではありません。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(汽灰螢鵐1:18)、神の子が地上に来た、御子の十字架死を通して救いが来た、この世の知恵では愚かな言葉です。しかし「救われる者には神の力」、私たち自身がキリストと出会った時に初めてわかる真理なのです。


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