すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

みんなの証
みんなの証 : 2015年11月8日聖書教育の学び(2010年6月10日祈祷会、エレミヤ書28章、預言者ハナンヤとの対決)
投稿者 : admin 投稿日時: 2015-11-02 08:35:16 (388 ヒット)

1.エレミヤのくびきを砕くハナンヤ

・ゼデキヤ王の治世4年(前594年)、エレミヤは反バビロン同盟を画策する王を諌めるために、首にくびきをはめて王の前に出た。バビロン軍は神の遣わされた鞭であり、そのくびきこそ神によって与えられた重荷であると示すために。
−エレミヤ27:12-14「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか。主がバビロンの王に仕えようとしない国に宣言されたように、バビロンの王に仕えるなと言っている預言者たちの言葉に従ってはならない」。
・そのエレミヤの前に、預言者ハナンヤが立つ。人々はくびきを喜ばず、預言者や祭司も、見たくない現実を見ず、自分の願望を神の言葉として語ろうとする。彼は神殿所属の預言者団の代表であり、過激な国家主義の立場に立っていた。
−エレミヤ28:1-4「ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前で私に言った『イスラエルの神、万軍の主は言われる。私はバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、私はバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、私がバビロンの王の軛を打ち砕くからである』」。
・前597年・第一次バビロン捕囚の折、バビロン軍が略奪した神殿祭具の返還と、捕囚としたエコンヤ王の帰還はユダの民全員の願いであった。しかし冷静に見れば、今がその時ではないことをエレミヤは知るゆえに、ハナンヤに反論する。
−エレミヤ28:5-9「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。だが、私があなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたや私に先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」。
・預言者たちは押し並べて「戦争や災害や疫病を預言する」。それは罪を指摘し、その罪の結果を見つめ、悔い改めを求めるゆえだ。「平和を預言する」ことは預言者の務めではない。しかしハナンヤはエレミヤを侮辱し、彼の首のくびきを打ち砕き、平和を預言する。そこにいた民衆は熱狂して、ハナンヤを称賛したであろう。彼こそ真の預言者だと。
−エレミヤ28:10-11「すると預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた。そして、ハナンヤは民すべての前で言った『主はこう言われる。私はこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く』。そこで、預言者エレミヤは立ち去った」。

2.現実を見つめるエレミヤ

・エレミヤは黙って立ち去った。まさにこの瞬間にユダの滅亡が決定的になった。悔い改めることをせず、「木のくびき」をはずした者には「鉄のくびき」が与えられると主はエレミヤに言われた。
−エレミヤ28:12-14「預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ。『行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。私は野の獣まで彼に与えた』」。
・「鉄のくびき」、それはエルサレムの徹底的な破壊であり、滅亡の預言であった。神は義ゆえに罪を罰せられ、愛ゆえに悔い改めた者を赦される。しかし悔い改めない者には滅びが来る。ハナンヤは2カ月後に死んだ。
−エレミヤ28:15-17「預言者エレミヤは、預言者ハナンヤに言った『ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。私はお前を地の面から追い払うと。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ』。預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだ。
・ダビデ王朝という権威が樹立されると、その体制護持にために宮廷神学が生まれ、「ダビデの末はとこしえである」(サムエル記下7:12-13)とされ、それが国家主義、民族主義を育て、人々の冷静な判断力を奪う。ハナンヤも体制神学にこだわりすぎたため、現実が見えなくなっていた。戦前の日本の「国体護持」、ドイツやソビエトで見られた「指導者の神格化」もその表れであろう。しかし、それは人間の神学であり、神の前には無力だ。
・ハナンヤは彼自身の願望を預言した。それは神と人への反逆であり、死に値する。ピーターセンは「牧会者の神学』の中で、アメリカの多くの牧師はこのハナンヤのようになっていると指弾する。日本の牧師たちも同じだ。
−ピーターセン「アメリカの牧師たちは企業経営者の一群に変容してしまった。彼らが経営するのは、教会と言う名の店である。牧師は・・・どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店に引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるような商品を提供できるかを考え・・・祈り、聖書を読み、霊的導きを行うことを忘れてしまった」。


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