すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-19 09:47:33 (21 ヒット)

1.パウロのお別れの言葉

・ローマ書を読み進めています。これまで1章から14章まで読んできました。手紙はいよいよ最後の段落に来ました。ローマ書は15:22以下が結びの挨拶となり、パウロがどのような思いでこの手紙を書いたのか、これからどのような希望を持っているかが、そこに述べられています。パウロはローマに行って人々に福音を伝えたいと思っていましたが、今までは各地の伝道に忙しく、その時間が取れませんでした。彼は記します「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います」(15:22-24)。
・パウロはシリアのアンティオキア教会を拠点に、三度の伝道旅行を行い、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15:19)。イリリコン州はイタリア半島の対岸、バルカン半島の地です。ローマ帝国の東半分の主要な地にはあまねく伝道したので、これからはローマに行き、さらにその先のイスパニアまで行きたいとパウロは世界伝道の夢を語っています。
・しかし今、彼はエルサレムに帰る必要がありました。異邦人教会から集められた献金をエルサレム教会に届ける必要があったからです。「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです」(15:25-26)。福音はエルサレムから始まり、ローマ帝国の各地に広がっていきました。パウロや他の使徒たちの働きによるものです。しかし、異邦世界に広がっていった福音はもはやユダヤ教という狭い枠を抜けだした新しい教えになっていました。そのため、まだユダヤ教に強く影響されていたエルサレム教会の人々は、ユダヤ教の中核である「律法からの自由」を唱え、「割礼も不要だ」というパウロの教えに反感を持っていました。エルサレム教会ではまだ「割礼なしに救いはない」と信じる人々が多数派だったのです。このままではエルサレム教会と異邦人教会は分裂すると危惧したパウロは、両教会の和解のために異邦人教会から献金を募り、それをエルサレム教会に捧げようと計画していたのです。その間の事情が27節以降にあります「彼ら(異邦人信徒)は喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、私はこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます」(15:27-28)。
・しかしパウロがエルサレムに戻ることは命の危険がありました。何故ならばパウロは熱心なユダヤ教徒でしたが、復活のイエスに出会ってキリスト教に回心しており、ユダヤ教徒から見れば「裏切者」として命を狙われており、またエルサレム教会の保守的キリスト者からは「律法を軽んじる異端者」として排斥されていたからです。使徒行伝によりますと、エルサレムに向う途中でパウロはエペソ教会の人々に会いますが、その時、身の危険を感じていることを人々に告げます「今、私は、"霊"に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」(使徒20:22-23)。しかし彼はそれでもエルサレムに行きます。果たすべき仕事があるからです。パウロは語ります「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(使徒20:24)。
・パウロは今ローマの人々への手紙を締めくくるに当たり、ローマの信徒たちに祈ってほしいと伝えます「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、"霊"が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、私のために、私と一緒に神に熱心に祈ってください、私がユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対する私の奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」(15:30-31)。

2.それからのパウロに起きた出来事

・パウロは今、エルサレムに向かおうとしています。そのエルサレムでは、「投獄と苦難」が待っていると懸念されます。それでも彼はエルサレムに向かいます。ちょうど、イエスがエレサレムで死が待っていることを承知の上でエルサレムに行かれ、十字架にかかられて死なれたように、です。十字架上でイエスは神に訴えられます「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。イエスは絶望の内に死なれましたが、神はその絶望の叫びを聞いてイエスを「起された」(復活させられた)。パウロはイエスと同じ運命が自分を待っているかもしれないと危惧していました。
・パウロはエルサレムに行き、懸念したようにユダヤ教の過激派の人々に襲われ、投獄され、2年間カイザリアの牢獄に幽閉されます。エルサレム教会はパウロの助命のために何の努力もしませんでした。二年間の長い、失望の時が流れました。しかしパウロはあきらめません。彼は獄中からローマ皇帝に上訴し、裁判を受けるためにローマへ移送されます。その結果、パウロは夢にまで見たローマに行きます。使徒言行録は記します「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28:30-31)。
・パウロが夢見た出来事が、逮捕・監禁という苦難を通して、実現したのです。これが神の御業、人間には計り知ることの出来ない神の摂理です。神は時に私たちを危険や苦難から救出するのではなく、危険や苦難を通して、その業を実現させられます。箴言は語ります「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16:9)。人間は計画し、神が導かれる。従って人間の計画通りには物事は進まない。しかしその結果を見て人は驚嘆する「神の御業は素晴らしい」と。パウロの生涯を見るとまさにその通りだと思えます。

3.万事が益となるように共に働かれる神

・今日の招詞にローマ8:28を選びました。次のような言葉です「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」。パウロは多くの論敵との戦いの中で伝道を進めました。パウロが開拓伝道したガラテヤ教会は「割礼を受けなければ救われない」と主張するユダヤ主義者の影響の中で、パウロから与えられた福音を捨てました(ガラテヤ5:13-15)。コリントの教会の中にもパウロではなく、ペテロこそが本当の使徒であり(1コリント1:12)、パウロは「手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と非難する人も出ています(2コリント10:10)。パウロの伝道活動は失望の連続だったのです。しかしパウロは希望を捨てません。自分の業は神の御心に沿っていることを信じていたからです。彼は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように神が共に働く」ことを信じていました。
・パウロはローマに行った2年後、紀元62年ごろ、ローマで殉教したと言われています。人間的に見れば無念の死です。しかし、信仰的に見れば、栄光の生涯です。人にとって最も大事なものは何でしょうか。事業の成功でしょうか。華々しい成功をおさめることでしょうか。生前のパウロは現在のような「大使徒」との評価を受けていませんでした。パウロの評価が高まったのは、紀元70年にエルサレムがローマにより破壊され、それに伴いエルサレム教会が消滅した後です。エルサレム教会消滅後、教会の主力はコリントやローマ等の異邦人教会となり、異邦人伝道に尽くしたパウロの評価が高まってからです。多くの偉人の生涯も似ているように思います。画家のヴァン・ゴッホの評価が高まったのは彼の死後で、生前に売れたゴッホの絵は1枚だけだと言われています。その値段は400フラン(4万円)、いま彼の絵は数十億円で取引されています。
・人の生涯の意味を何なのでしょうか。他者評価ではありません。イザヤは語りました「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。この御言葉と同じ心境を歌った「無名戦士の詩」が残されています。次のような言葉です「大きなことを成し遂げる為に、強さを求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった 。偉大なことをできるようにと健康を求めたのに、より良きことをするようにと病気を賜った。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようと成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった 。人生を楽しむためにあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを慈しむために人生を賜った 。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた 。私はもっとも豊かに祝福されたのだ」(加藤諦三著「無名兵士の言葉」より)。
・この詩は、南北戦争に従軍した南軍の兵士がつくったものであろうと言われています。この無名兵士の詩が広く人びとに知られるようになったのは、1950年代、元大統領候補だったA.スティーブンソンがクリスマスカードに記したことがきっかけです。彼は1952年と1956年の大統領戦に民主党候補として出馬しましたが、二度とも、アイゼンハワー大統領に敗北します。失意のさなかに、彼は田舎の教会でこの詩をみつけ、深い感銘を受け、それをクリスマスカードに記し、その贈られたカードを見て、多くの人が口ずさむようになりました。「人生を楽しむためにあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを慈しむために人生を賜った 。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた 。私はもっとも豊かに祝福されたのだ」。聖書は私たちに「幸福な人生」を約束しません。しかし「意味ある人生」を約束します。人の評価ではなく、神の評価を求める生き方です。神の前に富むとはそのような人生ではないでしょうか。時なのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-11 15:54:23 (40 ヒット)

1.お互いを裁きあうローマ教会の人々

・アドベントを迎えています。今日がアドベント第三主日で、次週はクリスマス礼拝の時を迎えます。私たちは毎年クリスマスには、「おめでとう」と挨拶しますが、それは何故でしょうか。イエス・キリストがお生まれになったことが、2000年前に起こった出来事というだけにとどまらず、今生きている私たちにとっても重大な意味を持つ出来事だからです。キリストの降誕によって世界は新しくなった、私も新しくされた、その新しい世界に生きる新しい私たちはどう生きればよいのか、それを考える時がクリスマスの時です。今日はローマ14章を通して、クリスマスの意味を考えてみます。
・パウロはローマ書1-8章で、神は私たちを救うためにキリストを遣わされたと述べ、続く9-11章で反逆したイスラエルさえ神は救おうとされていると述べました。今日読みます12章以下はこの神の側からの救済行為に対し、私たちはどう応答すべきかを述べています。パウロは12章の初めで言います「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(12:1-2)。私たちは新しく生まれ変わった、今私たちは天に国籍を持つのであって、地にのみ属する世の人とは根本的に生活が変えられた。「罪はもはや、私たちを支配することはない。私たちは律法の下ではなく、恵みの下にいる」(6:14)からだとパウロは言います。
・しかし「恵みの下にいる」はずの私たちが、相変わらず罪を犯し続け、天に国籍を持つ人の集まりである教会もまた罪を犯し続けています。ローマ書はパウロがローマ教会に送った手紙ですが、何故パウロはこの手紙を書いたのか。それはローマ教会の中に争いがあり、そのような無益な争いを止めるようにパウロは手紙を書いたのです。その争いが14章に書かれています。パウロは書きます「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(14:1)。14:2以下の記述を見ますと、宗教的な配慮から肉食を避け、野菜だけを食べる人たちが教会内にいて、パウロはその人たちを「信仰の弱い人」と呼んでいます。教会のある人たちは「何を食べても良い」と信じていましたが、別な人たちは、「肉を食べることは罪だ」と考えていたようです(14:2)。
・何を食べても良いとする人たちは、おそらく多数派の異邦人キリスト者で、彼らはギリシャ・ローマの流れを汲む自由主義者でした。他方、肉を食べてはいけないとする人たちは少数のユダヤ人キリスト者で、ユダヤ教の禁欲的な伝統で育ち、穢れたものは食べていけないという教えを守って来た人々と思われます。当時は異教神殿で動物犠牲として捧げられた肉が市中に出回っており、肉を食べるという行為は偶像の神に捧げられたものを食べることとなり、それはいけないと考えたユダヤ人信徒が多かったのでしょう。ユダヤ教には厳しい食物規定があり、それを守ることが信仰だと考える人々がいたのです(使徒15:29)。その中で、自由主義者たちは、禁欲的な人々を「信仰の弱い者」として軽蔑し、他方ユダヤ人信徒は節度を守らない人々を「罪人」として裁いていたようです。パウロはこのような人々に言います「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(14:3a)、何故ならば「神はこのような人をも受け入れられたからです」(14:3b)。
・パウロの考え方は明白です。彼は言います「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14:14)。イエスは言われました「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚すのである」(マルコ7:15)。だからパウロは何を食べても良いと考える人たちを律法の規制から解放されているという意味で「信仰の強い人」と呼び、食べてはいけないと思い込んでいる保守的な人たちを「信仰の弱い人」と言ったのでしょう。では何を食べても良いのだから自由主義者が正しいのか、パウロは違うと言います。たとえ何を食べても良いとしても、「肉を食べることでつまずく人がいるのに、肉を食べるのは間違っている」と彼は言います。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」(14:15a)。何故ならば「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15b)。正しい行いであっても、その行いが人を傷つける時、それは正しいものではなくなります。パウロは続けます「 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(14:20)。
・また、ある人たちは「特定の日」を重んじていました。ちょうど私たちが「仏滅」や「友引」を気にするのと同じです。熱心なユダヤ人は特定の日に断食する風習がありましたが、自由主義者はそれを見て「何と不自由な生活をしているのか。信仰は人を解放するものではないか」と嘲笑したのかも知れません。しかし、ここでパウロは繰り返します「特定の日を重んじる人は主のために重んじる」(14:6)。相手を理解し、受け入れないのはあなたにキリストの愛がないからだと。

2.全ては許されているが、全てが益になるわけではない

・「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」、この言葉を私自身が体験したことがあります。私たち家族は10数年前に、仕事でオーストラリアに6年間駐在しました。その地で、日本で宣教師として働き、引退してシドニー日本人教会の牧師をされていたヘイマン夫妻と出会いました。ある時、ご夫妻を食事に招いた時、ヘイマン先生はワインを一滴も飲まれませんでした。ワインを飲まないオーストラリア人に出会ったのは初めてでした。理由を尋ねた時、先生は言われました「あなたがたはワインを楽しみなさい。ワインは神様からの贈り物です。でも私は飲みません。お酒を飲むことによってつまずく人がいるかもしれないからです」。ヘイマン先生は、自分は飲んでもかまわないと思っても、他者のために「飲む自由」を捨てました。ここに福音信仰を生きている一人のクリスチャンがいました。私が後年牧師になった理由の一つは、ヘイマン先生の生き方に対する感動があったような気がします。
・パウロは言います「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(14:6b)。多様性の中にあってお互いを受け入れあう、それが教会の理想ですが、現実の教会はそうではありません。現実の教会は内部争いばかりしている、そこに問題があります。現在、日本キリスト教団では「主の晩餐式(聖餐式)」を巡る争いが起きています。「まだ洗礼を受けていない人は主の晩餐にあずかってはいけない」と考える教団主流派の人々が、未洗礼者を含む礼拝参加者全員への晩餐を実行し、是正勧告に応じなかった牧師を免職したのです。主の晩餐を洗礼者だけに限るか、全ての人に開放するかは、いずれも聖書的根拠があり、神学的に争いのある事柄ですが、それが牧師の免職まで行けば、まさにローマ教会と同じ「裁き」がなされていると考えざるを得ません。クリスチャン人口1%の日本で求められているのは、いまだキリストを受け入れない人々にどのように伝道すべきかの知恵と実践であり、外部の人々にはどちらでもよい事柄で内輪もめすることではないでしょう。パウロは言います「私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(14:8-10)。人と言う視点で見れば「裁き」が必要かもしれませんが、神の前では「愛、赦しあい」が求められています。

3.教会の一致のために

・今日の招詞にローマ12:4-5を選びました。次のような言葉です「というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。私たちは多くの兄弟姉妹と共に教会を形成します。部分が集まって全体(教会)を形成しています。部分である個人個人は多様な価値観と世界観を持ちます。お酒を神が下さった恵みとしていただく人もいるし、酒の害を見てお酒を飲むことは罪だと思う人もいます。肉を食べても良いと考える人もいれば、肉は動物の生命を絶って食べるのだから、「殺すな」という戒律に反すると考える人もいます。どちらが間違っているのでもなく、どちらも正しい。
・しかし、教会において求められるのは人の正しさではなく、神の正しさです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(14:17)とパウロは言います。「肉を食べてもよいか」、「未受洗者に晩餐を配っても良いか」という問題は、「神はこの人をも受け入れられた」、「キリストは彼のためにも死なれた」という真理の前では些細な問題です。その些細な問題で教会を壊してはいけない。パウロはコリント教会への手紙の中で述べます「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない」(汽灰螢鵐10:23-24)。自分の正しさだけを主張していく時、教会は壊れるのです。
・教会の中には信仰の立場の違いが生じるのは当然です。主の晩餐式やバプテスマの理解も人により異なるでしょう。その時、異なる人を排除するではなく、多様性を認めて行くのが教会です。何故ならば、裁きをなさるのは神であって私たちではないからです。パウロは言います「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(14:10)。この世にあっては「違う者」は排他されます。しかしあなたがたは「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15)。教会でこの世と同じ裁きがされているとしたら、あなた方の信仰はどこにあるのかとパウロは問いかけます「もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(14:13)。お酒を飲んでもかまわない、全ては許されているのだから。しかし、あなたがお酒を飲むことで兄弟がつまずくのであれば、兄弟の前でお酒を飲むのを止めなさい。
・何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約します。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することです。キリストが来て下さった、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは根底から変えられます。私たちはキリストが私たちを赦してくれたのだから、他の人を赦します。たとえ誰かが私たちを憎み私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしません。キリストは彼のためにも死んで下さったのですから。病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではありません。貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけではありません。しかし、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会です。外部状況は変わらなくとも内側から新しい人間に変えられて行くのが、教会と言う場です。その教会にあって、「互いに争いあうのは止めなさい。自分と違うものを受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを作り上げるのではないことを知りなさい」とのパウロのメッセージこそ、クリスマスを迎えるこの時に聞くべき使信です。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-06-06 19:24:23 (37 ヒット)

1.ローマ13章を巡る議論

・今日、私たちはローマ13章を読むが、この箇所はキリスト者と政治について述べており、後世の社会に大きな影響を与えた。パウロは紀元58年頃、ローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めた。世の権威は神によって立てられたものであり、支配者は世の秩序を保つために神から権威を与えられているのだから、「上に立つ権威に従いなさい」と勧める。具体的にはローマ帝国とその秩序に従い、納めるべき税は納め、果たすべき義務は果たしなさいと語っている。この言葉の背景には、当時広がっていた自由に対する誤った考え方がある。福音はキリスト者の自由を説いたが、この自由を誤解する人々がいた。「自分たちは自由だ。だからもうこの世の秩序に従う必要はない」。ある人々は国家からの自由を主張して、税や使役の支払を拒否するようになった。パウロは「キリストが与えて下さった自由はそのようなものではない。あなたがたは市民としての義務を果たしなさい」と人々を戒めた。
・初代教会の人々は、パウロの使信を受け入れた。紀元64年、ネロによるキリスト教迫害が始まった時、人々はこの言葉に従い、抵抗することなく殉教して行った。迫害は250年間続いた。しかし、キリスト教はやがてローマ帝国を征服し、ローマの国教となって行く。支配側に立った時、教会はローマ13章の解釈を根本的に変えた。教会はローマ13章を用いて次のように教えた「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と。この考え方がその後も継承され、国家に対する絶対服従を教えるものとしてローマ13章が用いられて行った。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について従来の考え方を継承した。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていく。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権につき、官憲として服従を要求した時である。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法的政権として受け入れていく。その中で、改革派教会は政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきであることを主張し(バルメン宣言)、ナチスとの武力を含めた戦いを始める。
・私たちキリスト者は社会の中で生きる。その時、キリスト者は国家に対してどのようにあるべきか、また国家が戦争に参加するように求めた時、どうすべきかが問われる場合が出てくる。戦前の日本では「天皇とキリストはどちらが偉いか」と問われ、戦争を拒否する者は投獄された。現在のアメリカでは多くのキリスト者がアフガニスタンやイラクで兵士として徴兵され、死んで行く。国家に対してどのように向き合うのかは大事な問題だ。

2.ローマ13:1-7の語るもの

・一体、ローマ13章は国家に対する服従や抵抗を教えているのだろうか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれることが多い。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されることが多い。故に聖書は全体の文脈の中で読むべきだ。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えている。直前の12章では、パウロは、キリストに召されたものとして、世の人々と平和に暮らしなさいと勧めている「すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12:18-19)。直後の13章後半でも、パウロは「人々と争うな」と勧める。「愛は隣人に悪を行いません」(13:10)。
・このような文脈の中で、唐突にこの世の秩序維持のためであれば、戦争も含めた悪にも従いなさいという考えは出てこない。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えている。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従する。そのために貢や税や労役も世に支払う。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めるべきだ。だから、パウロは言う「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。ローマ13章を当時の時代背景の中で考えれば、パウロは「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否しなさい。しかし報復として殺すということであれば、それは受容しなさい」とローマの信徒に勧めているのだ。
・彼はピリピ教会にも同じ様な使信を送っている。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(ピリピ1:29)。悪には従わないが、秩序には従う。悪に従わないことによって不利益を受けるのであれば、その不利益をキリストのためと思って喜びなさいと言われている。ローマ12:20-21は言う。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。
・このように見てくると、ローマ13章でパウロは政府に対する絶対服従を教え、「キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加せよ」と教えているのではない。聖書は例え、国家によって命じられた戦争にあっても人を殺すことが正当であるとは言わない。また逆に、「戦争を起こすような政府は神の委託に反しているから、これに従うな」とも言わない。聖書が言うのは、「悪の権化と思えるローマ皇帝もあなたの隣人として愛しなさい」ということだ。当時のローマ皇帝はネロであった。そのネロを隣人として愛しなさい。「愛は隣人に悪を行わない」、「悪には善を持って立ち向かえ」と言う。「悪に対して悪を返すな。悪は神が裁いて下さる。その神の裁きに委ねよ」と彼は言っている。

3.あなたが隣人になりなさい

・今日の招詞にルカ10:36-37を選んだ。有名な「良きサマリヤ人の例え」の一節だ。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。 律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。この言葉は律法学者との問答の中で言われている。律法学者はイエスに問う「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」。イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と答えられた。律法学者は更に問う「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリヤ人の例え」を話され、強盗に襲われた旅人を助けたのは、同胞のユダヤ人ではなく、敵として嫌われていたサマリヤ人であったことを述べられ、あなたもこのサマリヤ人のように敵を愛しなさいといわれた。自分の最も嫌いな人、憎む人こそが神があなたに与えた隣人であり、「あなたがその人の隣人になりなさい」と教えられた。
・今日のローマ13章の言葉の文脈で読めば、ローマ皇帝がどのような悪逆な人であっても、例えネロ帝のような人であっても彼を愛し、彼のために祈り、彼を隣人にしなさいということだ。イエスは山上の説教の中で言われた「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ 5:46-48)。
・私たちは隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っている。しかし、聖書が教えるのは、隣人とは自分を憎む人、自分に危害を加える人だ。そういう人とは隣人になれないと私たちは抵抗するが、イエスはその私たちに問われる「徴税人や異邦人でさえ出来る事をして神は喜ばれるのか。あなたの信仰はどこにあるのだ」。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいる。私たちはその人たちが嫌いだ。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を愛することが神を愛することだ。「イエスが罪にまみれたあなたのために死んでくれたから、あなたは新しい命をもらったではないか。それなのに何故嫌いな人のために死ねないのか」、パウロはあのネロを隣人として愛せと書いたではないか。隣人が私たちに悪を働いても報復するな、裁くのは神であって私たちではない。私たちが為すべきことは、自分を憎む者のために祈ることだ。その祈りを通して、その人は隣人になっていく。「神の力を信じ通せ、殺されても信じ通せ」、そう命じられている。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-28 17:49:11 (42 ヒット)

1.愛し合いなさい

・今日、私たちは、一人の姉妹から信仰告白をいただき、新しい教会員としてお迎えしました。信仰告白の原稿は三週間前に姉妹からいただきました。原稿をお読みして、姉妹がご自分の過去を、良い点も悪い点も、ありのままに書かれている素直さに驚くと共に、イギリスの教会でローマ12章の言葉に接して、自分の罪を知り、過去を悔い改め、新しい生活に入って行かれたことを、感動を持って喜びました。神様が姉妹の人生に介入され、ここに新しい命が生まれたことを知ったからです。
・姉妹を信仰告白に導いたこのローマ12章を、今日は共に読んでいきます。ここに書かれているのは、「キリスト者はいかに生きるべきか」ということであり、その生き方を貫く縦糸としての「愛」です。パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っていました。その準備として、彼はローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の中で、彼は自分がたどった回心の歴史、キリストに出会って罪を知ったこと、悔い改めたこと、新しい生き方を示されたこと等を述べています。具体的には、1-8章で「神は私たちを救うためにキリストを遣わされた」と述べ、9-11章で「反逆したイスラエルさえ神は救おうとされている」と述べます。この神の側からの救いの申し出に対して、私たちはどう応答すべきかを述べたのが、12章以下の言葉です。
・12章の冒頭で彼は言います「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。神の救済に対する応答とは礼拝であり、礼拝とは自分の体=生活を神に捧げることだと彼は言います。礼拝とは主の日に教会に集まることだけではなく、生活の中で神を証ししていく、この世において神の救いを受けた者にふさわしく生きていく、それが礼拝だと彼は言います。具体的にはどのような生活なのか、パウロは9節以下で説明します。
・一言で言えば、それは「愛する」生活です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」には冠詞がついています。「ヘ・アガペー」、その愛、神によって示された愛です。イエスは最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗って言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。このイエスによって示された愛、相手の足を洗う愛、これがアガペーと呼ばれる愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには好きという感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛さないのです。この愛はエロスと呼ばれるものです。聖書はエロスの愛を否定しません。人間として当然な感情だからです。しかし、エロスの愛だけでは本当の人間としての交わりは不可能です。なぜなら、そこには味方と敵が生じるからです。好きな人は味方になり、嫌いな人は敵になります。そして敵がいる以上、そこに争いが生まれます。
・嫌いな人をも受け入れる愛、それがアガペーです。パウロは言います「教会に集まるお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人もいます。尊敬できない人も、好きになれない人もいます。そのような人でも「互いに愛し、尊敬をもって、相手を優れた者と思いなさい」と言われています。アガペーの愛とは好きという感情を超えた愛です。人間は嫌いな人を愛することは出来ません。だから、祈ることが求められています。パウロは言います「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:12)。
・パウロは続けます。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:17-18)。世の人々は競争を賞賛し、勝者をほめます。争わない者は弱者として嘲られるでしょう。弱者でよいではないかとパウロは言います。そして迫害されても復讐するなと言います。その言葉が19−21節です。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。良心で相手と戦い、相手の心に燃える炎を送れとパウロは言うのです。

2.敵を愛し、迫害するもののために祈れ

・今日の招詞として、マタイ5:43−44を選びました。次のような言葉です「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。有名な山上の説教の一節です。隣人を愛せとはレビ記19:18からの引用です。レビ記には敵を憎めとは書かれていません。しかし、多くの民族が住むパレスチナでは、隣人とは同じ民の人々、同朋のことであり、同朋でないものは敵でした。人々は敵から身を守るために高い城壁をめぐらした町の中に住み、城門の内側にいる人が隣人で、そうでない者は敵であり、敵を愛することは身の危険を意味しました。敵は愛する範囲には入りません。イエスもそれが人間の当然な感情だと知っておられました。しかし、イエスは言われます「あなたは私の弟子ではないか。私に従うと言ってくれたではないか。取税人でも異邦人でもすることをして十分だとすれば、あなたが私の弟子である意味は何処にあるのか」。
・イエスは言われます「あなたは私を通して父なる神に出会った。そして、神の子となった。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたも父の子として敵を愛せ」。先に見ましたように、古代において、イエスの時代において、敵を愛するのは危険でした。今日においても状況は変わりません。多くの人々は、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。そうしなければ、この世は暴力で支配されるだろう。悪を放置すれば、国の正義、国の秩序は守れない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はありませんし、武器を持たない軍隊はありません。その武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。相手は襲うかもしれない存在、即ち敵です。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、これが人間の論理であり、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。
・イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。悪は憎め、しかし、悪人は憎むな。何故なら、悪人もまた、父の子、あなたの兄弟であるから。人々はイエスを理解することが出来ません。マルクスは言いました「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い者の教えでした。彼は殴られたら殴り返すことが正義であると信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとしました。レーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会を作ろうとしましたが、それは化け物のような社会になりました。今日、純粋な共産制をとる国はほとんどありません。何故でしょうか。殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは信用出来ない存在であるからです。人間がお互いを信じられない時、平和は生まれません。右の頬を打たれたら左の頬を出す、それだけが争いを終らせる唯一の行為だと聖書は言います。敵を愛せよ、敵を愛することによって、敵は敵でなくなるのだと。パウロはこのイエスの言葉を受けてローマ書を書いています「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。

3.燃えさかる薪

・曽野綾子の小説に「燃えさかる薪」というのがあります。このローマ12章を題材にした小説です。シンガポールに暮らす主人公亜季子は、浮気を重ねる夫との生活に嫌気がさし、離婚を告げ、日本に住む新しい恋人との新生活に臨みます。そんなある日、前の夫が爆発事故のせいで大火傷を負ったとの知らせが届きます。今、彼の回りには、彼を愛し彼を世話する人は誰もいません。彼女は仕方なく、シンガポールに戻って夫の看病をし、彼が癒しの奇跡を求めて聖地ルルドに行きたいと言えば、付き添ってフランスへ行きます。ある機会に彼女はローマ12章の言葉に触れます。そして「自分を裏切り、ひどい目にあわせ、今は助ける人もなくなった前夫に、自分の生涯を捧げることが自分の生きる道である」ことを知り、新しい生活を断念してシンガポールに戻ります。
・この本についてのコメントを載せていた一人のクリスチャン女性のホームページがありました。彼女は二人の子供を持つ共働きの主婦です。彼女は言います「自分をひどい目にあわせた人に不幸が降りかかった時、『ざまあみろ』と心から思う人はどれくらいいるだろうか。私は『ざまあみろ』と思いながら、でもそんな風に思う自分を嫌悪するだろう。・・・自分にひどいことをした人に対して、同じことをするのは自分を同じレベルにまで引き下げることだ。・・・『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』ということを聞いた主人公は、人生の真理として『あるべき姿としての人間の行為をとらねばならぬこと』の本質を直感する。主人公だけでなく、私の目をも開いてくれた一節である」。
・「怒りにまかせて相手を呪う。うまくいかないことに対する他人の責任を追及する。そのときだけ気は晴れるが、本当の満足が得られない理由がわかったような気がした。夫との関係は何よりそうだ。『私ばかり大変』と口に出し、これ見よがしに溜息をつき、時には怒りに任せてののしる。・・・『すべきことをすることが本当の満足につながる』ということを実践してみようと、まず自分がいつも笑顔でいることにした。・・・朝、出勤前のバタバタの時、一番先に起きて、夫と自分の弁当を作り、子供たちに食事をさせ、歯を磨いてやり、着替えを手伝う。自分はトイレに行く暇も化粧をする暇もなく、保育園に送って行かなければといつも不満に思っていた。でも、笑顔でおはようと言い、普段通りに家事をしながら、『顔洗ってくるからお願い』とハブラシと着替えを置いておくと、彼が子供の世話をしてくれるようになった。復讐というのは、実は自分の優位性を自分が実感するためにすることではないか。傷つけられたプライドを修復しようとすることだ。私が夫にしてきたことはこの意味での復讐だった。でも『復讐したいという気持ち』を脇に置いてみたら、少しずつ関係がよくなってきた」。
・キリストにある平和はキリストの十字架により、もたらされました。私たちは十字架を通して、神が世界を支配し、人間の歴史に介入される方であることを知りました。知ったのであれば、私たちの安全、平和を神に委ねれば良いではないかと聖書は言います。私たちはこの世が理想郷でないことは知っています。敵を愛すると言うことは、違う価値観を持つ敵を受け入れることを前提にし、危険を伴うものです。それでもそうしようと思います。敵意の隔てを崩すのはそれしかないことを聖書は教え、世界史は教え、また生活上の体験も教えるからです。何よりも、私たちは神の護りの中にあり、必要な時には神が行為して下さることを信じるからです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2017-05-21 21:13:36 (58 ヒット)

1.キリストを受入れない同胞への悲しみ

・ローマ書を読んでおります。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロには忘れることの出来ない問題がありました。それは同胞であるユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていることでした。「キリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、それは滅びを意味しました。神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか、私の同胞は滅びに至るのか、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。ただ議論は9章から始まっていますので、折に触れて9-10章も見てみます。
・さて、ユダヤ人は神の民として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。ユダヤ人を通して、神は人類を救おうとされ、その約束はユダヤ人として生まれられたキリストの来臨により成就しました。クリスマスはそのことを祝う時です。しかし、ユダヤ人たちはこのキリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは神に捨てられたままで、永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。彼は言います「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)。神を知らない者は、自分の不幸や欠陥を悲しみます。しかし、神を知った者は、他人の不幸や欠陥に無関心ではいられないのです。
・このパウロの悲しみを私たちも持ちます。日本に福音が伝えられて100年以上も経ちますが、まだほとんどの日本人はキリストを受入れようともしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。日本では妻がクリスチャンになっても、夫は聖書の教えに無関心である場合が多くあります。教会に行き始めた子供たちも、大きくなって教会を離れることが多いのが現実です。また一度は洗礼を受けた人がやがて信仰から離れることもあります。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)と私たちは信じますが、それでは、キリストを信じることなしに死んでいくかも知れない、私たちの夫や妻、子供たち、あるいは教会を離れた人たちは滅びるしかないのでしょうか。パウロの歎きは私たちも真剣に考えるべき問題を迫ってきます。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは今、当時の世界の中心地ローマに行こうとして、その準備のためにローマ教会に手紙を書いています。異邦人に福音を伝えているパウロはユダヤ人であり、同じ働きをしているペテロもまたユダヤ人です。しかしユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、むしろ福音に敵対し、これを迫害しています。しかし、パウロは神の経綸を信じ、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心を福音に対して閉ざされたのか、そこまで考えて行った時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。すなわち神は「異邦人を先ず救うことを通してユダヤ人を救おうとされているのではないか」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身最初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人の方に向けました。使徒行伝13:46はパウロの言葉を伝えます「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」。もしユダヤ人がイエスを受け入れてこの福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤの民族宗教に留まり、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。しかし神の民イスラエルの反逆によって、キリスト教は民族を超え、今ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の背信が神の経綸の中で決定的な役割を果たしたのです。それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の下に帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。私たちもまた、たとえ家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神のご計画の中にあるのであり、いつの日家族もまた受け入れるという希望を持つことが許されているのです。

2.先に救われた者の役割

・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それはユダヤ人に妬みを起させることだとパウロは言います「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。あなたがたの救いを通してユダヤ人に妬みを起させ、彼らをもう一度神のもとに連れ帰ることこそ、あなた方の使命なのだとパウロはここで言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの経験では、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、あるいは子の生活の変化を見て親が信仰に入ることがあります。まさにそのような出来事が起こるとパウロは言います。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を根と接木という例えで説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。あなたがた異邦人の救いは、ユダヤ人という幹に野生のオリーブが接木されたようなものであり、接木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇る所は何もないとパウロは言います。しかし、異邦人は、神はユダヤ人を捨てられ、自分たちを選ばれたのだと誇りました。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリスト教徒を迫害していました。しかしキリスト教がローマの国教となってくると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになったのです。中世のヨーロッパでは至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、その反ユダヤ主義が現代にも継承され、やがてナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺を生んでいきます。キリスト教徒によるユダヤ人迫害の歴史は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことを示しています。アウシュヴィッツ強制収容所の忌まわしい出来事は、ある日突然起こったものではなく、2000年の歴史の中で起こったのです。
・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。パウロは語ります「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです・・・福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」(11:25-29)。「神の賜物と招きとは取り消されない」、神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない。同じように、神は今私たちの家族や友人の心を「一時的に」閉ざしておられる。しかし、閉ざされたものは開けられる、そこに私たちの希望があります。

3.私たちはローマ11章をどう読むのか

・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれてしまいました。パウロは指摘します「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(10:2-3)。人が行いを追い求める時、信仰は自己主張になりがちです。他の誰よりも熱心に祈り、戒めを守ったのだから、救われて当然だと考え、そのように行わない人を裁くようになります。しかし、それは自分の義であって、神の義ではありません。私たちが自分の力で救われようと努める時、私たちは傲慢になって、救いからもれるのです。ユダヤ人も福音を聞いたのに、これを拒絶しました。自分の正しさに固執したからです。
・先に言いましたように、パウロにとってのユダヤ人は、私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。私たちは信仰を与えられ、礼拝することを許されていますが、家族の中で信仰を持っているのは自分一人の方もいます。自分は救われるかも知れないが、家族はどうなるのか。存命中であればいつかはキリストに出会う望みを持つこともできますが、キリストを知らないまま死んでしまった家族はどうなるのか。彼らは、地獄に堕ちてしまうのか。教会から離れていった人たちは捨てられるのだろうか。しかしパウロは言います「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」(11:24)。
・神の知恵は人間の思いを超えます。誰が救われたとか、救われていないとかいうことは、神の領分であり、私たちは、ただ神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけでよいのです。パウロは賛美しました「神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう.いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」(11:33-35)。アウシュヴィッツは人間の罪により起こされましたが、神はその悲惨な出来事を通して世界中の関心をユダヤ人に集中させ、イスラエルの地に彼らが国を建てることを許されました。2000年間国を無くして放浪していた民族が、国を再建したことは歴史上ありえない出来事です。その出来事を神は起こされた、そうであればキリストを信じないで死んでいった家族も、今でも福音を拒む友の救いも神が為してくださることを私たちは信じ、そのために私たちを用いられるように祈っていくのです。


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