すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-10 17:29:15 (20 ヒット)

2019年2月17日聖書教育の学び(2018年1月1日説教、ルカ10:25-37、あなたが隣人になりなさい)

1.同胞を見捨てる祭司やレビ人

・今日はルカ10章の「良きサマリア人の譬え」について、共に考えて見ます。譬えはイエスと律法の専門家の問答から始まります。律法の専門家が「イエスを試そうとして」質問したとルカは語り始めます「律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」(10:25)。律法の専門家は聖書とその解釈に精通しています。彼は「永遠の命」を受けるためには何をすべきかを当然知っています。知っているのにあえて聞く、イエスを試すためです。イエスは慎重に答えられます「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。律法の専門家は答えます「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」。「主を愛しなさい」という言葉は申命記6:5にあり、「隣人を愛しなさい」という言葉はレビ記19:18にあります。彼は答えを知っているのです。ですからイエスは言われます「あなたは答えを知っている、あなたに欠けているのはその実行だ、正しい答えを知っているのであれば実行したらどうだ」と。
・イエスの反論にたじたじとなった律法の専門家は、「自分を正当化する」ために聞き直します「私の隣人とはだれですか」。この答えも彼は知っているはずです。隣人への愛を教えるレビ記は、隣人とは同胞のユダヤ人であることを前提にしています(レビ記19:17)。隣人を愛しなさいとは同胞たるユダヤ人を愛せよと言うのが律法の規定です。専門家は「自分はユダヤ教の教師として同胞のために尽くしている」と誇りたかったのです。そのうぬぼれた彼に、イエスは思いもしない例えを語られます。それが「良きサマリア人の例え」です。サマリア人はユダヤ人ではありません。隣人を愛するとは同胞を愛することなのか、イエスは問われています。
・イエスは語られます「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(10:30-31)。ある人とは当然ユダヤ人でしょう。ユダヤ人がエリコに下る道すがら追いはぎに襲われ、身包みはがれた上に半殺しにされて放置された。そこに祭司が通りかかった。祭司であれば神に仕える聖職者、自分を助けてくれると期待したのに、祭司はその人を見ると道の向こう側を通って行った。何故祭司は倒れている同胞を助けなかったのでしょうか。基本は係わり合いになるのを恐れたのでしょう。もう一つは律法違反を恐れたためと思われます。律法は祭司が遺体に触れて汚れることを禁じています(レビ記21:1「遺体に触れて身を汚してはならない」、民数記19:11「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」)。この男は死んでいるかもしれない、死んでいる男に触れたら律法を破ることになる、そのようなことはしたくないという思いが祭司の胸中にあったかもしれません。つまり、律法の形式的遵守が隣人愛の実行を妨げていた可能性が出てくるのです。
・次にレビ人が来ました。レビ人もまたエルサレム神殿に仕える下級祭司です。当時の神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていたと伝えられています。レビ人も倒れている同胞を見ると、よけて通り過ぎました。例えの登場人物として最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったのでしょう。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、祭儀を執り行っている。しかし、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るために仕えているのであり、民のためではない。それを神は喜ばれるだろうかと。

2.同胞でないのにユダヤ人を助けるサマリア人

・例えの三番目の登場人物がサマリア人です。イエスは異邦人であるサマリア人が、ユダヤ人である祭司とレビ人が見捨てた旅人を見て、「憐れに思い」、手を差し伸べたと言われます。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(10:33-35)。サマリア人は何故助けの手を差し伸べたのか。「憐れに思った」からです。憐れに思う=ギリシャ語スプラングニゾマイという言葉はスプランクノン(内臓)から来ています。「内臓が痛むほど動かされる」、異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、内臓が痛むほど、心が揺り動かされたためだとイエスは言われました。人に自分の境界線を越えて行為をもたらすもの、それが愛だとイエスは言われています。
・サマリア人は元々イスラエル民族の一部でしたが、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされた後、移民してきた異邦人と混血し、ユダヤ人からは「汚れた民族」として排斥されてきました。そのサマリア人が隣人になった。イエスは律法の専門家に尋ねられます「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は「誰が隣人ですか」と聞いてきました。彼にとって隣人とは同胞のユダヤ人です。しかし、今イエスは「隣人とは民族を超えるのではないか」と聞き直されます。律法の専門家はやむなく答えます「(隣人になったのは)その人を助けた人です」。彼はサマリア人とは答えず、その人と言います。彼は隣人になることが出来なかった、彼は自分の正しさだけを考え、「他者のために心を揺り動かされ」なかったためです。

3.この例えは私たちに何を語るのか

・私たちはこの物語から何を聞くのでしょうか。隣人愛の教訓を聞くのか。そうではありません。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしない」と言うことです。愛とは「誰が隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」(10:37)という言葉に従うのが愛です。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは、「心を揺り動かされる」思いです。
・今日の招詞にマルコ10:21を選びました。次のような言葉です「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい』」。イエスの所へ、ある裕福な青年が来て尋ねます「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この青年にイエスはそっけない対応をされます「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」。イエスは彼の問題を一目で見抜かれました。「彼は善良で、戒めを守り、経済的にも恵まれている。彼は善い事をすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。そこに彼の問題がある」と。
・イエスは彼を試すために言われます「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。金持ちの青年は答えます「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。イエスはその彼に驚くべきことを言われます。それが招詞の言葉です。「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになります。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきましたが、その中に「他者」という視点が欠けていた。彼は自分の救いのことだけを考えていた。だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられたのです。しかし彼はあまりにも多くを所有していましたので、イエスの言葉に従えませんでした。
・自分の力に頼って救いを求めた時、それは挫折します。救いは恵みであり、ただ受ければよいのです。幼子がなぜ「神の国を受け入れる者」と言われているのか、何も持たないから「受ける」しかないからです。イエスは言われました「人間に出来ることではないが神には出来る」、どのようにして神には出来るのか、神が万能だからか、そうではないでしょう。神の子が、「人間の弱さを自らの身に引き受けて」死なれたからです。十字架の上で砕かれたのは私たちの自我だったのです。自我を砕かれる、幼子のようにさせられていく時に、私たちは救われるのです。教会にしか出来ない業、それはイエスの十字架に、「心を揺り動かされて(スプラングニゾマイ)行う」業です。何をなすべきか、何が出来るのか、それぞれが自分の置かれた状況の中で考えるべき問題でしょう。ただ「隣人になることを通して関係性が生まれる」ことは事実です。助けられた旅人はもはやサマリア人は汚れているから交際しないとは言わないでしょう。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)、与えることによって、関係性が広がって行きます。聖書を私たちに語られた物語として聞く時に、それは私たちに行為を迫るのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-02-04 08:40:48 (17 ヒット)

2019年2月10日聖書教育の学び(2016年7月6日祈祷会、ルカ10:1−25、七十二人の派遣)

1.七十二人を派遣する

・イエスは七十二人の弟子を各地に派遣されたとルカは記す。十二人の派遣はルカ9:1-6、マルコ6:7-12、マタイ10:5-42も記すが、七十二人の派遣はルカのみである。
−ルカ10:1−3「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫が多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。』」
・イエスは「財布も袋も履物も持って行くな」と命じられる。財布は旅費、袋は下着などを入れる物、徒歩の長い旅に履物の予備は欠かせない。いずれも旅に欠かせないものだった。それをあえて「何も持つな、挨拶もするな」と指示される。
−ルカ10:4「『財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶するな。』」
・イエスは「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と命じられる。現代ユダヤ人の挨拶もシャロ−ム・アレ−へム(平和あれ)、返事はアレ−へム・シャロ−ムである。
−ルカ10:5−6「『どこかの家に入ったら、まず、「この家に平和があるように」と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻って来る。』」
・「泊まった家で出されたものを飲食しなさい」と命じられる。与えられたものを食べなさいと命じられる。
−ルカ10:7−9「『その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのが当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町へ入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、「神の国はあなたがたに近づいた」と言いなさい。』」
・「拒否する町があれば、衆目の集まる町の広場で堂々と足の埃を払い落し、町を立ち去れ」と命じられる。−ルカ10:10−12「『しかし、町へ入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。「足についたこの町の埃さえも払い落して、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ」と。言っておくが、かの日には、その町よりソドムの方が軽い罰で済む。』」
・七十二人、あるいは七十人(そのように読む写本もある)は聖なる数である。「十二人の派遣」の場合には「イエスが派遣された」が、「七十二人の派遣」の場合は「主は遣わされた」とルカは区別し、ここでは復活者イエスを指す「主」(ホ・キュリオス)を用いる。七十二人の派遣は生前のイエスによる派遣ではなく、復活後のイエスによる派遣命令と理解するべきであろう。イエス復活後の福音告知活動において、霊感を受けた預言者が、「アーメン、私はあなたたちに言う」という定式で、主イエスの言葉を語り、それが主イエスの言葉として共同体に伝承され、福音書に残されたものと思われる。復活されたイエスにより派遣されてパレスチナやシリアで福音を告知した最初期の巡回伝道者が、周囲から激しい反対と迫害を受けた状況を反映している記事と思われる。

2.悔い改めない町を叱る

・イエスは福音と救いを拒んだ町々の名前をあげて厳しく叱られた。それらの町々はガリラヤ湖北岸の三つの町コラジン、ベトサイダ、カフアルナウムで、イエスの弟子たちの福音伝道を拒んだゆえに、古に滅ぼされたティルスやシドンより罪が重いとされる。
−ルカ10:13−15「『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうに粗布をまとい、灰の中に座り悔い改めたに違いない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。』」
・イエスが派遣した伝道者を受け入れる者は、イエスを受け入れる者であり、イエスを受け入れる者は、神の救いを受け入れる。イエスが派遣した伝道者を拒む者はイエスを拒み、神まで拒むことになる。
−ルカ10:16「『あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒むのである。私を拒む者は、私を遣わされた方を拒むのである。』」
・イエスがガリラヤで「神の国」の福音を告知された時、民衆は熱狂的にイエスを迎えた(特にカファルナウムの人々はそうであった)。イエスご自身がこのような町全体を断罪するような言葉を投げつけられたとは想像しにくい。おそらく、復活者イエスが遣わされた使者を拒む町に対する、終末的な断罪を宣言する言葉として理解すべきであろう。イエス処刑後、ガリラヤの町々ではイエスの教えは異端視され、弟子たちの宣教は拒否された。「あなたがたを拒む者は、私を拒む」等の表現は、イエスが派遣された使者の使信を信じなかった町への断罪であることを示す。

3.七十二人、帰って来る

・派遣した七十二人の伝道者は帰着し、彼等は伝道の成功を喜び勇んで報告した。イエスは伝道隊の成功の喜びと派遣する際の心配を、天上から転落する悪魔や、蛇やさそりなど忌むべき存在を用いて象徴的に語った上で、成功に浮かれないよう彼等を戒めた。
−ルカ10:17−20「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと悪霊さえも私たちに屈服します。』イエスは言われた。『私はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を私はあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』」
・マルコ福音書補遺は復活されたイエスの言葉を伝えている。その内容はルカ10章のイエスの言葉と同じである。復活のイエスから聖霊を受けた弟子たちは悪霊に勝つ力を与えられた。
−マルコ16:14-18「その後、十一人が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』」

4.喜びにあふれる

・21節以降のイエスの言葉は、イエスの派遣命令を受けて伝道活動を行う弟子たちへのイエスの祝福であろう。
−ルカ10:21−22「そのとき、イエスは聖霊にあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ。これは御心に適うことでした。すべてのことは、父から私に任せられています。父のほかに子がどういう者であるか知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』
・今、弟子たちは、復活されたイエスに出会い、その栄光を拝し、そのイエスから遣わされて、復活者イエスがなされる力ある業を体験している。彼らは預言者たちによって約束され、王たちによって予表されていた終末の時代を体験している。「それはなんと幸いなことか」、と復活者イエスは言われる。
−ルカ10:23-24「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-27 19:14:08 (33 ヒット)

2019年2月3日聖書教育の学び(2016年5月25日祈祷会、ルカによる福音書7:1-23、イエスが行われた癒しのわざ)

1.百人隊長の僕を癒す

・ルカ7章には二つの癒しの物語が記されている。一つはローマ軍百人隊長の僕の癒しである。百人隊長の部下の癒しは、イエスの宣教の業が民族の壁を越え、異邦人にまで及んでいた典型的な例である。
−ルカ7:1−5「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カフアルナウムへ入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」
・百人隊長はイエスに面識がなく、長老を通してイエスの徳に触れていた。彼はユダヤ人が異教徒の家へ入るのをためらう習慣を尊重するほど、礼義正しい人であった。
−ルカ7:6−8「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は使いをやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、私の僕をいやしてください。私も権威の下に置かれている者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします。』」
・百人隊長の謙虚な信仰をイエスが称賛した時、隊長の部下の病は癒されていた。
−ルカ7:9−10「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。』使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」
・現実の世界には、どのように祈っても病が癒されず、願いがかなわない時もある。内村鑑三の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、彼は必死に祈るが、ルツは死に、内村の信仰は根底より揺るぐ。しかしやがて彼は新しい信仰に包まれる
−内村鑑三・ヤイロの娘より「私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、『タリタ・クミ(娘よ、起きなさい)』と言いたもう・・・わが娘は癒さるるも、癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神は我らの信なきを憐れみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りに応えたもう」(内村鑑三聖書注解全集十五巻ガリラヤの道三十六)。

2.やもめの息子を生き返らせる

・二番目のしるしはやもめの息子のよみがえりだ。イエスは一人息子の死を悲しむやもめを憐れまれた。−ルカ7:11−13「それから間もなく、イエスはカインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
・イエスはやもめの息子を死から蘇らせた。死人の蘇りを、目の当たりにした人々は、イエスの力に驚嘆した。
−ルカ7:14―17「そして、棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』と言われた。すると死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。イエスについてのこの話しは、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
・やもめの息子の蘇生は、一人息子を失ったやもめの姿が、イエスの目に憐れに映ったからだった。イエスが死人を蘇らせた奇跡は、ヤイロの娘の蘇り(マルコ5:21−43)と、ラザロの蘇り(ヨハネ11:1−44)と、このやもめの息子の三例だけである。しかし、現実の世界では、私たちがこのような奇跡を望んでもかなわない。その時にどうすべきなのか。願いがかなわず、愛する者を天に送った一人の女性の素晴らしい詩“天に一人を増しぬ”がある。
-セラ・ストック作、植村正久訳“天に一人を増しぬ”「家には一人を減じたり、楽しき団欒は破れたり、愛する顔いつもの席に見えぬぞ悲しき。さはれ天に一人を増しぬ。清められ、救はれ、全うせられし者一人を・・・家には一人を減じたり、門を入るにも死別の哀れにたえず、内に入れば空しき席を見るも涙なり。さはれ、はるか彼方に、我らの行くを待ちつつ、天に一人を増しぬ・・・地には一人を減じたり、その苦痛、悲哀、労働を分つべき一人を減じたり。旅人の日毎の十字架を担うべき一人を減じたり。さはれ、贖われし霊の冠をいただくべき者一人を天の家に増しぬ・・・主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を、我らすべてにも与えたまえ」

3.洗礼者ヨハネとイエス

・バプテスマのヨハネはヘロデにより幽閉されていたが、獄中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣した。
−ルカ7:18−20「ヨハネの弟子がこれらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは二人の弟子を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』二人はイエスのもとへ来て言った。『私たちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」とお尋ねするようにとのことです。』」
・ヨハネは、イエスが神の子として、最後の裁きを行うことを期待していた。しかし、現実のイエスは下層の民の間で地味な宣教活動を続けているに過ぎない。期待外れにしか見えないイエスに、ヨハネは疑問を感じた。ヨハネには真のイエスが理解できず、目に見えるイエスの姿につまずいた。だから、イエスは「私につまずかない人は幸いである」と答えたのである。
−ルカ7:21−23「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになられた。『行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。』」
・ヨハネはイエスにつまずいた。裁きの時に罪人は滅ぼされるべきなのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。「来るべき神の国は、裁きではなく、救いである」ことをヨハネは理解できなかった。後の人々もキリストにつまずいた。キリストが来ても何も変わらないからだ。生活はよくならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪はまん延している。本当にこの人はメシアなのか。このつまずきは私たちにもある。信じて洗礼を受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもない。私たちも心のどこかで疑っている。この人は本当にメシア=キリストなのだろうか。
・ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という研究で、イエスが来て何が変わったのかを、社会学的に分析して語った。
−ゲルト・タイセン、イエス運動の社会学から「社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」
・キリストにある愚者は、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちだ。この人たちによって福音が担われ、私たちにも伝承された。私たちも、人生のいろいろの場面で、弟子たちと同じ体験を通して、イエスに出会った。もう、元の生活には戻れない。今度は私たちが、苦しんでいる人、悩んでいる人を招く番だ。今度は私たちが「キリストにある愚者」になる番だ。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-23 08:52:41 (40 ヒット)

2019年1月27日聖書教育の学び(2003年2月9日説教、ルカ5:27−39、罪人の招き)

1.宴会と断食

・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従ってきなさい」と招かれた(ルカ5:27)。マタイ福音書によれば、このレビは福音書を書いた「マタイ」とされている(マタイ9:9)。レビは取税人であった。取税人はローマのために税を徴収し、しばしば過酷に取り立てた。そのため当時のユダヤ社会では、ローマの手先あるいは不正をするものとして嫌われ、また宗教的には汚れた者として社会から排除されていた。そのレビをイエスが弟子として招かれた。レビは招きにすぐに従った。今まで彼は、取税人であるために、社会からのけ者にされていた。その彼に預言者として評判の高いラビが声をかけてくれた、そして弟子として招いてくれた。レビは感激した。その感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために盛大な宴会を開いた。
・席上にはレビの同僚である取税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もいた。罪人とは律法を厳格に守らない者たちを指し、パリサイ派にとってこのような人々と交わることは身が汚れることであった。ましてや同じ食事の席につくことは考えられなかった。だから彼等はつぶやいた「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」(ルカ5:30)。「ラビ・イエス、あなたは律法の教師でありながら何故、律法を無視するのか、律法は取税人や罪人との交際を禁じているではないか」と彼等はイエスに問い質した。
・また彼らは言った「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」(ルカ5:33)。律法には断食という規定はないが、イエスの時代には週2回月曜日と木曜日に断食するのが慣習になっており、断食しない者は律法を守らない者と批判されるようになっていた。レビがイエスを招いた日はその断食日に当たっていたのだろう。「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とパリサイ人はイエスに迫った。
・それに対してイエスは答えられた「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」(ルカ5:34−35)。イエスは断食を否定されていない。しかし「今は婚礼の時ではないか、断食をするのは悲しみの時であり、今はその時ではない」と言われている。このすれ違いは「神の国」に対する理解の違いから来る。パリサイ人にとって神の国(天国)に入る人は律法を守っている人々であった。だから彼等は必死になって律法を守ろうとした。イエスにとって神の国に入る人は、イエスの招きに応える人であった。取税人としてこれまで疎外されてきたレビが、悔改めてイエスの招きに応じた。「今日はそのレビが救われた祝宴の日ではないか、祝宴の日に何故断食するのか」とイエスは言われている。
・このすれ違いは2000年前だけではなく今日でもある。ある人々は「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考える。酒の害、煙草の害を考えると、神の宮とされた自分の体を損なうようなお酒や煙草は止めるべきだという意味で彼等は正しい。しかし自分が禁酒禁煙の人は他のクリスチャンがお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えられない。何時の間にか酒と煙草が信仰の要、律法になってしまう。そして言う「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「断食日に宴会をするとは何事ですか、それでもラビですか」とイエスに詰め寄ったパリサイ人と同じだ。
・ここに律法の持つ危険性がある。律法の中心の一つは「安息日を守る」ことだ。この安息日規定は出エジプトの出来事から来ている。エジプトの地において、ユダヤ人は奴隷として休みなく働かされていた。そのユダヤ人が解放されて自由になり、安息日が恵みの日として与えられた。今日の招詞は出エジプト記20:8−10で、安息日を定めた十戒の一節である。「安息日を覚えてこれを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべての業をせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんの業をもしてはならない。あなたもあなたの息子、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。」
・注意して欲しいのは後半の10節である。安息の時、休息の時をあなただけでなく息子や娘や奴隷や家畜にも与えよと書いてある。安息日は仕事を休む日、喜びと楽しみの日、恵みの日だった。しかし、人間はこの恵みを掟とする事により呪いに変えてしまう。律法が与えられてしばらくすると、安息日は「命は賭けても守るべき」掟とされ、守らない者は死刑とされた(出エジプト記31:14)。イエスが否定されたのは律法そのものではない。恵みとして与えられた律法をいつのまにか「守らないと裁かれる」と変えてしまう人間の罪であった。断食にしてもそうだ。悲しみの時に断食をするのは良いことだ。しかし断食をしないと律法を破ったと言い、律法を破れば滅びると言い始めた時、断食は悪しきものになる。

2.新しい教えと旧い教え

・イエスはこのようなパリサイ人に教えるために二つの例えを話された。一つ目は「新しい布と旧い着物」の例えである。新しい布とは織ったばかりの、まだ水に通していないため縮んでいない布である。その新しい布を旧い着物に継ぐと、洗った時に新しい布は大きく縮んで旧い布を引っ張り、裂け目を大きくしてしまう。新しい着物から布をとって旧い着物に継ぐのが愚かなことをあなたたちは知っているのに、何故、何時までも旧い慣習の中で不自由な生活を送っているのかとイエスは言われている。
・二番目の例えは「新しいぶどう酒と旧い皮袋」の例えだ。パレスチナでは、ぶどう酒は山羊や羊の皮をはいで作った皮袋に入れて保存される。新しい皮袋は柔軟性があり伸縮性もあるが、旧くなると弾力性が無くなってくる。他方、新しいぶどう酒は発酵力が強く物理的に膨張しようとするから、弾力性をなくした旧い皮袋に入れると破裂してしまい、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまう。だから新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきであることはみんなが知っていた。新しい内容には新しい形式が相応しい。「パリサイ人たちよ、モーセが教えたのは神を愛することは人を愛するであるということではないか。律法とは罪人を排斥することではなく、受け入れることではないのか。取税人や罪人もまた神の子であり、彼らが悔改めて神の元に帰ってくることは喜ばしいことではないのか。今、レビが神の元に帰ってきたことはお祝いするのに価するのではないか。共に罪人の悔改めを喜び、祝宴の時を持とうではないか」とイエスはパリサイ人に呼びかけられた。
・パリサイ人はこのイエスの呼びかけに応じなかった。パリサイ人は取税人や罪人と交わるイエスを許せなかった。この不寛容がイエスを十字架にかけた。その十字架を仰ぐ私たちも今、パリサイ人と同じ過ちを犯しているかもしれない。ある教会で次のような出来事があった。その教会は宣教師によって立てられた保守的なバプテスト教会で「浸礼でないバプテスマは一切認めない」としていた。ある時、その教会に滴礼を受けた他教派の人が転会を求めた。教会では「滴礼はバプテスマとして認められないから、再バプテスマを受けて欲しい」と言ったところ、転会希望者は抗議した「確かにイエスも弟子たちもヨルダン川に全身を浸してバプテスマを受けた。浸礼がバプテスマの正しい形であると思う。しかし同時に他の教派では滴礼をバプテスマの形と認め、あなたたちも他教派の人々を信仰者として認めているではないか。また、私にとって、滴礼であれバプテスマを受けたということは、新しい人生が始まった大切な出来事だ。今、再バプテスマを受けることは前に受けたバプテスマを否定することになり、納得できない」。この教会はあくまでも再バプテスマを求め、転会希望者は教会を去って行った。これは是非の判断が難しい事例だと思う。全身を水に浸す浸礼を行うという教派の伝統を大事にすることは大切だ。同時に教派の伝統を重んじるあまり、同意しない人を排除しているのも事実だ。ルカ5章を基準に考えた場合、その教会は、断食をしない者は異端者だと決め付けたパリサイ人に近いのではないかと思う。

3.律法と福音

・律法と福音はどう違うのだろうか。律法は人がどう生きるべきかの指針を示す。それ自体は正しい。しかし、それはやがて掟となり、掟である以上、破った者は裁かれる。従って人々は裁かれまいとして掟を守ることに汲々とし、守らない者は否定する。律法の行き着くところは他者の排除だ。他方、福音は赦しであり、赦されたから感謝して行為する。従って行為そのものが目的化しないため、行為しないものを裁かずに受け入れることが出来る。福音の行き着くところは他者の受け入れだ。そして教会は律法ではなく福音を宣べ伝える、従って教会の本質は自分と異なる他者の排除ではなく受け入れだ。もし教会の中に審きがあれば、即ち「あなたは要らない」という言葉があれば、そこは教会ではなくなる。
・イエスはあらゆる偏見を超えて、取税人や罪人たちに声をかけられ、彼らを受け入れられた。そこから新しい食卓の交わり、教会が起こってきた。初代教会はユダヤ教正統派の目から見れば罪人の集団だった。イエスと弟子たちはパリサイ人たちに「見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と罵られている(ルカ7:34)。イエスによって建てられた最初の教会が罪人の集団であるとすれば、今日の教会も罪人の集団であるべきだ。もし、私たちの教会が清くないと思われる人を排除し、教派の伝統を重んじない人を非難するとしたら、私たちも新しいぶどう酒を旧い皮袋に入れているのかも知れない。教会は自分が赦された罪人であることを知るから、他者をも裁かずに招くところだ。ルカ5章はそれを私たちに示している。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-01-20 18:36:35 (34 ヒット)

2019年1月27日聖書教育の学び(2012年5月20日説教、マルコ2:13-17、罪人を招くために来られたイエス)

1.徴税人と食事するイエスを批判する人々

・マルコ福音書を読んでいます。イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)とその宣教の業を始められました。イエスが伝えたのは福音、すなわち「父なる神はあなた方を救うために私を遣わされた」という喜びの訪れです。しかし当時の宗教指導者、パリサイ派や律法学者たちは、裁きを伝えました「神の定めた律法を守らない者は裁かれる。だから律法を守りなさい」と。福音を伝えるイエスは律法を強調するパリサイ派の人々と衝突されます。それが今日読みますマルコ2章13節からの記事です。
・イエスはガリラヤ湖畔、カペナウムの収税所にいたレビに「私に従いなさい」と招かれます(2:14)。レビは徴税人です。徴税人は支配者ローマのために税金を集める仕事をしていました。彼らは不浄な異邦人の手先として働く者であるゆえに汚れた者とされ、またしばしば不正の徴収を行なっていたため、人々から憎まれていました。イエスはその徴税人レビに、私の弟子となりなさいと招かれました。これは通常はありえないことです。ユダヤ教の教師は罪人とされた徴税人とは交際しない、ましてや弟子に招くことなどありえない。それなのにイエスはレビを招かれました。レビは招きに感動してイエスに従います。彼は徴税人であるために、社会から疎外され、差別されていました。その彼に評判の高いラビが声をかけ、弟子として招いてくれました。レビはその感謝の気持ちを示したいと願い、イエスと弟子たちのために食事会を催しました。
・席上にはレビの同僚である徴税人も招かれ、また「罪人」と言われる人々もそこにいました。ここで言う罪人とは犯罪者ではなく、律法を厳格に守らない、あるいは守れない人々、宗教的な罪人です。字が読めず律法を守らない人々は罪人と断罪され、食肉業や皮なめし職人、動物を飼う羊飼い等は不浄、汚れた者とされていました。また婦人病やらい病を患う人々も汚れているとされ、交わりから除外されていました。パリサイ派の人々にとって罪人と交わることは自身が汚れることであり、同じ食事の席につくことは考えられませんでした。だから彼等はつぶやきます「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(2:16)。パリサイ=分離する者、律法を厳守し、自らの清さを守るために汚れた者から分離する故にそう呼ばれ、自らは「敬虔な者たち」と自称していました。
・その彼らにイエスは言われました「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」、当たり前の言葉と思われますが、文脈を考慮すれば、かなり辛辣な言葉です。「病人」とはイエスの周りに来た徴税人や罪人を指し、「丈夫な人たち」とはそのイエスの交友を批判した律法学者たちを指します。それに続く言葉はもっと辛辣です「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。イエスは「神の国に招かれるのはあなた方ではなく、あなた方が批判するこの人たちだ」と言われているのです。この言葉は罪人として排斥されていた人々にはまさに福音であると同時に、自分を正しいとする人々への厳しい批判の言葉になっています。

2.自分は正しいとする人はそうでない人を排斥する

・イエスは「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。このことの意味をもう少し考えてみます。自らを正しいとする人は律法を守らない、あるいは守れない人を排斥することによって、自分の正しさを維持しようとします。例えば現代のクリスチャンのある人々は「クリスチャンたる者は禁酒禁煙であるべきだ」と考えます。酒の害、煙草の害を考えると、自分の体を損なうお酒や煙草は控えるべきだという彼等の主張にも一理はあります。しかし自分が禁酒禁煙の人は他の人々がお酒を飲み、煙草を吸うことに耐えらず、何時の間にか禁酒禁煙が信仰の中心、律法になってしまいます。日本にキリスト教を伝えた宣教師の多くは禁酒禁煙のアメリカの伝統の中で育って来ました。だから彼らは言います「あなたは酒を飲み、煙草を吸う。それでもクリスチャンですか」。これは「どうして徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか」とイエスに詰め寄ったパリサイ人と同じです。イエスはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えて「飲んで楽しみなさい」と言われました(ヨハネ2:11)。またレビたちの会食の場でもぶどう酒が振舞われ、イエスもそれを飲んで楽しまれたと思われます。それなのにイエスに従おうとする人々が「お酒を飲む人々は地獄に堕ちます」と主張するのはおかしい、しかしそれをおかしいと思わないのが律法主義の怖さです。
・その怖さは安息日規定にも現れます。安息日規定は出エジプト記から来ています。エジプトの地において、イスラエルの人々は奴隷とされ、休みなく働かされていました。そのイスラエル人が神の恵みによりエジプトから解放され、安息日が恵みの日として与えられました。出エジプト記は記します「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(20:8−10)。注目すべきは、安息の時、休息の時を、あなただけでなく息子や娘や奴隷や家畜にも与えよと書いてあることです。安息日は仕事を休む日、喜びと楽しみの日、恵みの日でした。しかし、律法が与えられて暫くしますと、安息日は「命は賭けても守るべき」掟とされ、守らない者は死刑とする規定が登場してきます(出エジプト記31:14)。イエスが否定されたのは律法そのものではありません。恵みとして与えられた律法が、いつのまにか「守らない者は裁かれる」と変えられてしまう、その人間の罪をイエスは指摘されたのです。

3.律法ではなく福音を

・今日の招詞としてルカ18:14を選びました。次のような言葉です「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。ルカ18章9節から「パリサイ派の人と徴税人の例え」が始まります。イエスが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して語られた例えです(18:9)。イエスは語られます「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(18:10)。パリサイ人は祈りました「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(18:11)。何と傲慢な祈りと私たちは思いますが、当時のパリサイ人にとっては当たり前の祈りでした。ラビ・ユダはこのように祈ったそうです「主は讃えられよ、彼は私を異教徒に造られなかった、すべての異教徒は神の前に無であるから。主は讃えられよ、彼は私を女に造られなかった、女は律法を満たす義務をもたないから。主は讃えられよ、彼は私を無教養な者に造られなかった、無教養な者は罪を避ける用心をしないから」。自分を正しいとする者は正しくない人を必要とします。ラビ・ユダにはそれが異邦人や女性や文字が読めない人でした。例えのパリサイ人が徴税人を引き合いにして祈ったことはおかしくはないのです。
・他方徴税人は目を天に上げることもせず、胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈ります(18:13)。彼は自分の中に正しさを見いだせず、罪を認めています。罪から救われたいと願っていますが、彼にはそうする力はありません。徴税人を辞めることも出来ません。辞めれば生活が出来ないからです。その徴税人をイエスは評価されます。イエスは「義とされて家に帰ったのはこの人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われます(18:14)。当時の常識からすれば、救われるべきは義人パリサイ人であり、罪人の徴税人はではありません。しかし、イエスは救われるのは罪人の方であり、義人の方ではない、驚くべきことをイエスはここに言われています。これが福音です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人」なのです。
・レビによって代表される徴税人や罪人たちは自分自身を正しいとは露ほども考えていませんでした。自分自身の罪を知りながら、しかし自分の力ではどうにもできず、苦しんでいました。イエスはそれゆえにレビを弟子に招かれたのです。この事について、ある牧師は次のように述べます「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである・・・レビは自分が医者を必要としている病人だなどと思ってもいなかった。主イエスが必要だと思ってもいなかった。しかし主イエスはそう思われた。だからレビをお召しになった」(吉村和雄、説教黙想アレテイア、NO59,2008年、p57)。この招きによってレビの人生は変えられていきます。
・レビは、イエスがレビに心を開き、彼に使命をお与えになったことを通して救われて行きました。この様な行動であれば、私たちも出来るのではないでしょうか。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(2:17)。今日の礼拝に来ているみなさんは、ある意味で「丈夫な人」であり、礼拝から心の糧をいただいて生かされています。皆さんには医者はいりません。しかし医者を必要とする人がいます。「心身の病のために長く礼拝を休んでいる人々」を私たちは知っています。「心にわだかまりを抱え、礼拝に来ることのできなくなった人々」の顔を私たちは思い浮かべます。「礼拝に来る必要を認めなくなった人々」が私たちの周りにもおられます。その人々こそ、意識する、しないにかかわらず、手当を待っている人々です。彼らこそ私たちのレビです。そして私たちがレビを訪問し、電話をかけ、週報を届ける行為を行えば、マルコ2章の物語が、今ここに再現されるのです。
・パリサイ人は徴税人や罪人と交わるイエスを許せませんでした。この不寛容がイエスを十字架にかけました。その十字架を仰ぐ私たちはもうパリサイ人と同じ過ちを犯してはいけません。私たちは徴税人レビのように社会から後ろ指を指されることはありません。宴会に集った罪人たちのように社会から疎外されているわけではありません。もしかしたら私たち自分を、「社会人として、家族人として、やましいところはない」と考えているのかもしれません。しかしその時、私たちもまたパリサイ人の罠に陥り、救いを求めて教会に来た人々を排除しているのかもしれません。「イエスがレビを弟子として召されたのは、レビが弟子としてふさわしかったからではなかった。ただレビが医者を必要としていた病人であったからである」、レビはイエスを必要としていた、だからイエスはレビを招いて下さった。私たちもイエスを必要としていた、だからイエスは私たちを招いて下さった。その招きに答えて、私たちもまたイエスに従う行動が求められていることを覚えたいと思います。


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