すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

投稿者 : admin 投稿日時: 2019-08-18 17:53:14 (14 ヒット)

2019年8月18日説教(創世記44:18-34、神の摂理に導かれて)

1. 創世記42章、43章の振り返り

・ヨセフ物語を読んでいます。ヨセフは「7年間の飢饉の時が来るので、豊作の今、飢饉に備えて穀物を備蓄する」ことをファラオに進言し、穀物備蓄の責任者となります。神の夢の啓示の通り、飢饉が世界各地で発生し、多くの国の人々が穀物を買うためにエジプトを目指します。カナン地方でも食糧が不足し、ヤコブは子供たちにエジプトに行って穀物を購入してくるように命じますが、末息子のベニヤミンだけは同行させません(42:1-3)。ヨセフがいない今、ベニヤミンが愛妻ラケルの残した、ただ一人の子でした。エジプトに下った兄弟たちは、ヨセフが宰相になったとは知らずに彼に拝謁します。ヨセフがかつて見た夢(37:7兄たちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏す)が、このような形で実現します。
・兄弟たちと面談したヨセフは、彼らに犯した罪を認めさせるために無理難題を押し付けます「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。お前たちの言い分が確かめられたら、殺しはしない」(42:19-20)。ここにいたって兄弟たちも過去に犯した罪を認めて悔います。ユダは語ります「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めた時、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった」(42:21)。
・兄弟たちは次男シメオンを人質として残してカナンに帰り、父ヤコブに全てを報告します。ヤコブは末息子ベニヤミンを連れてエジプトに戻らなければシメオンは解放されないことを聞き、子供たちを呪いますが(42:36)、ベニヤミンを連れてエジプトに戻ることは拒絶します(42:38)。飢饉は激しくなり、買い求めた食糧もなくなり、ヤコブの息子たちは再度エジプトに食糧を求めて、行くことになりました(43:1-2)。しかし、エジプトに行くためには末子のベニヤミンを連れて行かなければならない。ユダは渋る父に、「ベニヤミンを命にかけて守るから一緒に行かせて欲しい」との説得し(43:3-9)、ヤコブも折れます。兄弟たちはベニヤミンを連れて再びエジプトに下り、ヨセフと再会します(43:15-16)。ヨセフは兄弟たちを食事に招き、弟ベニヤミンと20年ぶりに会い、感極まって密かに泣きます(43:26-30)。捕えられていたシメオンも解放され、兄弟たちはヨセフと食卓につきますが、ヨセフはまだ自分の身分を証ししません。

2.44章の物語が始まる

・こうして今日の聖書個所44章の物語が始まります。ヨセフは兄弟たちに食糧を売ってカナンに戻す時、ベニヤミンの袋に銀の杯を忍ばせ、兄弟たちが戻ってくるように企みます(44:1-2)。ヨセフは銀杯を盗んだ罪で兄弟たちを告発します。「お前たちはなぜこのような忘恩の行為をしたのか」と問い詰めるヨセフにユダは答えます「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります」(44:16)。兄弟たちが、かつてヨセフを捨てたように、今回もベニヤミンを捨てて自分たちの安全を図ろうとするかを見るための試みでした。しかしユダは「この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう」と弟の助命を訴えます(44:33-34)。
・ユダはかってヨセフを妬んでエジプトに売り払った張本人でした(37:26-27)。そのユダが今は弟ベニヤミンの助命のために自分の命を捨てようとしています。ヨセフは兄弟たちが本心で罪を悔改め、新しくされたことを知り、兄弟たちに自分の身を打ち明けます「私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」(45:3)。人間は心の底に人に言えない、知られたくない一隅を持っています。悔改めとはその罪を告白し、赦しを乞うことです。ユダはかつてヨセフを奴隷として売った張本人ですが、今は弟ベニヤミンのために自分を捨てるものにされました。このユダの回心がヨセフの告白を生みます「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです」(45:4-5)。ヨセフは決定的な言葉を告白します「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく神です」(45:8)。

3.悔改めのもたらす和解

・ヨセフの人生は神の摂理に導かれた、生かされた生でした。私たちもまた神に導かれて、人生の転換点を迎えます。私もある時、ヨセフと同じ導きを経験しました。私の場合はエレミヤ29章との出会いがその契機でした。そのエレミヤ29:11を今日の招詞に選びました。「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。エレミヤ29章は、戦争に敗れ、遠いバビロンに捕囚になっている人々へ書かれた手紙です。捕囚となって異国で暮らす人々に、エレミヤは書きます「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように」(エレミヤ29:5-6)。手紙は続きます「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレミヤ29:10)。
・この手紙は驚くべき内容を伝えています。捕囚が70年続くということは、手紙の受信人たちは生きて故郷に帰ることはできないとの宣言です。「自分たちの置かれた状況を冷静に見つめよ。すぐには帰れないから、その地で日常生活を営め。絶望に陥って、与えられた仕事を着実に果たしえないようでは、正しく神を信じているとは言えない。しかしまた捕囚は永遠に続くものではない。時が終れば、子供たちは祖国に帰ることができる。故にその地で子を設け、子供たちにあなた方の信仰を伝えよ」と。
・私がこの言葉を自分への言葉と受取ったのは、20数年前、40代後半の時でした。私は大学を卒業して東京に本社を持つ生命保険会社に入社し、当時は本社財務部で仕事をしており、部下も20人いました。しかし50歳を前に突然、福岡支社駐在課長への転勤を言い渡されました。本社課長から支社駐在への転任は異例で、明らかな左遷でした。家族は子供たちの学校の関係で動けないため、単身で福岡に転任しました。教会は福岡バプテスト教会に行き始めましたがなじめず、籍は中野教会に置いたままでした。また東京バプテスト神学校の学びは通信で継続し、同時に九州バプテスト神学校でも学びを始めました。当時の私は「島流しにされた、早く東京に戻りたい」と毎日思っていました。
・その時、福岡バプテスト教会での教会学校の学びを通して、エレミヤ29章に出会いました。東京に帰ることのみ考えて、仕事や神学の学びに上の空だった私に対して、「その地に根を下ろせ、あなたを訓練するために福岡に送った」と主は言われました。福岡での生活が変わり始めました。福岡での最初の1年間は地獄でしたが、エレミヤ29章に出会った残りの1年間は充実した時でした。2年の時が過ぎ、会社がリストラ策として希望退職者を募り始めました。その時まで家族の生活や子供の学資を考えれば牧師になることは考えられませんでした。しかし、割増退職金によって、子供の学資と当面の生活費の目処がつき、会社を辞め、東京神学大学に学士入学し、二年後に牧師として当教会に赴任しました。災いとしか思えなかった福岡への転任と会社の業績悪化が牧師になる道を開き、エレミヤ29章がその道を導きました。
・ヨセフ物語において、神は人間の罪を用いてその聖なる目的を遂げられます。兄たちの憎しみと嫉妬とを用いてヨセフをエジプトに導き、主人の妻の偽りの告発という罪を用いてヨセフを王の牢獄に導き、王宮の人びとと知り合う機会が与えられます。そして時が満ちて彼はエジプトの宰相になり、食糧管理を行う者となり、兄弟たちを、やがては一族を養うものとなります。不思議な神の経綸です。神は私たちを「必要とされる場」に導かれます。
・ヨセフはカナンでは父の威を借りた傲慢な男で、必要とはされていませんでした。それ故、神はヨセフをエジプトに導き、ヨセフの知恵を通して全国民を、そしてヤコブ一族を養うものとされました。私も東京では神学の学びは不十分で、必要とされる場に送られるには準備が必要でした。だから神は私を福岡に送り、教会学校の学びを通して啓示を与えて下さり、当時牧師を必要とした篠崎教会に送ってくださいました。人は「必要とされる場」で働くときに最大の幸せを与えられます。今後のことはわかりませんが「自分を必要とする場」を神が示してくださいましたら、それに従いたいと願っています。神の導きは、途上では見えにくい。時が満ちて初めてそれが「導き」であることがわかります。しかし、途上であっても御言葉を聞き続けて行く時、新しい道が開かれて行きます。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-08-13 13:18:51 (17 ヒット)

2019年8月18日聖書教育の学び(創世記42章〜44章)

1.兄弟たちがエジプトに下る

・ヨセフの預言した飢饉は世界各地に波及していき、多くの国から人々が穀物を買うためにエジプトを目指した。カナン地方でも食料が不足し、ヤコブは子供たちにエジプトに行って穀物を購入してくるように命じた。
―創世記42:1-3「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに、『どうしてお前たちは顔を見合わせてばかりいるのだ』と言い、更に、『聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか』と言った。そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。」
・しかしベニヤミンは同行させなかった。ヨセフがいない今、ベニヤミンだけが愛妻ラケルの残した、ただ一人の子であった。エジプトに下った兄弟たちはヨセフが宰相になったとは知らずに彼に拝謁する。ヨセフが見た夢が、このような形で実現した。
―創世記37:5-7「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った。『聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました』」。
・ヨセフはすぐに兄弟たちがわかったが、彼らに犯した罪を認めさせるために無理難題を押し付ける。
―創世記42:9-16「ヨセフは彼らに言った。『お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。』彼らは答えた。『いいえ、御主君様。僕どもは食糧を買いに来ただけでございます。私どもは皆、ある男の息子で、正直な人間でございます。僕どもは決して回し者などではありません・・・僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。』すると、ヨセフは言った。『・・・お前たちを試すことにする。ファラオの命にかけて言う。いちばん末の弟を、ここに来させよ。それまでは、お前たちをここから出すわけにはいかぬ。お前たちのうち、だれか一人を行かせて、弟を連れて来い。それまでは、お前たちを監禁し、お前たちの言うことが本当かどうか試す。もしその通りでなかったら、ファラオの命にかけて言う。お前たちは間違いなく回し者だ』」。
・次にヨセフは兄弟たちに新しい条件を提示する。それは兄弟たちが罪を認めるかどうかの試みだ。
―創世記42:19-20「お前たちが本当に正直な人間だというのなら、兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない」。
・ここにいたって兄弟たちも過去に犯した罪を認めて悔いる。苦境が人間を悔悟に導いている。
―創世記42:21「互いに言った。『ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めた時、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった』」。
・これを聞いてヨセフは隠れて泣いた。しかし、あえて試みを続ける。ヨセフが行った行為は報復ではない。報復は神の業であり、ヨセフの行為は兄弟たちを悔改めに導くために試みの業を続ける。
―創世記42:24「ヨセフは彼らから遠ざかって泣いた。それからまた戻って来て、話をしたうえでシメオンを選び出し、彼らの見ている前で縛り上げた」。

2.カナンに帰って

・兄弟たちは次男シメオンを残して、カナンに帰った。彼等は父ヤコブに全てを報告した。ヤコブは末息子を連れてエジプトに戻らなければシメオンは解放されないことを聞き、子供たちを呪う。
―創世記42:36「父ヤコブは息子たちに言った。『お前たちは、私から次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんな私を苦しめることばかりだ』」。
・そしてベニヤミンを連れてエジプトに戻ることを拒絶する。
―創世記42:38「しかし、ヤコブは言った。『いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ』」。
・人はただ目に見える現実を見つめて嘆く。その出来事が祝福の一過程であることは後にならなければわからない。苦難は祝福への途上なのだ。それを知る者だけが苦難を耐えることが出来る。
―創世記45:26-28「(兄弟たちは)直ちに(父ヤコブ)に報告した。『ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。』父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。彼らはヨセフが話した通りのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。イスラエルは言った。『よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。私は行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい』」。
・「神ともにいませば」全ては祝福される。たとえ、牢獄にあってもそうだ。創世記はそれを語り続けている。
―創世記39:23「獄屋番は彼の手に委ねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」。

3.物語の意味するもの〜罪の赦しと贖罪をどう考えるか

・兄弟たちはヨセフがエジプトの宰相になったことを知らない。そのために自分たちに降りかかる苦難が、20年前に犯した罪(弟ヨセフを奴隷としてエジプトに売ったこと)の報いと考え始めている。旧約聖書では罪の赦しの前提は悔い改めであり、悔い改めは罪の認識から生まれるとする。そして悔い改めた者は赦される。
−サムエル記下12:7-13「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。あなたに油を注いでイスラエルの王としたのは私である・・・なぜ主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ』・・・ダビデはナタンに言った。『私は主に罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。
・しかし罪は赦されても、その代価は支払わなければいけない。ダビデとバテシバの間に生まれた子は死ぬ。
−サムエル記下12:14-18「『このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。』・・・主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした・・・七日目にその子は死んだ」。
・旧約の伝統に立つ初代教会は、イエスの死を贖罪、罪を贖うための代償死、あるいは身代わりの死と理解した。そしてイエスの死により神との和解が成立して、罪ある人が救われる道が開けたと語る。これが贖罪論である。
−1コリント15:3「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと(です)」。
−ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。
・近年この贖罪論に対する批判が高まっている。贖罪論が「犠牲の死」を賛美する論理になっているとの批判だ。高橋哲哉はキリスト教の贖罪論の中に「靖国」や「沖縄」、「福島」等の、犠牲を讃えることにより体制を維持しようとする「犠牲のシステム」の根源があると繰り返し語る(高橋哲哉「犠牲のシステム、福島・沖縄」、「3.11以後とキリスト教」他)。
-高橋哲哉・犠牲の論理とキリスト教への問い(2015/5関西学院大学での講演から)「犠牲の論理がキリスト教の歴史の中にあり、死を神の目的達成のために必要なものであったとすることにより、原爆投下という決断や、戦争終結を遅らせた日本政府の責任が曖昧にされる。イエスの死を人間の贖罪のために必要なものであったとして特権化するキリスト教の贖罪論は、「死をもってしか贖うことのできない罪がある」という思想を前提としているとし、「これは犠牲の論理と同じではないか」と述べ、「十字架はイエスの処刑であったということの意味を考えるべきだ」「贖罪論なきキリスト教は可能なのか」という問いを会場に投げ掛けた」。
・「犠牲の論理」に対する応答として、西南学院神学部・松見俊は記す(西南学院神学部・神学論集、2013/3)。
-松見俊・「犠牲のシステムとキリスト教贖罪論」から「この批判は、イエスはただ贖罪のために生まれてきた(死ぬために生まれてきた)というようなイエス・キリストへの信従,貧しい者・社会的に周辺化された人たちとの共感共苦という倫理性を欠いた贖罪信仰は、「安価な恵み」であり、彼岸的世界に安易に逃げ込むような二元論的信仰、「天国と地獄」、救われている人と救われていない人との安易な二分法批判として,組織神学的,実践神学的に意味がある。伝統的な贖罪・和解論が持つ神話的世界観は非神話化されるべきであるが、神話的表象で表現されてきたリアリティそのもの(罪の根源性と人間による罪の克服不能性、それを打ち破る救い)は失われるべきではない。イエス・キリストがいのちがけで私たちを愛して下さり、私たちの「ために」死んで下さったということが契機・動機づけにならないと,イエス・キリストに従い、他者と「共に」生きる倫理的行為が成立しないのではないだろうか」。

2016年6月2日祈祷会(創世記43章、再びエジプトへ)

1.ヤコブの子供たち、再度エジプトへ

・飢饉は激しくなり、買い求めた食料もなくなった。ヤコブの息子たちは再度エジプトに行くことになった。
―創世記43:1-2「この地方の飢饉はひどくなる一方であった。エジプトから持ち帰った穀物を食べ尽くすと、父は息子たちに言った。『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来なさい。』」
・しかし、エジプトに行くためには末子のベニヤミンを連れて行かなければならない。ユダは渋る父に「ベニヤミンを命にかけて守るから一緒に行かせて欲しい」との説得を始める。
―創世記43:3-9「しかし、ユダは答えた。『あの人は、弟が一緒でないかぎり、私の顔を見ることは許さぬと、厳しく我々に言い渡したのです。もし弟を一緒に行かせてくださるなら、我々は下って行って、あなたのために食糧を買って参ります。しかし、一緒に行かせてくださらないのなら、行くわけにはいきません。弟が一緒でないかぎり、私の顔を見ることは許さぬと、あの人が我々に言ったのですから。』・・・ユダは、父イスラエルに言った。『あの子をぜひ私と一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも行って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子供たちも死なずに生き延びることができます。あの子のことは私が保障します。その責任を私に負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、私があなたに対して生涯その罪を負い続けます。』」
・ここに至ってヤコブも折れる。どうしようもない状況に追い込まれた時、人は始めて「全てを神の守りに委ねる」ことを決意する。そのために人に試みが与えられる。
―創世記43:11-14「すると、父イスラエルは息子たちに言った。『どうしてもそうしなければならないのなら、こうしなさい。この土地の名産の品を袋に入れて、その人への贈り物として持って行くのだ。乳香と蜜を少し、樹脂と没薬、ピスタチオやアーモンドの実。それから、銀を二倍用意して行きなさい。袋の口に戻されていた銀も持って行ってお返しするのだ。たぶん何かの間違いだったのだろうから。では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。この私がどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。』」
・今まで父の名はヤコブと呼ばれていたが、この43章になって「イスラエル」という名が用いられる。ヤコブは「押しのける者」、イスラエルは「神に勝たれる者」である。ヤコブは生来の名を示し、イスラエルは神による彼の名を示す。全てを捨てて神に委ねようと決意した時、彼の名はヤコブからイスラエルになることを創世記記者はここで示している。

2.エジプトにて

・兄弟たちはエジプトに行き、ヨセフと再会する
―創世記43:15-16「息子たちは贈り物と二倍の銀を用意すると、ベニヤミンを連れて、早速エジプトへ下って行った。さて、一行がヨセフの前に進み出ると、ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、自分の家を任せている執事に言った。『この人たちを家へお連れしなさい。それから、家畜を屠って料理を調えなさい。昼の食事をこの人たちと一緒にするから。』」
・ヨセフは兄弟たちを食事に招き、弟ベニヤミンと20年ぶりに会い、感極まって密かに泣く。
—創世記43:26-30「ヨセフが帰宅すると、一同は屋敷に持って来た贈り物を差し出して、地にひれ伏してヨセフを拝した。 ヨセフは一同の安否を尋ねた後、言った。『前に話していた、年をとった父上は元気か。まだ生きておられるか。』『あなたさまの僕である父は元気で、まだ生きております』と彼らは答え、ひざまずいて、ヨセフを拝した。ヨセフは同じ母から生まれた弟ベニヤミンをじっと見つめて、『前に話していた末の弟はこれか』と尋ね、『私の子よ。神の恵みがお前にあるように』と言うと、ヨセフは急いで席を外した。弟懐かしさに、胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったからである。ヨセフは奥の部屋に入ると泣いた」。
・捕えられていたシメオンも解放され、兄弟たちはヨセフと食卓につく。兄弟たちは席順が年齢順になっているのを見て不思議に思う。しかしまだ兄弟の和解はなされない。和解のためには兄弟たちの悔改めが必要だった。
-創世記43:33-34「兄弟たちは、いちばん上の兄から末の弟まで、ヨセフに向かって年齢順に座らされたので、驚いて互いに顔を見合わせた。そして、料理がヨセフの前からみんなのところへ配られたが、ベニヤミンの分はほかのだれの分より五倍も多かった。一同はぶどう酒を飲み、ヨセフと共に酒宴を楽しんだ」。

3.ユダの悔い改めと赦し

・ヨセフは兄弟たちをカナンに戻す時、ベニヤミンの袋に銀の杯を忍ばせ、兄弟たちが戻ってくるように企んだ。
―創世記44:1-2「ヨセフは執事に命じた。『あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。』執事はヨセフが命じたとおりにした。」
・ユダはこの出来事を、自分たちが前にヨセフに罪を犯したことの神の審きとして受け入れる。
―創世記44:16「ユダが答えた。『御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。』」。
・兄弟たちが、かつてヨセフを捨てたように、今回もベニヤミンを捨てて自分たちの安全を図ろうとするかを見るための試みであった。しかしユダは「ベニヤミンの代わりに自分を奴隷にして欲しい」と弟の助命を訴える。
―創世記44:30-34「今私が、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです・・・何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」
・ユダはかってヨセフを恨んでエジプトに売った張本人であった。
-創世記37:26-27「ユダは兄弟たちに言った。『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。』兄弟たちは、これを聞き入れた」。
・そのユダが今弟ベニヤミンの助命のために自分の命を捨てようとする。ヨセフは兄弟たちが本心で罪を悔改め、新しくされたことを知り、兄弟たちに自分の身を打ち明ける。
―創世記45:1-3「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした・・・ヨセフは、兄弟たちに言った。『私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった」。
・人間は心の底に人に言えない、人に知られたくない一隅を持っている。悔改めとはその罪を告白し、赦しをこうことだ。兄弟たちはヨセフを奴隷としてエジプトに売ったことを父にさえ秘密にしていた。
―創世記44:27-28「あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、私の妻は二人の息子を産んだ。ところが、そのうちの一人は私のところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。』」
・罪に時効はない。人に言えない罪を神の前に公にすることが悔改めの第一歩である。
―創世記44:16「御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。」
・悔改めた時、人は変えられる。自分のために兄弟を売ったユダが、兄弟のために自分を捨てるものにされた。創世記43章、44章はユダの回心記録でもある。
―第一ヨハネ3:16-17「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」

2016年6月9日祈祷会(創世記44章、兄弟たちの悔改め)

1.兄弟たちの悔改め

・兄弟たちを歓待した後、ヨセフはベニヤミンの袋に密かに銀の杯を入れ、ベニヤミンを捕えて残そうとした。兄弟たちがヨセフを捨てたようにベニヤミンも捨てるかどうか試すためである。
—創世記44:1-2「ヨセフは執事に命じた。『あの人たちの袋を、運べるかぎり多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋の口のところへ入れておけ。それから、私の杯、あの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、穀物の代金の銀と一緒に入れておきなさい。』執事はヨセフが命じたとおりにした」。
・兄弟たちがカナンに帰り始めた時、ヨセフは執事たちに、彼らに追いついて盗んだ銀の杯を返すように命じた。銀の杯は占いに用いる、祭儀用の品を盗むことは重罪で死罪に当たる。兄弟たちもそれを知っており、もし見つかれば死罪になっても良いと答える。
—創世記44:7-9「すると、彼らは言った。『御主人様、どうしてそのようなことをおっしゃるのですか。僕どもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。袋の口で見つけた銀でさえ、私どもはカナンの地から持ち帰って、御主人様にお返ししたではありませんか。その私どもがどうして、あなたの御主君のお屋敷から銀や金を盗んだりするでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかの私どもも皆、御主人様の奴隷になります。」
・銀の杯はベニヤミンの袋から見つかった。兄弟たちはそれが冤罪であると知っていたが、受け入れる。自分たちがかつて弟ヨセフを奴隷として売り払った、その罪の記憶が兄弟たちを追いつめている。
—創世記44:11-13「彼らは急いで自分の袋を地面に降ろし、めいめいで袋を開けた。執事が年上の者から念入りに調べ始め、いちばん最後に年下の者になったとき、ベニヤミンの袋の中から杯が見つかった。彼らは衣を引き裂き、めいめい自分のろばに荷を積むと、町へ引き返した」。
・ヨセフは彼らの忘恩の行為を叱るが、ユダは抗弁することなく、冤罪を神の下された罰として受け入れる。彼は言う「神が僕どもの罪を暴かれたのです」。彼は神の前における深い罪の自覚へと導かれていた。
—創世記44:14-16「ユダと兄弟たちがヨセフの屋敷に入って行くと、ヨセフはまだそこにいた。一同は彼の前で地にひれ伏した。『お前たちのしたこの仕業は何事か。私のような者は占い当てることを知らないのか』とヨセフが言うと、ユダが答えた。『御主君に何と申し開きできましょう。今更どう言えば、私どもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、私どもも杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。』」
・森有正は、「人間は心の奥底に秘めた最も痛いところで神と出会う」と語る。ユダもかつて兄弟ヨセフを捨てたという心の痛みの中で神と出会っている。
—森有正・土の器に「人間という者は、どうしても人に知らせることのできない、心の一隅を持っている。醜い考えがあるし、秘密の考えがある。またひそかな欲望があるし、恥があるし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅があり・・・人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、また恥じている、そこでしか人間は神に会うことはできない」。

2.ユダの嘆願

・ヨセフは杯を盗んだベニヤミンだけを残して帰ってもよいと兄弟たちに告げる。前に弟ヨセフを妬んで売ったように、今回も弟ベニヤミンを犠牲にして兄弟たちが身の安全を図ろうとするかの試みであった。
―創世記44:17「ヨセフは言った。『そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、私の奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。』」
・それに対して兄弟のユダは弟を残して帰れば父ヤコブは悲しみのあまり死ぬ、それは出来ないと抗弁する。かつてユダはヨセフが父の寵愛を受けることを妬んで、「さあ、我々は彼をイシマエル人に売ろう」と提案している(37:27)。その彼が今はベニヤミンのため、自分を奴隷にしてくれと語る。
―創世記44:18-31「ユダはヨセフの前に進み出て言った。『ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください・・・御主君は僕どもに向かって、父や兄弟がいるのかとお尋ねになりましたが、そのとき、御主君に、年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっておりますと申し上げました・・・今私が、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです』」。
・かつてヨセフを奴隷として売ることを主唱したユダが、今は弟のために自己を犠牲にして助命を申し出る。ユダは今は父の悲しみを自分の悲しみとする者に変えられている。
―創世記44:32-34「『実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、私が父に対して生涯その罪を負い続けますと言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうして私は父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。』」
・兄弟を悔改めに導くためには試練が必要であった。ヨセフはそのために兄弟たちを試した。しかし今ユダの切々たる告白を聞き、ヨセフは心動かされて、「自分が弟のヨセフである」ことを明らかにする。
―創世記45:1-2「ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、『みんな、ここから出て行ってくれ』と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった」。
・ここにあるのはユダの再生物語だ。ドストエフスキー「罪と罰」に、もう一つ印象的な再生物語がある貧しい学生のラスコリニコフは、学費を工面するために金貸しの老婆を殺して金を奪うが、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ない。その後、彼は娼婦ソーニャと出会い、彼女の部屋で、ヨハネ福音書「ラザロの復活」の箇所を読んでもらい、その言葉を聞いて彼は自分の罪を認め、勧められて自首し、流刑の判決を受ける。そこから彼の再生の物語が始まる。
・ドストエフスキーが手元に置いていた新約聖書は、現在モスクワ図書館に保存されており、ヨハネ福音書第11章19節-26節、「罪と罰」でラスコリニコフの願いによってソーニャが朗読する「ラザロの復活」の箇所には、始めと終わりがインクでマークされ、小説ではイタリック体で強調され、25節「私は復活であり、命である」には、鉛筆で下線がほどこされている。ドストエフスキーは神を信じることの出来なくなった私たち現代人のために、この小説を書いた。「神は生きておられる、神は死んだ者を生き返らせる力をお持ちだ」とドストエフスキーはこの作品を通して訴えているように思える。

3.悔改めと赦し

・ヨセフの人生は神の経綸に導かれた、生かされた生であった。私たちも人生を自己のために歩む道としてではなく、神の経綸の一部として歩ませていただく人生と見る時、世の出来事が変って来る。
―創世記45:3-8「ヨセフは、兄弟たちに言った。『私はヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。』兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った・・・『私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です』」。
・ヨセフ物語において、神は人間の罪を用いてその聖なる目的を遂げられる。神はヨセフを兄たちの憎しみと嫉妬とを用いてエジプトに導き、そして神は人間の罪を用いてその人間を試され、清めさせられる。ユダの告白はそうである。ユダはかってヨセフを恨んでエジプトに売った張本人であった。そのユダが今弟ベニヤミンの助命のために自分の命を捨てようとする。導きは時が満ちて初めて導きであることがわかる。ある時は人生の長さを超える時が必要になる。途上であってもそれを信じる強さが必要だ。
-エレミヤ29:10-14「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く・・・私は捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる」。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-08-11 08:03:51 (21 ヒット)

2019年8月11日説教(マタイ5:9、世界に平和がない中で)清水伸晴

1.終戦記念日を前にして(戦後から現在まで、戦争しない日本)

毎年8月になりますと終戦記念日があります。74年前の8月15日に日本は戦争に負け、「もう過ちは繰り返さない」という決意をもって、国の再建に取り組んできました。その後、人々は必死に働き、戦後の焼け野原から復興し、戦後10年ほどで戦前の経済規模までに回復しました。経済的にみると、戦後の日本経済は3つの時期に分けられるそうです。復興から高度成長へ(1945〜1973)、安定成長からバブルへ(1974〜1990頃)、バブル崩壊後の長期低迷期(1990頃〜現在)です。
戦後から1973年頃までは高度成長期と呼ばれる時期に入ります。人々の暮らしは急激に豊かになっていき、敗戦国から一気に世界第二の経済大国にのし上がりました。そして高度成長期からバブル期(1987年〜1990年)までは安定成長期入ります。バブル期は、日本中に「日本経済は世界一だ、21世紀は日本の時代だ」といった陶酔感が国中に蔓延し、地価と株価が急騰しました。当時は銀行も「土地を担保に融資すれば、とりっぱぐれはない」と考え、土地購入資金を積極的に融資したため、地価が一層上昇しました。そしてそのバブルは崩壊します。バブル期の投資等の反動で、景気が悪化しました。1990年代の後半には、銀行の不良債権問題が深刻化し、倒産する大手金融機関が続発するなど、金融危機が発生します。この金融危機は、日本政府と日銀の介入で脱出しますが、財政赤字が拡大し、経済の長期停滞期が30年近く続き、現在に至っています。
日本は戦後の復興から経済の立て直しに必死になり、この間、日本は戦争をしていません。日本は、間違った戦争をし、その戦争の悲惨さを体験したことから、「もう戦争はしない」と宣言し、それを憲法に書き込みました。これはよく知られている日本国憲法第9条の条文になります。他方、世界を見ると1945年以降、驚くほど多くの数の戦争が勃発しています。多かれ少なかれ日本も影響した戦争を上げるとしたら、いわゆる「冷戦(中東戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争などなど)」があり、湾岸戦争、イラク戦争があります。世界では、戦争、紛争は終結することはく、報道がなされていない小さな国々でも、今だに継続している戦争は多くあります。一体なぜ、戦争が起こるのでしょうか、いつ終わるのでしょうか?平和とは一体何なのでしょうか?戦う兵士には、キリスト教徒もいます。もちろん、イスラム教徒も仏教徒もいます。このように問いかけます。「世界に平和はないのでしょうか?キリストのしもべとして、祈っても平和は訪れないのでしょうか?」いろいろと疑問がでてきます。本日は、平和について聖書はどのように捉えているのか少し考えてみたいと思います。

2.平和の実現と平和への妨げ

今日は、次の聖書の御言葉を取り上げます。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)。この御言葉をもう少し、深く意味を考えてみますと、主イエス・キリストは、「平和を愛する人々は幸いである」とは言われていません。また、「平和を望み願っている人々は幸いである」とも言われたのでもありません。「平和を実現する人々は幸いである」と言われたのです。「平和を実現する人々は幸いである」とは、「平和をつくり出す人たちは、幸いである」と言い替えることができるかもしれません。「平和を愛する人々は幸いである」、「平和を願う人々は幸いである」と言われたのであれば、私たちも十分にできそうな気がしますが、「平和を実現する人々は、幸いである」という、このみことばに対して、私たちは、果たして平和を実現できる者なのかと考えてしまいます。なぜなら、「あなたは平和を実現する者として生きるか」と問われているこの聖書のことばに、「はい、できます」と言えるような私たちではないからです。私たちは、平和を愛することはできます。また平和を願うこともできます。しかし、平和を実現するどころか、平和を壊し、争いを引き起こすことの方がはるかに多いのが私たちなのです。それは、国レベルでは国民としてでも、会社レベルでは会社員や働き手としてでも、家庭レベルでは家族の一員としてでもそうです。
一方、「平和を実現する人々は、幸いである」という、平和を実現する人々には、妨げになるものを知らず知らずに持っています。私たちは平和の妨げになっているものと向き合う必要があります。妨げになっているものは何かと考えると、例えば、偏見(偏ったものの見方)、独善(自分だけが正しいと思い込む、独りよがり)、妬み、憎しみがあります。これらの妨げをどれ一つとっても、直ぐに解決されるものではありません。同じ信仰に生きる者の間でも、この世の事柄や、社会の問題についての考え方、平和を実現していく方策についての考えには違いが生じます。考えが違うのは、当然のことでありますし、考えが違うからこそ、良く話し合うことによって新しいことが生まれてくるのですが、時には先ほどの妨げによって争いを引き起こすことがあります。
この地上に平和を実現することは、易しいことではありません。むしろ難しいことだと思います。平和を願い祈ることは簡単ですが、それを実現するのは至難の業です。イエス・キリストは、そのことをよくご存知です。だから、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われたのだと思います。平和を実現する人がいたら、その人は「神の子」と呼ばれる。「神の子」というのは、神様みたいな人という意味です。平和を実現する人は神様みたいな人だ、それほどにそれは困難な、難しいことなのだと思います。

3.主イエス・キリストこそ平和を実現する者

今日の招詞に、へブル12:14のみことばを選びました。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」。平和を追い求めることは、神のみこころです。神がそうできるように私たちを捕えてくださいます。そして、それを追い求めることが求められています。また、それを求めて行こうという促しがあるということです。「すべての人との平和を追い求めなさい」という静かな声が、そのような促しがあるとすれば、たとえ小さくとも、それが自分の心の中にあるということが大切です。
イギリスの聖書学者バークレーは語ります「人の中にはいつも、紛争、対立、分裂を起こす人がいる。どこに行っても自分が争いの原因になっている人がいる。こういう人たちは争いを造り出す人たちである」。この人たちのところに行って、平和を造り出す努力をせよと言われています。バークレーは「平和を実現する人は幸いである」を、「人と人との間に正しい関係を造り出すひとは幸いだ。彼らは神の業を行っている」と読み替えます。
主イエス・キリストのみことばは、平和を実現することの困難さだけを語っているわけではありません。「平和を実現する人々は、幸いである」と主イエス・キリストは言われました。それは、「あなたがたはこの幸いに生きることができる」という宣言でもあります。私たちは、平和を実現する者としての幸いに生きることができます。しかし、それはどのようにして、でしょうか。それを知るために、「その人たちは神の子と呼ばれる」という言葉の中にあります。文字通り「神の子」であられる方がただお一人おられます。主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストは、神の独り子、文字通りの神の子です。私たちと神様との間に平和を実現して下さるためでした。神の子主イエス・キリストは、平和を実現する者としてこの世に来られたのです。イエスは言われました「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5:44-45)。私たちが自分を迫害する者、憎む者のために祈り始めた時、そこに神の平和が訪れます。この平和を教えて下さったのが主イエス・キリストです。神の子主イエスこそ、神と私たちの間に平和を実現する者なのです。

4.平和を実現する人々は幸いである

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」このみことばは、主イエス・キリストの平和のわざをあずかれるように一人一人に語り掛けてくださいます。「私はいのちを懸けて平和をつくる。あなた方もそこに立つ。だからこそあなたがたも平和をつくることができるようになる。私とおなじように神の子と呼ばれるのだ。」と言われます。私たちはそのみ声を聞きます。礼拝が終わり、それぞれの家に帰ります。職場に帰ります。争いに絶えぬところに帰ります。平和国家と自称しながら、この平和をめぐっても争いの絶えないこの国のなかで、一生懸命努力したことが簡単に吹き飛ばされてしまうようなことがあっても、この主イエス・キリスト信じて平和をつくっていきたいと思います。私たちの小さな言葉、小さなわざをもって平和をつくることができますように、願いたいと思います。やがて、望みに答えて、主イエスは再び来られ、私たちにもその仕事の一端を委ねられておられ、平和建設のわざを完成してくださるに違いありません。祈りたいと思います。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-08-05 08:38:12 (38 ヒット)

2019年8月11日聖書教育の学び(2019年8月4日説教、創世記41:1-57、神の啓示の意味)

1.ファラオの見た夢

・ヨセフ物語を読み続けています。ヨセフは兄弟たちに妬まれてエジプトに奴隷として売られ、エジプトの地では主人の妻による誘いを断ったために告発されて投獄されます。踏んだり蹴ったりの人生でした。そのヨセフが獄にとらわれて3年が経ちました。その時、エジプトの王(ファラオ)は不吉な夢を見たと創世記は語ります。「ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた」(41:1-4)。不吉な夢です。ファラオはさらに二番目の夢を見ます「今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった」(41:5-7)。この夢もまた不吉です。
・エジプトの穀物生産の可否はナイル川に依存します。ナイルの水量が減少すれば飢饉が発生し、東風(砂漠の熱風)が吹くと、穀物が枯れてしまいます。当時、夢は神の啓示と考えられていました。ファラオは夢の意味を知るためにエジプト中の賢者を集めましたが、誰も夢の意味を解き明かすことができませんでした(41:8)。彼は焦ります。神が何かを啓示しておられるのにその意味が分からない。国家の存亡にかかわるかもしれない夢なのに、誰も夢解きが出来ない。その時、給仕役の長が自分の夢を解き明かしたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になります。
・「私は、今日になって自分の過ちを思い出しました・・・侍従長の家にある牢獄に私と料理役の長を入れられた時、同じ夜に、私たちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をした処、私たちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かした通りに・・・なりました」(41:10-13)。不遇の中にあっても導きを信じて待つ時、神の約束は成就します。しかし、それが何時なのか、どのようしてなのか、人は知ることが許されていません。給仕役の助言を受けてヨセフが牢から引き出されてファラオの前に出ます。
・ヨセフはファラオの夢の意味を解き明かします。「ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです」(41:25-27)。そしてヨセフはこの夢は神がファラオに飢饉への準備をさせるために与えられたと告げます「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」(41:28)。
・聖書の中心使信は、未来を決定するのは「人ではなく、神である」ということです。この世を支配するエジプト王さえも未来に対しては無力です。しかし神の言葉は、いつの日か、何らかの形で成就します。預言者イザヤは語ります「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:10-11)。

2.夢の対応策を示すヨセフとその登用

・ヨセフはファラオの夢を解くだけでなく、その対応策をも提案します。「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:33-36)。
・ヨセフはこの13年間、奴隷として不遇の日々を送ってきました。その彼が自分を牢から解放してほしいと願うのではなく、エジプトのために自分の持てる精一杯の知恵を提供します。イエスは「平和を創り出す人は幸いなるかな」(マタイ5:9)と語れましたが、ヨセフはまさに「平和を創り出す」人だったのです。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かします。彼は語ります「お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいない」(41:39)。こうしてヨセフは宰相に登用されます(41:40)。17歳の時に奴隷としてエジプトに売られてきたヨセフが(37:2)、30歳になってエジプトの宰相となります。13年間の忍耐が報われました。それはヨセフにとっての運命の転換でしたが、同時にエジプトにとっても飢饉の破局から救済されるという運命の転換にもなります。
・神の啓示通りに7年間の豊作の時が訪れます。ヨセフは豊作の7年間にできるだけの穀物備蓄を行なわせました(41:49「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」)。7年間の豊作の後、深刻な飢饉がエジプトを襲います。その飢饉はエジプトだけでなく、当時の世界全体を覆います。「飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである」(41:56-57)。エジプトの豊かな穀物備蓄が世界の民を養ったのです。神は賜物が与えられた人の活用を通して、民を養われます。その中で、カナンにいたヤコブ一族も飢饉の中で食料を求めてエジプトに下ってきます「ヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った」(42:3)。これがやがてイスラエル民族がエジプトに住むようになる端緒になります。

3.神は歴史に介入されるのか

・今日の招詞にマルコ15:34を選びました。次のような言葉です「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。イエスが十字架上で叫ばれた最後の言葉です。多くの人たちがこの言葉の意味を求めて、思索を重ねてきました。東北学院大学・原口尚彰先生は東北大震災直後の2011 年6月7日に「神への問い」と題する説教をされました。「全能の神が創造主であり、世界はすべて主の御手の内にあるのなら、何故このような(悲惨な)ことが起こるのか、罪ない人が被災し苦しむのはどうしてなのかという問いは、心の中に絶えず生じて来ます。誰にも答えられない。良く考えてみると、この問いは「我が神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスの問いでありました。神の子が、何故拷問を受け、断罪され、極悪人のように十字架刑を受けなければならなかったのかは大きな謎であり、不条理でした。そのような不条理な苦しみの中にある人間と共にイエスは歩み、その苦しみを共に担い、共に問い続けて下さるということに他ならないと思います」(東北学院大学『説教集』第16号、2012年3月から)。
・神は何故大震災を与えられたのか、歴史への神の介入をどう考えればよいのか。アメリカの聖書学者マーカス・ボーグは語ります「もし時に神が介入するのならば、介入がないことをどう説明するのか。実際に起きたすべての恐ろしい出来事を知りながら、神は常に介入するとの考えが意味を為すであろうか。もし神が介入してホロコーストを止めさせられたのにしなかったとすれば,それはどういうことか。神がテロリストの攻撃を止めさせられるのにしないと考えることに意味があるのだろうか」 。
・神は歴史には介入されません。歴史は人間の歴史であり、戦争を起こすのも悲惨な罪を犯すのも人間です。「神の前で、神と共に、神なしに生きる」(ボンヘッファー)、神は私たちと共におられますが、私たちに自立を求められます。神は啓示を通して私たちを導かれます。ヨセフに与えられた夢は神の啓示であり、その対応策はヨセフの知恵から生まれました。「飢饉が来る」という啓示を、「それに備えよ」いう智恵に昇華して対応したエジプトには幸いが与えられ、「三陸海岸は津波が繰り返される危険な地」という啓示を無視した日本は、津波によって多くの被害を受けました。3.11の大震災は自然災害ではなく、神の啓示を受け取ることが出来なかった日本人の智恵の欠如です。神の啓示に従って対応策を検討する、悪を止めることが、人の正しい対応であることをヨセフ物語は教えます。


投稿者 : admin 投稿日時: 2019-07-29 09:24:10 (37 ヒット)

2019年8月4日聖書教育の学び(2016年5月19日祈祷会、創世記41章、ファラオの夢を解くヨセフ)

1.ファラオの見た夢

・ヨセフが獄にとらわれて2年が経った。その時、エジプトの王(ファラオ)は不吉な夢を見た。
−創世記41:1-7「二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると、突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた。ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった」。
・エジプトの穀物生産の可否はナイル川に依存する。ナイルの水量が減少すれば飢饉が発生し、東風(砂漠の熱風)いかんでは穀物が枯れてしまう。ファラオはエジプト人の賢者をすべて集めたが、誰も夢解きができなかった。
−創世記41:8「朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった」。
・その時、給仕役の長がヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になる。導きを信じて待つ時、必ず約束は成就する。しかし、それが何時なのか、人は知ることができない。
−創世記41:9-14「その時、例の給仕役の長がファラオに申し出た。『私は、今日になって自分の過ちを思い出しました・・・侍従長の家にある牢獄に私と料理役の長を入れられた時、同じ夜に、私たちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をした処、私たちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かした通りに・・・なりました』。そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし、着物を着替えてから、ファラオの前に出た」。
・ヨセフはファラオの夢の意味を解いた。
−創世記41:25-32「41:25 ヨセフはファラオに言った『ファラオの夢は、どちらも同じ意味でございます。神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです。七頭のよく育った雌牛は七年のことです。七つのよく実った穂も七年のことです。どちらの夢も同じ意味でございます。その後から上がって来た七頭のやせた、醜い雌牛も七年のことです。また、やせて、東風で干からびた七つの穂も同じで、これらは七年の飢饉のことです・・・神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き・・・この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう・・・ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです』」。
・聖書の中心使信は未来を決定するのは、「人ではなく、神である」ということだ。エジプト王さえも未来に対しては無力だ。しかし神の言葉は、いつか、何らかの形で成就する。
−イザヤ55:8-11「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道は、あなたたちの道と異なる・・・天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。

2.夢の対応策を示すヨセフとその登用

・ヨセフはファラオの夢を解くだけでなく、その対応策をも提案する。
−創世記41:33-36「ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物をお見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」。
・ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かし、ヨセフは大臣に登用される。
−創世記41:37-40「ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに『このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか』と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。『神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、私はお前の上に立つ』」。
・こうしてヨセフはエジプトの宰相となり、妻も与えられた。17歳の時に奴隷としてエジプトに売られてきたヨセフが(37:2)、30歳になってエジプトの宰相となる。13年間の忍耐が今報われた。
−創世記41:41-46「ファラオはヨセフに向かって、『見よ、私は今、お前をエジプト全国の上に立てる』と言い、印章のついた指輪を自分の指からはずしてヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをヨセフの首にかけた・・・ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。ヨセフは、エジプトの王ファラオの前に立った時三十歳であった。ヨセフはファラオの前を発って、エジプト全国を巡回した」。
・ヨセフは神の預言に従い、豊作の7年間にできるだけの穀物備蓄を行った。
−創世記41:47-49「豊作の七年の間、大地は豊かな実りに満ち溢れた。ヨセフはその七年の間に、エジプトの国中の食糧をできるかぎり集め、その食糧を町々に蓄えさせた。町の周囲の畑にできた食糧を、その町の中に蓄えさせたのである。ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので量るのをやめた」。
・豊作の期間中に、ヨセフに二人の子が与えられた。ヨセフは子に「マナセ」と「エフライム」と名付けた。ヨセフは自分の生涯を神の経綸の中で見た。その時、人は不遇の時にもつぶやかず、得意の時にも奢らない。
−創世記41:50-52「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた。この子供を産んだのは、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトである。ヨセフは長男をマナセ(忘れさせる)と名付けて言った。『神が、私の苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった』。また、次男をエフライム(増やす)と名付けて言った。『神は、悩みの地で、私に子孫を増やしてくださった』」。
・飢饉が襲った時、エジプトは世界の民を養った。賜物が与えられた人の活用を通して、神は民を養われる。
−創世記41:53-57「エジプトの国に七年間の大豊作が終わると、ヨセフが言った通り、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった・・・飢饉は世界各地に及んだ。ヨセフはすべての穀倉を開いてエジプト人に穀物を売ったが、エジプトの国の飢饉は激しくなっていった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである」。
・この事を通してヤコブ一族もエジプトに招かれ、やがて彼らは定住する。神の経綸は人間の業や思いを超える。
−創世記42:3「そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った」。

3.神は歴史に介入されるのか

・古代人は夢を神からの啓示と受け止めて、夢に従った。マタイは、「夢に現れた神の指示で聖家族がエジプトに逃れて難を脱した」と記す。
−マタイ2:13-15「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』。ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」。
・現代人は歴史への神の介入を信じることが難しくなっている。マーカス・ボーグは語る「もし時に神が介入するのならば、介入がないことをどう説明するのか。実際に起きたすべての恐ろしい出来事を知りながら、神は常に介入するとの考えが意味を為すであろうか。もし神が介入してホロコーストを止めさせられたのにしなかったとすれば,それはどういうことか。神がテロリストの攻撃を止めさせられるのにしないと考えることに意味があるのだろうか」 。
・神は歴史に介入されない。歴史は人間の歴史であり、戦争を起こすのも悲惨な罪を犯すのも人間である。しかし神はそこにおられる。そしてそれを知った人間が悪を止める。
−村上伸、2006・1・22代々木上原教会説教から「イエスは『神の前に』歩み、『神と共に』生きた。だが、最後は十字架につけられて、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』(マルコ15:34)と叫んで死んだ。神の子であるイエスが、神に見捨てられたと感じるほどの恥と苦しみと絶望を経験したのである。その時、彼は確かに『神なしに』生きていた。神の前に、神と共に生きたイエスが、神の不在を感じて苦しまねばならなかった。聖書の神はこのような苦しみを知り給う。正にこのことが、絶望のどん底にいる人を慰めるのである」。


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