2019年8月7日祈祷会(第二テモテ2章、外なる迫害と内なる迫害の中にあるテモテへ)

1.外なる迫害の戦いの中にあるテモテへ

・パウロはローマ帝国からの迫害の中で脱落者が出始めているエペソ教会の牧会者テモテに、「委ねられた福音を教会の人々に教え、キリストの兵士として強くあれ」と励ます。
−第二テモテ2:1-3「私の子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前で私から聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、私と共に苦しみを忍びなさい」。
・キリストが世から憎まれたように、キリストの弟子たちも迫害を受ける。しかし、キリストは十字架からよみがえられた。パウロは「悪は私を牢獄につなぐことはできるが、神の言葉をつなぐことは出来ない」と語る。
−第二テモテ2:8-9「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。私の宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」。
・牢獄につながれるという苦しみも、主は良いものに変えて下さる。それはパウロが経験したことだった。
−フィリピ1:12-14「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。私が監禁されているのはキリストのためであると兵営全体その他の全ての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・キリストと共に死に、キリストと共に生きる。第二テモテ2:11-13は当時の讃美歌の一節であろう。洗礼式の賛美歌と思われるが、殉教か棄教かを迫られた極限状況の中で歌われた。「キリストは共におられる、牢の中でも、処刑台の上においても。また弱さのゆえに脱落してもキリストは私たちを赦して下さる」と歌われる。
−第二テモテ2:11-13「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストも私たちを否まれる。私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

2.内なる迫害との戦いの中にあるテモテへ

・教会も人の集まりである以上、必ず分派が生まれ、異なる福音を説く者が出る。しかし、そのような者と論争してはならない。論争からは何も生まれない。「大切なのは命の御言葉を伝え、生きる」ことだとパウロはテモテに伝える。
−第二テモテ2:14-16「言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。俗悪な無駄話を避けなさい」。
・分派とは「復活を否定するグノーシス主義」を指すのであろう。ギリシャ的肉体軽視の立場に立つ彼らは、「復活は洗礼時に既に起きた」、「死んで子孫の中に生きることが永遠の命である」等を主張していた。
−第二テモテ2:17-19「その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、『主は御自分の者たちを知っておられる』と、また『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』と刻まれています」。
・同じ問題はコリント教会でも起きていた。人の知恵では復活は信じられない。しかしパウロは語る「もしキリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。
−第一コリント15:12-14「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。
・パウロは、「異端者と論争せず、彼らから遠ざかりなさい。神があなたを用いて下さる時、あなたは貴い器になるのだ」と語る
−第二テモテ2:20-21「大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです」。
・反対者と議論することが、異端者を悔い改めに導く道ではない。彼らに親切にし、自分の信仰について証し、必要な時には耐え忍び、相手を柔和に戒めなさい。
−第二テモテ2:23-25「愚かで無知な議論を避けなさい・・・そのような議論は争いのもとになります。主の僕たる者は争わず、全ての人に柔和に接し、教える事ができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません」。
・相手の心を変えうるのは神だけだ。私たちは、愛を持って、神が働かれる余地を作ればよい。
−第二テモテ2:25-26「反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させて下さるかもしれないのです。こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう」。
・キング牧師は黒人解放運動の中で、迫害する白人を憎むことを禁じた。彼は言う「私たちは敵を好きになることは出来ない。しかし、愛することは出来る。愛は敵を友に変えることの出来る唯一の力である」。
−ローマ12:19-20「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」。

3.当時の異端思想=グノーシス主義とは何か

・グノーシス主義は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。グノーシスは、古代ギリシャ語で「認識・知識」を意味する。グノーシス主義は、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想である。グノーシス主義に関する初期教会教父たちによる種々の異端反駁文書の中において、グノーシス主義はキリスト教内部の異端思想として扱われている。グノーシス主義的異端思想は2〜4世紀のキリスト教会に様々な形をとって現れ、猛威をふるい、その異端思想はエリート的な性格と肉体的存在者に価値を認めない悲観主義に特徴がある。リヨンのエイレナイオス、ヒッポリュトス、テルトゥリアヌスなどがグノーシス主義を主要な対象として、正統信仰擁護の著作を残している。彼らの著作から、グノーシス主義的異端説に対する反駁を通して初期の聖書解釈やキリスト教神学が確立していったことがわかる(ウィキペディアから)。
・大貫隆は「グノーシスの神話」(講談社、2014年)で述べる「歴史的には、初期ユダヤ教の周縁に、原始キリスト教とほぼ同じ頃に現れ、やがてキリスト教と接触するに及んで、最大の『異端』とされた。なぜなら、本来の人間は至高の神の一部である、という思想であったからである。ただし、現実の人間は居場所を間違っている。それゆえ、自分の本質を認識(ギリシャ語「グノーシス」Gnosis)して、本来の場所へ立ち帰らねばならないというのである」。
・また筒井賢治は「グノーシス」(講談社、2004年)の中で述べる「紀元二世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。キリスト教グノーシス主義に共通する特徴として第一に挙げられるのは、目に見えるこの世界を、それを創造した神を含めて蔑視し、排撃する点にある。この世界を造ったのは、キリスト教正統派の教えでは旧約聖書(=ユダヤ教聖書)の神であるが、この創造神を敵視する以上、正統派=多数派から異端視されるのも当然である。」