2019年7月31日祈祷会(第二テモテ1章、信仰者の務め)

1.恐れずに証ししなさい

・テモテ1、2、テトスへの手紙は、牧会書簡と呼ばれる。パウロが弟子テモテ、テトスへ牧会上の諸注意を書き送った形式をとる。内容から、使徒の第一世代は終わり、教会が組織化されていった紀元100年ごろの手紙とされている。しかし、第二テモテを読むと明らかにパウロ書簡の断片が編集・挿入されている。そのパウロはローマの獄中からこの手紙を書いている。彼は死を予期し、「命の約束」である福音の宣教を、弟子テモテに委ねる。パウロは紀元64年に殉教している。第二テモテ書はパウロの遺書を含んでいる。
−第二テモテ1:1-2「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ」。
−第二テモテ4:6「私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」。
・彼は獄中にあっても、弟子テモテのことを思い、祈り続ける。死ぬ前に一度会いたいと使徒は願う。
−第二テモテ1:3-4「私は、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし・・・神に、感謝しています。私は、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています」。
・テモテはパウロの弟子として忠実に従ってきた。彼の祖母、母もキリスト教徒だったことがうかがえる。
−第二テモテ1:5「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています」。
・パウロはテモテに按手して、福音の宣教を委ねた。按手は聖霊の降臨を取り次ぐ行為だ。その聖霊は「臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊」だとパウロは語る。
−第二テモテ1:6-7「私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちに下さったのです」。
・ローマ帝国はキリスト教を、世を迷わす邪教として迫害した。ローマにより反乱罪で処刑されたイエスを「主」と証しすることは命の危険を伴う。証しする=(ギリシャ語)マルチュリアは、同時に殉教するという意味も持つ。
−第二テモテ1:6-7「私たちの主を証しすることも、私が主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために私と共に苦しみを忍んでください」。
・「この福音を宣べ伝えたために、私は捕らわれの身となったが、それを恥じていない」とパウロは語る。ギリシャ世界においては、処刑された教祖の死により贖われ、その教祖の復活によって永遠の命を得るという福音は理解されなかった。
−第二テモテ1:11-12「この福音のために・・・私はこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、私は自分が信頼している方を知っており、私に委ねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです」。
・だからあなたもこの福音を恥とはせず、委ねられた信仰を伝え続けなさいとパウロは書き送る。
―第二テモテ1:13-14「キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたに委ねられている良いものを私たちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」。

2.信仰の脱落者となるな

・パウロがローマで投獄された時、エフェソ教会のフィゲロとヘルモゲスはパウロを見捨てて逃げた。他方、オネシフォロは危険を承知で、パウロをローマまで訪ねてくれた。信仰から脱落する者もいるが、固く立つ者もいる。
−第二テモテ1:15-18「あなたも知っているように、アジア州の人々は皆、私から離れ去りました。その中にはフィゲロとヘルモゲネスがいます。どうか、主がオネシフォロの家族を憐れんでくださいますように。彼は、私をしばしば励まし、私が囚人の身であることを恥とも思わず、ローマに着くと私を熱心に探し、見つけ出してくれたのです。どうか、主がかの日に、主のもとで彼に憐れみを授けてくださいますように」。
・おそらくパウロの裁判に証人として呼ばれたフィゲロとヘルモゲスは、それを機にパウロから離れて行ったのであろう。
−第二テモテ4:16「私の最初の弁明の時には、だれも助けてくれず、皆私を見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように」。
・イエスは言われた「あなた方は世に属さないゆえに、世から憎まれる。しかし私は既に世に勝っている。だから恐れるな」と(ヨハネ16:33)。パウロはこの体験をしている。迫害の中で信仰者の心は揺れ動く。しかし、主の約束を信じていけばよい。その約束が私たちの生きているうちに実現しなくとも良いではないかと聖書は言う。
−ヘブル11:13「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
・現代の殉教者であるキング牧師は、死の前日の説教で語る「私はすでに山の頂に登ってきた。だからこれからの待っているであろう厳しい未来も怖くない」と。
−1968年4月3日説教「一体これから何が起ころうとしているのか、私には分からない。ともかく、私たちの前途が多難であることは事実である。しかしそんなことは、今の私には問題ではない。なぜなら、私はすでに山の頂に登ってきたからである。従って、もう何も心配していない。私だって、ほかの人と同じように長生きしたいと思う。・・・だが、もうそういうことも気にしていない。神の御心を全うしたいだけである。神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は皆さんと一緒にその地に到達することは出来ないかもしれない。しかし・・・私たちは一つの民として、その約束の地に至ることが出来る、ということである。だから、私は今夜、幸せである。もう何も不安なことはない。私はだれも恐れてはいない。この目で、主の再臨の栄光をみたのだから。」

3.パウロは何故ローマに捕らえられ、処刑されたのであろうか。

・パウロは紀元64年のネロ帝迫害時にローマで処刑されたと言われている。このネロ帝の迫害は組織的なものではなく、単発的なものであったとされる。ギリシャ・ローマ世界においては、復活という福音を信じることが難しかった、また聖餐(肉を食べ、血を飲む)も誤解された。訳のわからない邪教とされた。
−使徒言行録17:32-33「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場(アテネのアレオバゴス)を立ち去った」。
・福音はパウロや弟子たちの働きを通して広がって行った。それは同時に各地で様々の衝突をもたらした。テサロニケでは反国家騒動の疑いで告発されている。ローマの神殿礼拝を拒否し、ユダヤ教徒と争いを起こしていたキリスト教徒は、政治的に危険なカルト集団と思われていたようだ。
−使徒17:5-8「ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしている、ならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した・・・ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。『世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、イエスという別の王がいると言っています』。これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した」。
・使徒18章でパウロはコリントで、アキラとプリスキラに出会っているが、使徒行伝は二人を、「クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来た」と述べている(使徒18:2)。これはローマ側資料でも裏付けられている(スエトニウス「クラウディウス伝」)。歴史家の島創平は「キリスト教は騒乱を起こす反社会的結社と見られていた」と語る。
−島創平・ネロとキリスト教再考から「1 世紀半ばのネロ帝時代には、ユダヤ教とキリスト教は、まだ分化しておらず、キリスト教はユダヤ教内の一分派とみなされていた。一方、キリスト教が地中海世界各地のディアスポラ・ユダヤ人の間に伝道されると、その信仰をめぐって、キリスト教を受け入れる側と拒否する側の対立、抗争や騒乱が起こるようになった。ローマにおいても、クラウディウス帝の時代に、こうした騒乱が原因で、ユダヤ人が首都から追放されるような事態が起こっていた。それゆえ、ネロ時代のローマにおいては、ユダヤ人の中でも『イエス・キリスト』を信じる一派は、社会に分裂、抗争や騒乱を引き起こす危険分子である、というような認識が、当時のローマ人の間にも芽生えていた」。
・しかしパウロは「私は福音を恥としない」と述べ、テモテにも自信をもって宣教することを命じる。この信仰がやがてローマ世界を圧倒するようになる。
−第一コリント1:18-24「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。