すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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2019年7月17日祈祷会(第一テモテ5章、委ねられた羊を飼いなさい)

1.家族のように人々を導きなさい

・テモテへの手紙は、若い教会指導者に対する長老からの手紙である。教会は生活共同体であり、指導者は教会員に対して、家族に対して導くよう求められている。
−第一テモテ5:1-2「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい」。
・教会は神の家族であり、教会員はお互いに兄弟・姉妹である。イエスが言われたように、神の御心を行う人こそ、イエスの兄弟姉妹である。
−マルコ3:32-35「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『私の母、私の兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」
・御言葉に基づく教えと諭しは、教会の長老にキリストが託された業であり、羊を飼う業である。
−ヨハネ21:17「三度目にイエスは言われた『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた『私の羊を飼いなさい』」。
・3節以下に孤児ややもめに対する特別の取扱いが述べられる。身寄りのないやもめは「神に希望を置き、昼も夜も祈り続ける人」であれば、教会の扶助の対象とされた。古代世界では制度化された公的貧民救済は行われていなかった。
−第一テモテ5:3-6「身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です」。
・エフェソでは、やもめとして教会の扶助を受ける者は、孤児の世話や、旅人の接待、困窮者の救済や病人の世話等の仕事を託されていた。それぞれが役割を持って働く、これが教会の姿である。
−第一テモテ5:9-10「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」。
・他方、若いやもめは再婚して自立し、身寄りのあるやもめはその親族が養いなさいと勧められている。今日の生活保護制度のさきがけがここにある。
−第一テモテ5:14-16「若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです・・・信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます」。

2.長老の役割

・長老として選ばれ、御言葉と教えのために働いているものには、十分な報酬を持って処遇するよう勧められる。脱穀している牛に轡がはめられず、自由に穀物が食べられたように、福音をのべ伝える者はそれによって生活することを許されている(第一コリント9:9−14にも同様の言葉がある)。
−第一テモテ5:17-18「よく指導している長老たち、特に御言葉と教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです。聖書には、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と、また『働く者が報酬を受けるのは当然である』と書かれています」。
・他方、教会指導者に反対する者もあり、告発があれば、慎重に審理しなさいと勧められる。
―第一テモテ5:19-22「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。罪を犯している者に対しては、皆の前でとがめなさい。そうすれば、他の者も恐れを抱くようになります。神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で、厳かに命じる。偏見を持たずにこれらの指示に従いなさい。何事をするにも、えこひいきはなりません。性急にだれにでも手を置いてはなりません。他人の罪に加わってもなりません。いつも潔白でいなさい」。
・また教会内には禁酒を唱える者たちもいたが、著者は健康のために葡萄酒を飲むことを勧める。
−第一テモテ5:23「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」。
・書簡では奴隷に対する教えがしばしば出てくる。主の前において全ての人は平等であるのに、何故社会においては奴隷と自由人の身分格差があるのか。特に奴隷の主人が同じ信徒である場合、それを受け入れるのは難しかった。
−第一テモテ6:1-2「軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名と私たちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです」。

3.施しと愛の業

・新約聖書では、施しと愛の業は区別される。施しとは貧者に金銭を恵むことだ。
−第一テモテ6:17-18「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」。
・他方、愛の業とは全人格的な行為、心迫られて、せざるを得ないから行う行為である。
−マタイ25:34−36「王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』」
・誉められた人たちには善行をした意識すらない。彼らは「いつ私たちがそのような善行をしたでしょうか」と質問する。彼らには困っている人々を助けるのは当然だという善意しかない、だから誉められようなどとは思わない。イエスは「私の兄弟である最も小さな者を助けたことは、私を助けたのと同じである」と彼らを祝福する。
―マタイ25:40「王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」
・マタイ25章は「人を助けることは難しくない」と教える。空腹の人に食べさせ、喉が渇いた人に飲ませ、旅人をもてなし、病人を見舞い、牢獄にいる人を慰めることは、誰にもできる。この教えが勧めるのは、愛の業とは、お金を人に施し、歴史に名を留めるような社会事業をすることではない。身近な人々に善行で仕えることなのである。平凡な人でも行える善行を勧めている。
・この御言葉を文字通り実行したのがマザー・テレサである。彼女は三度来日したが、その時語った「私は短期間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、僭越だと思い何もしませんでしたが、もし、女性が路上に倒れていたら、その場で語りかけ、助けていたと思います。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも愛されなという心の飢えはないでしょうか。誰からも必要とされず、愛されていないという心の貧しさはないでしょうか。物質的貧しさより心の貧しさはより深刻です。心の貧しさは、一切れのパンを食べられない飢えより、もっと貧しいことです。日本の皆さん、豊かさの中にも貧しさのあることを忘れないでください」。
・ロドニー・スタークは「キリスト教とローマ帝国」の中でなぜキリスト教が支持されたかを分析する。
−「福音書が書かれた紀元100年当時のキリスト教徒は数千人という小さな集団であり、100年後の紀元200年においても数十万人に満たない少数であったとされる。その彼らが紀元300年には600万人を超え、キリスト教が国教となる紀元350年頃には3千万人、人口の50%を超えたとされる」。
−「何故彼らはそのように増えたのか、それは「キリスト教の中心教義が人を惹き付け、自由にし、効果的な社会関係と組織を生み出していったからだ。その中心教義の一つが、「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、病人を見舞え」(マタイ25章)という言葉だ。ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、死者は数百万人にも上り、疫病の流行がローマの人口減少を招き、ついには滅ぼしたと考える歴史家さえいる。人々は感染を恐れて避難したが、当時の記録は、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬したと伝えられている。何故ならば聖書がそうせよと命じ、教会もそれを勧めたからだ」(紀元251年司教ディオニシウスの手紙、エウセビオス「教会史7.22.7-8」)。
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