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2019年6月5日祈祷会(第二テサロニケ2章、終末に備えるとは)

1.「終末は来た」として混乱する教会への手紙

・テサロニケ教会のある人々は、迫害の激化の中で、「終末はすぐに来る。いや、既に来ている。仕事などしている時などではない」と熱狂し、教会を混乱に巻き込んでいた。パウロはそのような教会の混乱を心配し、「惑わされるな」と伝える。
−第二テサロニケ2:1-2「主イエス・キリストが来られることと、その御許に私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、私たちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。
・テサロニケ人への第一の手紙に記された「終末の接近」が、テサロニケの信徒たちを慌てさせたのだろうか。初代教会の人々は、「自分たちが生きている間に終末が来る」と信じていた。
−第一テサロニケ4:14-15「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主の御言葉の通りに言いますが、主が再び来られる時まで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」。
・「世の終わりの前には悪の力が強まり、信仰者は迫害されるだろう」とマルコ13章はその模様を預言する。同じような伝承をテサロニケの人々も聞き、教会のある者たちは、自分たちに加えられる迫害や弾圧を、「終わりの時のしるし」と誤解したのかもしれない。
−マルコ13:6-13「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう・・・民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる・・・兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺す。 また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。
・人々は戦争・地震・飢饉・迫害等の体験する異常事態を終末の前兆と考える。歴史上、終末運動、あるいは再臨運動が繰り返されてきた。エホバの証人も統一教会も終末を強調して宣教を行う。しかし、それらは前兆でも何でもない、終末は悪の力を神が滅ぼされる時なのだとパウロは戒める。
−第二テサロニケ2:3-8「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです・・・今、彼を抑えている者があることは、あなたがたも知っている通りです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られる時の御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます」。
・これらの表現を文字通りにとる時、私たちは過ちを起こす。旧約以来の黙示文学的表現がここに為されており、私たちの知りうる範囲を超えている。終末や死の問題を強引に解釈する危険性をわきまえるべきであろう。
−第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。

2.どのように終末を迎えるべきなのか

・人々は悪の支配が終わって、神の国が来る事を待望する。イエスの弟子たちもそうだった。イエスは言われた「その時は神が定められるのであるから、あなたたちはそれを待て。そしてやるべき事をしなさい」。
−使徒行伝1:6-8「使徒たちは集まって『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる』」。
・終末は信じない者には恐怖の時であるが、信仰者には救いの完成の時だ。「その事をあなたがたは私の福音宣教を通して知り、受け入れたではないか」とパウロは語る。
−第二テサロニケ2:13-14「あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。神は、このことのために、即ち、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、私たちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです」。
・神に招かれた者に相応しく生きよ。つまらぬうわさや宣伝に迷わされず、教えを守って生きなさいとパウロは語る。
−第二テサロニケ2:15「兄弟たち、しっかり立って、私たちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」。
・混乱期には、「今は仕事などしている時ではない」とか、「終末に備えて行動すべき」という者が必ず現れる。その人々に、「毎日の生活の中で御言葉に従って生きることこそ求められている」ことを伝えていく。
−第二テサロニケ3:10-12「あなたがたのもとにいた時、私たちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私たちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」。

3.第二テサロニケ書の黙想(「働きたくない者は食べてはならない」の意味の変遷を考える)

・3章10節「働きたくない者は、食べてはならない」という一節が、後のキリスト教徒の職業観・労働観に広く影響し、「働かざる者、食うべからず」という表現が広く知られるようになった。ここで書かれている「働こうとしない者」つまり「怠惰な」者とは、あくまでも「正当で有用な仕事に携わって働く意志をもたず、働くことを拒み、それを日常の態度としている」者と解される。つまり、病気や障害によって働きたくても働けない人や非自発的失業者を切り捨てるような文言ではない
・この言葉はあくまでも1世紀当時の浮ついたテサロニケ教会の人々に即した勧告であって、全時代的・普遍的な労働の黄金律を示したものと解釈されるべきではない。しかし、古代から中世にかけての聖職者の生活には、この句が強く影響した。古代の教父たちも労働の重要性を説く際にこの句を引いた。さらにはベネディクト会の標語「祈りかつ働け」もまた、この言葉にもとづくものであるが、当時積極的に評価されたのは修道院での労働である。
・宗教改革が起こると、ジャン・カルヴァンは逆に、修道士や司祭が他人の汗によって養われているとして、この句の注解で聖職者に対する批判を展開した。また、宗教改革期に、世俗的な職業労働も積極的な評価の対象に入るようになった。その中でピューリタンのリチャード・バクスターは、全キリスト者に与えられた神からの義務として職業労働を位置づける際に、「働こうとしない者は」云々を神からの命令として引き合いに出し、市民的労働観の形成に寄与した。
・この句を労働価値説に基づいて「働かざる者食うべからず」と改変したのが、ソ連共産党の初代指導者レーニンである。彼は、同党の機関紙「プラウダ」(1929年1月20日発行)の論文で「働かざるものは食うべからず」は社会主義の実践的戒律であると述べた。この概念はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の1918年憲法で初めて定式化され、1936年憲法(スターリン憲法)第12条にもこの表現があり、同様の規定は第二次世界大戦後の東ヨーロッパの共産主義諸国の憲法にも見出すことが出来た。
・今日、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という言葉が、「生産能力のない者は生きるに値せず」、あるいは「経済の成長に寄与しない者は、この社会で生きるに値せず」という形での、自己責任を求める言葉に転嫁されている。聖書の文脈から離れた戒めの乱用である。「働いて、生きていくのは、社会人として当然の義務である」、しかし労働の低賃金化や長時間化、雇用条件の悪化等で、「働いても食っていけない、家庭も形成できない」という状況が広がっているのも事実である。「働けない者」、「食えない者」と共生する社会の在り方を、キリスト者は模索する必要がある。
・マタイ20:14「ぶどう園の労働者のたとえ」で、イエスは神の言葉として、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と語る。経済学者のジョン・ラスキンはこの譬えを基に資本主義経済を批判した著作「Unto The Last、この最後の者にも」(1860年、岩波文庫訳)を発表し、現代社会の不幸を救済するために、「神の国の経済学」を導入すべきであると主張した。彼の経済学は「人間を幸せにするための経済学」と言われており、それを読んだマハトマ・ガンジーが「人間の心の変革を起こす」独自の改革思想に目覚めた契機になったと言われている。またアジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・センはラスキンの思想を現代化した人だ。聖書の言葉は「裁き」ではなく、「救済」であることを念頭に釈義すべきであろう。
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