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2019年5月15日祈祷会(第一テサロニケ4章、神に喜ばれる生活をしなさい)

1.神に喜ばれる生活とは何か

・キリストを信じる者は、神に喜ばれる生活をしたいと願う。神に喜ばれる生活とは、清くなることだ。
−第一テサロニケ4:1-3「主イエスに結ばれた者として私たちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、私たちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。私たちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」。
・清くなるとは聖なる者になることだ。聖とは道徳的に正しいことではなく、神に結ばれた生活をすることだ。
−レビ記19:2「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である」。
・それは具体的には、相手を貪らない生活だ。イエスが言われた「心の貧しい者は幸いである」は、直訳では「神の前に貧しい人」、「自分に寄り頼むものが一切ない人」という意味だ。自分に寄り頼まないで神により頼む時、私たちは聖なる者となる。
−マタイ6:31-33「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。
・パウロは「みだらな行いを避け、異邦人のように情欲におぼれてはならない」と語る。不倫や姦淫が禁じられるのは、それが自分の情欲の満足を求めて、相手を踏みつけ、欺く行為になるからだ。不倫や姦淫は一時的に人に快楽を与えるが、周りの家族や友人との関係を壊していく。それは良いものを生まない。
−第一テサロニケ4:3-6「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。私たちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです」。
・神は私たちが聖なる生活をするように招かれた。それを知りながら無視する者はこの招きを汚すものだ。
−第一テサロニケ4:7-8「神が私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです」。

2.主の再臨を正しく待ち望め

・初代教会の人たちは終末=キリストの再臨が、自分たちの生きているうちに来ると信じていた。
−使徒行伝1:6-11「使徒たちは集まって『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける・・・こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた・・・彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。
・終末=キリストの再臨を待ち望む人々は、日常の仕事を軽視し、教会に寄食する人々もいた。パウロは、キリスト者はいかなる時にも、落ち着いた生活をして、日々の仕事に励めと戒める。
−第一テサロニケ4:11-12「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」。
・終末がいつ来るか、私たちは知らない。私たちにとって身近な終末は死である。死を前にした時、どのように生きるべきか。宗教改革者ルターの言葉は私たちに道を示す。
−マルテイン・ルター「明日、世の終わりが来ようと、私はりんごの木を植える」。
・再臨前に死んでいった家族の救いを気にする人もいた。パウロは復活を信じる私たちには不安はないと慰める。
−第一テサロニケ4:13-14「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。
・終末=再臨がどのような形で来るのか、パウロは自分の考え方をここに述べる。
−第一テサロニケ4:15-17「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」。
・このような終末・再臨を現代人が信じるのは難しい。しかし、御国がこの地上に来る日を私たちは待ち望み、為すべき事を為していく。今はわからなくともやがてわかる日が来るから、今は待つ。
−第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。

3.再臨信仰を考える

・初代教会の人たちは終末=キリストの再臨が、自分たちの生きているうちに来ると信じていた。再臨信仰こそが初代教会の原動力だった。
−ローマ13:11「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」。
・この再臨信仰が世界史の中では、「千年王国論」として登場する。ヨハネ黙示録21章では、神と悪魔の最終戦争で、悪魔は完全に敗北し、悪魔が支配していた古い世界があとかたもなく崩壊し、そのあとに絶対的な救済の新しい世界、神の国(「新しい天、新しい地」黙示録」21:1) が始まると預言する。千年王国論は全人類の最後の審判以前に、キリストがよみがえった聖人たちと共に地上に戻り、この地上で千年にわたって栄光ある王国を統治するという信仰である。
・キリストが統治する千年王国という地上のユートピアは、サタン= アンチ・キリストを暴力的な闘争において打倒することによってのみ達成され、それは革命的な性格を帯びている。17世紀半ばのイギリスにおいては、この千年王国論がピューリタン革命を推進する力ともなっていく。同時に、この千年王国の思想はピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタンたちによって新世界アメリカに移植される。1620年9 月、後にピルグリム・ファーザーズ(巡礼父祖) と呼ばれるピューリタンたちは、イギリスのプリマス港を出航、2か月の航海を経て、11月、ニューイングランドのケイプコッド沖にたどり着く。彼らはプリマスに入植し、アメリカに「丘の上の町」(マタイ5章14節)を建設しようとした。丘の上の町、キリスト教の聖都エルサレムを指す。 彼らは、自分たちの移住の目的は、大陸に世界の範となる「丘の上の町」、新しいエルサレムを打ち立てることであり、この大目的は共同体の構成員が心をひとつにして、神との間に結ばれた契約を果たすことによってのみ達成されるのだとした。
・終末論的千年王国論とは、善と悪の戦いの場であるこの世で、最終戦争が起こり、悪の完全な敗北によって世界は徹底的に破壊し尽くされ、そのカオスの後に新しい神の王国(「新しい天、新しい地」) が出現するというものである。歴史の一つのサイクルが終わって新しい世界が始まる。若さと新しさを崇拝するアメリカ、常に荒野との接点を求めてフロンティアに挑戦するアメリカ、世界のアンチ・キリストたちにたいしてキリスト教徒としての正義を追求し続けるアメリカ、このような現代アメリカのさまざまな姿のなかに、千年王国論的な終末論に特徴づけられる初期ピューリタンの原体験がいまだに息づいている。
・この終末論は私たちの生活と無縁ではない。モルトマンの「希望の倫理学」を翻訳した福嶋揚は「終末論をこの世の生活の中で考えよ」と語る。
−福嶋揚・終末論と資本主義「死ねばすべてが無に帰すと考える人間にとって、天に宝を積むことは無意味で抽象的なことである。天の富に関心を持たない生は、地上における富の最大化を目指し、地上だけで完結しようとする。そのような生の最も支配的な形態は資本主義である。・・・資本主義の破局的な運動を止めることは難しい。(その中で)キリスト教的終末論は、地上の富を最大化する生とは異なる生の可能性を開く一つの思想である・・・(聖書の物語は)地上の生の意味を、自己の富を最大化することではなく、社会の周辺へと追われ苦難の中にある人々を友にすることにある」(福音と世界、2014年12月)。
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