すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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2019年3月6日祈祷会(フィリピ2章、教会の一致を祈るパウロ)

1.フィリピの教会に和解を伝えるパウロ

・フィリピ教会は物心両面で常にパウロを支えてくれた教会であり、パウロは感謝していた。しかし、そのような教会の中にも争いがあった。パウロは敢えて二人の婦人の名前を出して、和解を勧める。信仰心に優れ、パウロを支えてくれた人でさえ、不和を抱える現実があった。
−フィリピ4:2-3「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです」。
・パウロはフィリピ教会に書く「主にあって一つになり、私を喜ばしてください」と。
−フィリピ2:1-2「あなたがたに幾らかでもキリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください」。
・キリストに従う決意をしたのに、何故分派や分裂が起こるのか、それはまだ肉の人だからとパウロは言う(第一コリント3:3-4)。
−フィリピ2:3-5「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」。
・2:6−11は「キリスト賛歌」と呼ばれ、初代教会の讃美歌をパウロが引用したとされる。そこにあるのは「キリストは神であられたのに人となられ、十字架に至るまで従順であられた」、それ故に「神はキリストを死から蘇らせ、天に上げられた」との告白である。イエスは自ら墓から出られたのではなく、自分で天に上げられたのではない。あくまでも神が死から蘇らせ、神が天に上げられた。
−フィリピ2:6-8「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
・「神が全てを解決してくださる」から、あなた方はその「神を寄り頼め」、「自分が、自分が」と主張して、教会を分裂させることは、イエスに従う者の取るべき道ではない。
−フィリピ2:9-11「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。

2.あなた方のために死んでも良いと語るパウロ

・パウロは、今、エペソの獄にいる。しかし、彼は自分が獄中にあることを喜んでいる。逮捕・入獄という非日常により、生活の安定が崩されたのに、何故喜ぶことが出来るのか。そのことによって福音が前進したと思えたからである。
−フィリピ1:12-14「兄弟たち、私の身に起こったことが、福音の前進に役立ったと知ってほしい。私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。
・フィリピの教会はパウロの伝道で立てられた。教会は巡回伝道を続けるパウロのために祈り、支援を続けた。今回もパウロが捕らえられたと聞き、エパフロディトに慰問の品を持たせて、エペソに派遣した。パウロは教会の支援に感謝すると共に、いま自分が獄にあってフィリピの人々のために働けないことを、心残りに思っている。パウロの心は彼らと共にあり、パウロがいない今も主に従順であるように祈る。
−フィリピ2:12「愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい。恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。
・パウロは「つぶやきや疑いを捨てなさい」と語る。フィリピの中にもそのような不平不満があったのであろう。神の前に恐れとおののく時、不平や理屈は出てこない。「不平と理屈」、口語訳は「つぶやきと疑い」と訳されている。このつぶやきこそ、救いを約束する神に対する不服従だ。私たちも神に出会い、信じる者とされたが、救いはまだ途上にあり、完成していない。約束されたものを手中に出来ない緊張がつぶやきを生む。つぶやいた者は神を疑う「神は本当におられるのか」。このつぶやきと疑いが私たちを神から離れた「傷のあるもの」とする。
−フィリピ2:15-16「つぶやきや疑いを捨てなさい、そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」。
・パウロは獄中にあり、死の脅威の中にある。人間としては、釈放されて再びフィリピを訪れることを願っているが、適わないかもしれない。彼は死を覚悟し始めている。それが神の御心であれば受け容れていこうと思っている。民の罪を購う「贖いの日」には、犠牲の動物の血が祭壇に注がれ、祭壇を清める。パウロが死に、その血がフィリピ教会の祭壇を清めるのであれば、「あなたがたのために喜んで死のう」とパウロは言う。
―フィリピ2:17−18「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」。

3.共に喜ぶものとなりなさい

・パウロは獄中にあって動けないため、弟子テモテをフィリピに送る。テモテを暖かく迎えて欲しい教会に頼む。テモテは自分のためではなく、キリストのために生きている。だから、彼に習いなさいと。
−フィリピ2:19-22「私はあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのように私と同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」。
・今はとりあえずテモテを送るが、パウロ自身もやがてフィリピを訪れたいと希望を述べる。
−フィリピ2:23−24「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」。
・パウロはエパフロディトを教会に執り成す。エパフロディトはパウロに仕えるために教会から派遣されたが、病気になって失意の内にフィリピに帰る。「彼を暖かく迎えて欲しい。彼は主の為によく頑張った」とパウロは思いやる。
−フィリピ2:25-29「エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼は私の兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、私の窮乏のとき奉仕者となってくれました・・・彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました・・・そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、私も悲しみが和らぐでしょう。主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。私に奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」。
・信仰は、「キリストにある愚者」を生む。ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」の中で、イエスが来られて何が変わったのかを社会学的に分析した。「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストにある愚者とは、「世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストが来られた恵みに応えることが出来るのか」を考える人たちのことだ。パウロもテモテもエパフロディトもキリストにある愚者であった。この人たちは、キリストが自分のために死んで下さったことへの応答として人生を生きた。私たちもそうありたい。
−第二コリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。
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