すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.異言を語っても愛がなければ虚しい

・第一コリント13章は「愛の賛歌」として有名だ。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってくる。このコリント13章に何故突然に愛の讃歌が出てくるのか、それは愛の賛歌を書かざるをえない状況がコリント教会にあったからだ。教会の中に、派閥争いがあり、姦淫があり、財産を巡る争いもあった。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱えていた。そこには愛が欠けていた。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送る。
・コリント教会では、霊的賜物としての異言が重視され、異言を語らない者は霊的賜物を受けていないと軽蔑された。そこにも相手を見下す愛の欠如がある。パウロは、異言をあまりにも重視する教会の姿勢を戒めている。
−1コリント14:1-4「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」。
・今日の言葉で言えば、異言は霊的熱狂、預言は説教の言葉である。パウロは異言を無視するのではないが、それは教会を形成しないから、「教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る」(14:18-19)と述べる。13章の愛についての言説もその文脈で語られている。ここでは人間的な愛(エロス)が讃美されているのではなく、アガペーが語られている。
−1コリント13:1-2「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」。
・どらやシンバルは異教の礼拝で用いられ、人を陶酔に導くための手段となる。単調なリズムを繰り返し聞くことにより、自己催眠が始まる。黒人教会で歌われるゴスペルも、同じ節が何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーに招いていく。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではない。また霊に酔って恍惚状態になって語られた言葉は誰も理解できない。それは騒がしいどら、やかましいシンバルと同じだ。
−1コリント14:13-16「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい・・・仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです」。
・今日、世界中で最も成長している教会は異言や神癒を強調するペンテコステ教会だ。人々は日常を離れて陶酔できる場所を求めている。彼らは伝統的教派を「ラオデキア教会のように熱くも冷たくもない」と批判する。その批判は当たっている。しかし同時に一時的な陶酔で人生の諸問題が解決されるのでもない。
−ヨハネ黙示録3:15-17「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

2.愛は教会を造り上げる

・コリントの人々は、分派を形成して争っていた。彼らは、自分たちの知識や信仰を誇り、高ぶっていた。これは全て「愛の欠如による」のだとパウロは迫る。13章4節から始まる言葉は有名だ。
−1コリント13:4-7「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
・ここには愛に関する15の定義があるが、そのうち八つは否定形だ。「妬まない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形なのか。コリントの人々は「妬み、高ぶり、いらだつ」存在だったからだ。だから、「妬みな」、「高ぶるな」、「いらだつな」とパウロは語る。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではない。愛とは誰かを愛するという感情的なものではなく、相手に仕えるという信仰の出来事なのだ。感情は消えるが、信仰に基づく愛は永続する。終末の時、異言も説教もすたれるが、愛は滅びない。
−1コリント13:8-10「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」。
・イエスが教えてくれたことは、愛とは他者のために死ぬことだということだ。
−ヨハネ15:12-13「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
・霊的賜物を受けて、天上の世界を垣間見たとしても、それは不完全であり、私たちには全てはわからない。それを完全に知っているように話すことは誤りだ。愛がなければ、異言も神学も無益である。
−1コリント13:12-13「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。

3.コリント13章をどう読むか

・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがある。本田哲郎はそれを説明する。
−本田哲郎・講演記録から「人の関わりをささえるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人等への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書で言う愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続けるかぎり、薄れも途切れもしない」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。
・エロスとフィリアは人間関係を豊かにする愛だ。夫婦が愛し合い、友を大切にすることはとても大事な愛だ。しかし、それらは感情的な愛であり、その基本は好き嫌いであり、人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻する。人は自分のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消える。この愛の破綻に私たちは苦しむ。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じている。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要なのだ。
・愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではない。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけだ。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。しかし、神はそのあなたを子として下さった。それを知った時、教会の兄弟姉妹も同じ神の子として、あなたの兄弟姉妹になる。私たちは愛をLoveと呼ぶことを止めなければいけない。愛は感情ではない。聖書の愛(アガペー)に最も近い言葉はRespect、尊ぶ、大切にする心だ。
・マルテイン・ルーサー・キング牧師は、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行った。当時、キングは黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような中で行われた説教だ。
−キングの説教から「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。
・キングは歴史を導く神の力を信じた。だから自らの手で敵に報復しないで、裁きを神に委ねた。私たちには敵を好きになることはできない。「好き」は感情であり、私たちは感情を支配することはできないからだ。しかし、アガペーは感情ではなく、意思であり、賜物だ。私たちは嫌いな人を好きになることはできないが、彼らのために祈ることはできる。敵対する人のために祈りは真心からではなく、形式的なものだ。しかし祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をする。祈りながら、その人を憎み続けることはできない。何故ならば、神の赦しを乞い求めながら、他方で兄弟の赦しを拒むことはできないからだ。この時、私たちは「神の子」となる。
・私たちが教会で求めるべきは、自己の救い、自己の達成ではなく、「他人の利益を追い求める」ことだ。他者の救い、隣人の喜びがわが喜びになった時、教会は教会になり、私たちは本当の生きる喜びを知る。
−ボンフェッファー「獄中書簡」から「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」439-440p)。
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