すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  第一コリント(二巡目)  >  2018年6月27日祈祷会(1コリント10章、偶像礼拝から離れよ)


1.イスラエルの救いと滅びから学びなさい

・コリントは当時の世界有数の大都市であり、ギリシャ・ローマの神々を祭る様々な神殿があった。代表的な神殿は、アフロディト神殿(愛の女神)、アポロ神殿(娯楽と若さの神)、アスクレピオス神殿(癒しの神)、ディオニュソス神殿(ぶどう酒の神)等である。コリントの市民たちは、これらの神殿で行われる食事や祭りに参加していた。コリント教会の人々も、これは自分たちの文化、慣習であり、神殿に参拝し、食事をしても汚れることはない、偶像の神などいないのだからと考えていた。今日の日本で考えれば、クリスチャンは明治神宮に初詣に行って良いのか、子供の誕生のお祝いや七五三に宮参りしても良いのか、お寺にある先祖の墓にお参りしても良いのかという問題になる。夫や妻の片方がノンクリスチャンの場合、起こりうる問題だ。
・パウロはコリントの教会員に対して、「偶像の前での食事は避けなさい。それは弱い人をつまずかせるだけでなく、あなた自身にも霊的危険を及ぼす」と語る。パウロは偶像礼拝の慣習から抜け出すことの出来ないコリント教会の人々に、旧約の事例を思い起こすように勧める。「あなた方はキリストにつく洗礼を受けることで異教的な過去を捨てた。それはイスラエルの人々がエジプトを棄てて約束の地を目指したのと同じだ。しかしエジプトを出た全員が約束の地に入ったのではなく、大部分は荒野で死んだ」。
−1コリント10:1-5「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。私たちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。しかし彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」。
・「あなた方も福音から離れると同じ結果を招く」とパウロは警告する。不用意な偶像礼拝への参加は「キリストを試みる」ことであり、「キリストを試みる」者は信仰から離れて行く。
−1コリント10:7-12「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない・・・彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう・・・彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました・・・不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面している私たちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」。
・神は見えない。だから人は見える神の像を刻もうとする。神の声は聞こえない。だから人は占いや霊媒で神の声を聞こうとする。偶像礼拝は常に起こる。そして偶像礼拝は常に罪を伴う。
−出エジプト記32:4-6「彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った・・・民は座って飲み食いし、立っては戯れた」。

2.偶像に供えられた肉を食べることの意味

・あなた方は、「自分たちは強いから、偶像の神殿に行き、そこで飲み食いしても信仰は揺らがない」と言う。しかし、偶像の前で食事をすることはキリストを試みることだ。悪霊は愚かではない。
−民数記25:1-3「イスラエルがシティムに滞在していた時、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた」。
・偶像礼拝を避けなさい。それはあなた方を死に導くのだ。
−1コリント10:14-15「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。私はあなたがたを分別ある者と考えて話します。私の言うことを自分で判断しなさい。」
・私たちはキリストの血と肉に預かる食卓につく者だ。悪霊の食卓につくのは止めなさい。
−1コリント10:16-21「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか・・・主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」。
・パウロは「偶像の神殿に行き、そこで飲み食いする」ことは偶像礼拝だという。しかし、偶像に捧げられた肉を食べることについては、食べてもかまわないとする。当時市場に出回っていた肉の多くは、偶像に捧げられた肉が払い下げられていた。しかし誰かが、「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べるのを止めなさいと彼は語る。肉が汚れているのではなく、汚れていると思う人の前で食べることは罪なのだ。
−1コリント10:28-29「もし誰かがあなた方に『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません。私がこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうして私の自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう」。
・「異教の神殿で食事をする」とは、戦前の日本の教会には大きな問題だった。戦前の日本では天皇は「現人神」(あらひとがみ)であり、天皇のために戦死した人々を祀る靖国神社を頂点とする護国神社参拝は国民の義務とされていた。戦争が拡大すると参拝は強制され、1932年上智大学の学生の一部が靖国神社への参拝を偶像礼拝として拒否したため、「キリスト教は日本の国体と相容れない邪教である」との非難が高まり、やがて宗教団体法が制定され、日本の教会は国家の統制下に入る。
・わずか70年前の出来事であり、コリント教会で起こった問題は私たちの問題でもある。私たちが異教社会の日本でキリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけて行くのか、仏式の葬儀に参加すべきか、親の位牌を継承してもよいのか、死後にお寺の墓地に埋葬されても構わないのか、現代の私たちも真剣に考えるべき問題であり続ける。

3.試練の意味

・パウロの生涯は試練の連続だった。しかし主は必ず救いの手を伸べられた。パウロは自らの体験を通じて、「耐えられない試練を神はお与えにならない」と信徒たちを励ます。信仰の目で見る時、試練こそ祝福の道なのだ。今非常な困難の中にある人は喜べばよい「神はこの困難を私に下さったほどに、私を強くして下さった」と。
−1コリント10:13「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。
・あなた方はキリストの手紙、キリストの良い香りを持ち運ぶ者だ。その自覚を持ちなさい。
−1コリント10:31-33「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。私も、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。」
・神に従うとはこの世の道理に背を向けることであり、当然、世との摩擦が起きる。その時、キリストは私たちのために執り成しの祈りをもって支えてくださることを思い起こしなさい。
−ヨハネ17:14-16「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世に属していないように、彼らも世に属していないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないのです。」
・「私が世に属していないように、彼らも世に属していない」。信仰も世に同化された時、偶像化する。カトリック教会はマリア礼拝を止められないし、アメリカのキリスト教は強い者を讃える現世利益の信仰になっている。聖書から離れた信仰は偶像礼拝に過ぎない。
-森本あんり・宗教国家アメリカのふしぎな論理から「アメリカにおけるキリスト教の土着化で最初に挙げられるキーワードは、“富と成功”という勝ち組の理論である。聖書では神と人間の関係を、神は人間が不服従な時にも一方的に恵みを与えてくれるという、“片務契約”で理解する。ところが、ピューリタニズムがアメリカに移植される過程で、片務契約は“双務契約”へと転移していく。双務ということは、人間は神に従い、神は人間に恵みを与える義務がある。この論理の行き着く先には「神の祝福を受けているならば、正しい者だ」という考え方が待ち受けている。自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。神が祝福してくれているのだから、自分は正しいのだ。そこには十字架を担うキリストはいない」。
プリンタ用画面
前
2018年6月20日祈祷会(1コリント9章、宣教者のあり方)
カテゴリートップ
第一コリント(二巡目)
次
2018年7月4日祈祷会(1コリント11章、礼拝における秩序)