1.偶像に供えられた肉

・コリント8章の主題は「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」という問題だ。パウロは、性に関わる諸問題を5-7章でとりあげ、次に、偶像への供え物に関わる問題を8-10章で取りあげる。コリント教会からの質問の順序に沿ったものであろう。性の乱れと偶像礼拝とは深く結びついていた。コリントのアフロディア神殿には、千人近くの巫女(神殿娼婦)がいて、巡礼者に性的な享楽を奉仕していたという。偶像礼拝は性的退廃(ポルネイア)を伴う。そのコリント教会で問題になっていたのは、「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」であった。当時、神殿に供えられた犠牲動物の肉が払い下げられて、市中に出回っていた。ユダヤ教の食物禁止規定の中で育ったユダヤ人キリスト者はそのような肉を食べるのは罪だと考えていた。下記のエルサレム会議の結論はユダヤ人キリスト者の理解を示す。
−使徒行伝15:28-29「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」
・自由主義者であるギリシャ人信徒は、「偶像の神などいないのだから、神殿に供えられた肉を食べても良い」として、肉を食していた。パウロ自身も食べても構わないと思っていた。
−1コリント8:4「偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています」。
・ユダヤ人のパウロが、エルサレム教会の偶像肉禁止令から解放された発言をしていることに注目すべきだ。しかしパウロは同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかける。
−1コリント8:7「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」。
・肉を食べるか、食べないかは信仰の本質に関わる問題ではない。だから食べても良いし、食べなくとも良い。しかし「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘う」時、「つまずく人がいてもなお食べる」ことは、罪であるとパウロは語る。
−1コリント8:8-10「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません・・・ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」。
・問題の本質は「肉を食べるか、食べないか」ではなく、「隣人にどう配慮するか」だ。
−1コリント8:11-12「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」。
・「食べることが正しいのか」ではなく、「食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が中心課題だ。パウロは神殿に供えられた肉を食べることを罪とは思わないが、傷つく人がいる以上食べないと語る。
−1コリント8:13「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」。

2.違う人に配慮すること、それが愛だ。

・問題の核心は偶像に供えられた肉を食べるのが良いのかどうかではなく、それを罪だと考える人をどう配慮するかだ。パウロは語る「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。
−1コリント8:1-3「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」
・ローマ教会でも同じような争いが起こっていた。
−ローマ14:1-2「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです」。
・「食べる人は主のために食べるし、食べない人は主のために食べない。食べ物のことで争うのを主が喜ばれるとあなたは考えるのか」とパウロは問いかける。
−ローマ14:10「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」。
・問題になっているのは食物ではなく、愛だ。食べない人のことを配慮するのが愛=アガペーだ。
−ローマ14:15-16「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。
・教会を造り上げるのは、「誰が正しいのか」の論争ではなく、「異なる考えの人を認め合う」愛だ。
−1コリント10:23-24「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・神を信じるとは、十字架において示された神の愛と憐れみを信じることだ。人を愛するとは、自分の正しさを捨て、相手の気持ちに配慮することだ。
−1コリント6:6-7「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判沙汰があること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。

3.キリスト者の自由とは何か

・パウロは偶像に捧げられた肉の議論を10章でも続ける。パウロの態度ははっきりしている「食べても差し支えない」。しかし「つまずく人がいれば食べるな」。
−1コリント10:25-28「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです・・・自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません」。
・彼は語る「すべてのことが許されているが、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。
−1コリント10:23-24「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・ここにおいて、キリスト者の生活の基本が何かが明らかになってくる。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)。「造り上げる」、オイコメドオー、建設するという言葉が用いられている。「教会を立て上げていくのは知識ではなく、愛だ」、「知識に基づく強さ」ではなく、「愛に基づく弱さ」を私たちは求めるべきなのである。キリスト者の自由とは「隣人と共にある自由」であり、隣人がつまずくのであれば、自分が正しいと思うことも断念する自由だ。キリスト者は何を食べても良い、「地とそこに満ちているものは、主のもの」(10:26)だからだ。しかし自由を自己追求のためには用いない。肉だけでなく、お酒やたばこを嗜むことも自由だ。しかし、妊娠した女性が胎児のためにお酒やたばこを控えるように、キリスト者は隣人のために自分の自由を制約する。損得以外の価値観を持ちえない現代社会においてこの自由は誠に貴重であり、なんとしても伝えたい自由である。
・何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約する。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することだ。キリストが来て下さった、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは他の人を赦す存在になりうる。たとえ誰かが私たちを憎み私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしない。キリストは彼のためにも死んでくださったのだから。「自分と違う人を受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを造り上げるのではない」とのパウロのメッセージが8章の中核であろう。