すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.兄弟を訴える者への叱責

・コリント教会の中で、経済的トラブルから、一人の教会員が他の教会員を訴えるという事件が起きた。教会の兄弟同士の間で訴訟沙汰が起きるとは、パウロには理解できないことであった。
−1コリント6:1「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こした時、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」。
・ユダヤ人にとって、非ユダヤ的な法廷に訴えて物事を解決することは、神の律法を冒涜することであった。彼らは、神の律法に照らして、家族的に、物事を慮りながら、律法の解釈者であるラビに相談し、解決した。パウロも当然にこのユダヤ的考えの中にある。従って、ここで問題になっているのはギリシャ人信徒であろう。神の律法を持たない彼らは、訴訟による解決を傾向とした。その彼らにパウロは語る「争いが生じた場合、なぜ教会のしかるべき人の仲裁ではなく、世の裁判所に訴えるのか」と。
−1コリント6:2-4「聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。私たちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活に関わる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活に関わる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」。
・兄弟の間に争いがあれば、それは教会内で解決すべきではないのか。さらにパウロは語る「そもそも不正があったのなら、何故その不正を甘受しないのか。だまされたのなら、損をしたままでいないのか」と。
−1コリント6:5-7「あなたがたを恥じ入らせるために、私は言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判沙汰があること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。
・訴えること自体が、「兄弟を赦し愛せよ」というキリストの教えに対する失敗だ。パウロは裁判制度を否定するのではない。それはそれで意味がある。しかし、キリスト者はこの世の基準とは別な基準に動かされるのだ。
−ルカ6:27-28「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。
・あなた方はかっては罪の中にあった。しかし、キリストの死に預かるバプテスマを受けて清められた。古いあなたは死んだのに、まだ前と同じことをしている。どこにキリストの血の証しがあるのか。
−1コリント6:8-11「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。

2.体を汚してはいけない

・コリント教会の中には、体は滅びるものであり、肉欲に従ってもみだらな行為をしてもかまわない、娼婦と交わって体が汚れても、魂は汚れないのだと主張する者もいた。「そうではない」とパウロは言う。
−1コリント6:12-14「私には、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。私には、すべてのことが許されている。しかし、私は何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます」。
・娼婦と交わる者は娼婦と一体になる。あなたの体はキリストのものであることを知らないのか。娼婦と交わることはキリストの体を汚すことなのだ。
−1コリント6:15-16「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています」。
・性的な結合は男女を一体とし、一つの肉とする。不品行は自分の体に対する罪なのだとパウロは言う。性は神から与えられた祝福だ。その祝福を汚してはいけない。
−ローマ1:26-27「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」。
・不品行をやめよ。それは不道徳なだけでなく、キリストの肢体に対して罪を犯すことだ。
−1コリント6:17-18「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。
・私たちは「罪を犯す自由」ではなく、「罪を犯さない自由」を選び取る。何故ならば、私たちはキリストの血によって贖いとられた存在なのだ。
−1コリント6:19-20「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。

3.同性愛は罪なのか

・パウロはコリント6章で同性愛者を罪びととして非難している(男娼、男色をする者)。またローマ1章でも、同性愛を否定する。2千年前のユダヤ・キリスト教倫理では「同性愛は忌むべきもの」だった。しかし現代では同性愛が遺伝子の問題(生まれつきの性向)であることに理解を示す人も増えてきた。
−ローマ法王フランシスコ「それは問題ではない。神はあなたをこのようにつくり、このままのあなたを愛している。あなたも自分自身を愛しなさい。人々の言うことを心配してはいけない」(2018.5.28、CNN)。
・日本でも同性愛者であることを明らかにしている牧師がいる(日本基督教団三・一教会主任牧師、平良愛香氏)。平良牧師は、「神がつくったものに不良品はない」と語り、同性愛者も異性愛者も変わりなく、同様に祝福されるとしている。しかしキリスト教内では、そもそも同性愛自体認められないとする考え方、その傾向は認めるが行為は認めないとする考え方、また信者が同性愛者であることは受け入れられるが、牧師・司祭が同性愛者であることは容認できないとする派などもあり、統一的な見解はない。近年の先進諸国では、同性愛は異性愛と同じく個々人の生まれもった性質であり、人間性を損ねる可能性のある性的逸脱や性的放蕩と同一視すべきではないこと、同性愛を含むセクシュアルマイノリティは長年にわたり不当な偏見・差別を受けてきたという理解が一般に広まりつつある。
・日本においては、同性愛者の勉強会グループが、東京都の公共施設を利用しようとした際に、同性愛者であるという理由で利用拒否されたことをめぐって裁判が争われ、一審(1994)、二審確定(1997)とも、原告である勉強会グループが勝訴し、利用拒否した都側が厳しく批判された。この事件の直接的な原因の一つに、同施設を利用するキリスト教青年団体によるいやがらせ、彼らによる聖書を用いた同性愛者に対する断罪があった。彼らは「聖書によれば同性愛は罪。聖書の言うところをそのまま受け入れなければならない」とする立場を体現するもので、キリスト教内にはこのような見方も根強く存在している。
・しかし、古代諸文献の丹念な調査や、最新の古代宗教史研究などにもとづいて、「聖書によれば同性愛は罪」は、一つの解釈にすぎず、聖書には同性愛を断罪する内容は書かれていないとする研究者も少なくない。平良牧師は、こういった聖書理解について、「聖書には身体障害者をけがれとする記述や、奴隷制を容認または肯定する記述などもあるが、キリスト教にはそれらを克服してきた歴史がある。たとえ聖書に同性愛などのセクシュアリティに対して、否定的な部分があったとしても、キリスト教は、これを乗り越えてゆくことができるはずだ」としている。
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