すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.兄弟を裁くな

・ローマ教会では戒律を重んじるユダヤ人クリスチャンと、自由を重んじる異邦人クリスチャンとの争いがあった。ユダヤ教では厳しい食物規定があり、それを守ることが信仰だと考える人々が多かった。
−使徒行伝15:19-21「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」。
・当時は異教神殿で動物犠牲として捧げられた肉が市中に出回っており、肉を食べるという行為は偶像の神に捧げられたものを食べることとなり、ユダヤ人信徒はためらった。自由主義者たちは、禁欲的な人々を「信仰の弱い者」として軽蔑し、ユダヤ人信徒は節度を守らない異邦人信徒を「罪人」として裁いた。
−ローマ14:1-2「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」。
・食べる人は食べない人を嘲り、食べない人は食べる人を裁く。「教会が本質的でないことで争うのは愚かであり、イエスの名を汚すことだ」とパウロは述べる。日本の教会の多くは米国人宣教師によって立てられ、彼らのピューリタン的禁酒・禁煙の慣習が信仰の出来事として強制されたために、多くの日本人がつまずいた(クリスチャンになればお酒もたばこもやめなさいと勧告された)。
−ローマ14:3-4「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」。
・ユダヤ人は祭日を守り、断食を重んじた。特定の日を守るべきかどうかについても争いがあった。アメリカの一部の宣教師たちは、日曜日を守れないような職業(例えば百貨店勤めや理容師等)は辞めなさいと勧告し、日曜日午後の学校のクラブ活動も禁じた。
−ローマ14:5「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」。
・その現実に対し、パウロは、「何のために安息日を守るのか。主のためではないか。自分の正しさではなく、キリストの正しさを求めよ」と語る。
−ローマ14:6-8「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」。
・生活や習慣の違いが、信仰の違いを生む。晩餐や洗礼理解も人により異なる。その時、パウロは「異なる人を排除するではなく、信仰の多様性を認めて行きなさい。裁かれるのは神であって私たちではない」と語る。
−ローマ14:10-12「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです・・・私たちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」。

2.愛によって歩め

・パウロ自身は全てのものは神から与えられたものであり、何を食べても良いと考えていた。しかし、食べることによって誰かが傷つくのであれば、「私は食べない」と言う。
−ローマ14:13-14「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています。」
・全ては自由であるが、兄弟ゆえにその自由を抑制する。それがキリスト者の自由、愛に基づく自由なのだとパウロは語る。
−ローマ14:15-16「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」。
・体を清く保つために肉を食べないと決意することは良いことだ。その良いことが他の信仰者を傷つけるときは、もはや悪になる。何を食べ、何を飲むかは、生活の出来事であって、信仰の出来事ではない。
−ローマ14:17-21「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」
・食べたい人は食べ、食べたくない人は食べなければ良い。そのことに確信を持って、同時に他への強制とならないようにする。教会は論争する場ではなく、愛し合う場なのだ。
−ローマ14:22-23「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」

3.キリスト者の自由

・日本基督教団では、「主の晩餐式(聖餐式)」を巡る争いが起きている。「未洗礼の人は主の晩餐にあずかってはいけない」と考える教団主流派の人々が、未洗礼者を含む礼拝参加者全員への晩餐を実行し、是正勧告に応じなかった牧師を免職した。主の晩餐を洗礼者だけに限るか、全ての人に開放するかは、いずれも聖書的根拠があり、神学的に争いのある事柄だ。しかし、それが牧師の免職まで行けば、まさにローマ教会と同じ「裁き」がなされていると考えざるを得ない。クリスチャン人口1%の日本で求められているのは、いまだキリストを受け入れない人々にどのように伝道すべきかの知恵と実践であり、外部の人々にどちらでもよい事柄で内輪もめすることではない。
・教会において求められるのは人の正しさではなく、神の正しさだ。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(14:17)とパウロは語る。「肉を食べてもよいか」、「未受洗者に晩餐を配っても良いか」という問題は、「神はこの人をも受け入れられた」、「キリストは彼のためにも死なれた」という真理の前では些細な問題だ。その些細な問題で教会を壊してはいけない。自分の正しさだけを主張していく時、教会は壊れる。
−第一コリント10:23-24「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない。」
・教会の中には信仰の立場の違いが生じるのは当然だ。その時、異なる人を排除するではなく、多様性を認めて行くのが教会だ。何故ならば、裁きをなさるのは神であって私たちではないからだ。パウロは語る「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。なぜ兄弟を侮るのですか。私たちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(14:10)。この世にあっては「違う者」は排斥される。しかし教会の中では、「食べ物のことで兄弟を滅ぼさない」(14:15)。仮に教会でこの世と同じ裁きがされているとしたら、あなた方の信仰はどこにあるのかとパウロは問いかける「もう互いに裁き合わないようにしよう。つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しよう」(14:13)。お酒を飲んでもかまわない、全ては許されているのだから。しかし、あなたがお酒を飲むことで兄弟がつまずくのであれば、「兄弟の前でお酒を飲むのを止めなさい」とパウロは語る。
・何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約する。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することだ。キリストが来て下さった、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは根底から変えられる。キリストが私たちを赦してくれたのだから、私たちも他の人を赦す。たとえ誰かが私たちを憎み私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしない。キリストは彼のためにも死んで下さったのだから。
・病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではない。貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけではない。しかし、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会だ。外部状況は変わらなくとも内側から新しい人間に変えられて行くのが、教会だ。その教会にあって、「互いに争いあうのは止めなさい。自分と違うものを受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを作り上げるのではない」とのパウロのメッセージこそ、核心となる使信なのである。
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