1.異邦人の救い

・パウロが『ローマの信徒への手紙』を書いた当時のローマ教会は、多数派の異邦人信徒と少数派のユダヤ人信徒で形成されて、両者は対立していた。ローマ帝国の首都には、多くの国々から人々が集まり、その中の少数のユダヤ人キリスト教徒たちが信仰の中心となり、ローマ教会が立てられたが、今は異邦人信徒が多数になっていた。パウロが17節で「あなた」と呼びかけているのはこの「異邦人たち」である。
−ローマ11:17−18「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」
・パウロはユダヤ人信徒と異邦人信徒を二本のオリーブの木にたとえて説明している。その一本は台木に植えられた栽培種のオリーブで、他の一本は野生種のオリーブである。栽培種のオリーブの実は食べられる実がなるが、野生の実は食べられない。パウロはイスラエルが栽培種のオリーブであり、一方の異邦人は野生種のオリーブであるとする。パウロはユダヤ人がイエス・キリストを拒んだことによって、救いが異邦人に及んだことを、異邦人の側から言うと接ぎ木されたと説明している。折り取られた枝がユダヤ人で、その後に接ぎ木された野生のオリーブが異邦人である。異邦人は自身の素質や力によって選ばれたのではないのだから、「誇るな、神を恐れよ」と戒めている。
−ローマ11:19−20「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」
・神を恐れるということはどんなことか。それは神の厳しさを恐れるだけでなく、神の慈しみを信じ敬うことにある。異邦人は本来の枝ではなく、接ぎ木された枝であること覚え、謙虚であるべきだ。
−ローマ11:21−22「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまる限り、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」
・今は信仰につまずき、神の救いからはずされているユダヤ人も、やがて神のもとに立ち帰るならば、神は再び彼らを接ぎ木して元に戻してくださるだろう。ユダヤ人は元々神に、つまりオリーブの木に繋がっていた枝なのだから、それを元の木に再び接ぎ木することはたやすいことである。
−ローマ11:23−24「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」
・パウロはローマの異邦人信徒たちに言う「ユダヤ人の枝が折られて異邦人であるあなた方が接木された。しかし、思い上がってはいけない。あなた方が神の慈しみに留まらないならばあなた方も切られるのだ」(11:17-22)。その後の歴史はパウロの懸念した通りに進んだ。多数者となった異邦人キリスト者は、やがてユダヤ人を「キリスト殺し」として迫害し始める。世界史はこの2000年に渉るユダヤ人迫害の歴史を伝える。ナチス・ドイツによる600万人のユダヤ人虐殺はこの延長線上にある。ユダヤ人も異邦人も救いに値しないのだ。
・ここから教えられることは、人が何かをする、例えばバプテスマを受ける、律法を守る等が救いの条件ではないと言うことだ。救いはただ神の憐れみから来る。罪人の私たちを神は憐れんで下さったのだから、バプテスマを受けないままに死んで行った私たちの家族もまた憐れんで下さるという希望を私たちは持つのだ。パウロは神に捨てられたかに見える同胞ユダヤ人も救われるという希望を持った。キリストは陰府にまで下られたとの聖書の証言(第一ペテロ3:18-19)を通して、私たちも、キリストを知らないままで死んで行った家族にも、救いの手は差し伸べられていることを知り、希望を持つことが出来る。

2.イスラエルの再興

・パウロはローマ帝国各地に伝道し、異邦人を主とする教会を誕生させた。パウロはユダヤ人がかたくなに救いを拒むことにより、異邦人全体に救いが及び、その影響で全イスラエルが救われることが神の秘められた計画であることを、イザヤ59:20−21を思い起こして理解した。そこに書かれているヤコブはイスラエルを象徴し、イスラエルの民のもとへ神が救い主として来られることを言っている。
−ローマ11:25−27「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。『救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、私が、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶ私の契約である。』」
・福音について言えばイスラエルは今、神に敵対しているが、神の選びについて言えば、先祖たちにより愛されている。神の恵みと憐れみは、人間の一時的な条件で取り消されることはない。
−ローマ11:28−29「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
・異邦人のあなた方は、かつては神を知らず、神に不従順だったが、今はユダヤ人の不従順によって神の憐れみを受けている。神はすべての人を分け隔てなく憐れまれる。パウロはここまで語って、民族や人種を越えすべての人を救う神の遠大な計画に驚嘆する。
−ローマ11:30−33「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」
・パウロは人の知恵では量りしれない神の計画に感動し、神を賛美して、9章から11章までを締めくくる。
−ローマ11:34−36「『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。』すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」

3.神の知恵を賛美する

・パウロは言う「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでだ」と。パウロは今、世界の中心地ローマに行こうとしており、その準備のためにローマ教会に手紙を書いている。エルサレムから始まった福音が、世界の中心地にまで伝わる時こそ異邦人全体が救いに達する時であり、その時復活したキリストが再臨され、ユダヤ人の救いが始まるとパウロは期待していた。だからパウロは一刻も早くローマに行き、さらには地の果てのイスパニアに行きたいと望んだ。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける」、シオン=天の都から再び来られるキリストが、ヤコブ=イスラエルを信仰に立ち戻らせる、パウロはこの希望を持っていた。
−ローマ11:26「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、私が、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶ私の契約である。」
・神の知恵は人間の思いを超える。私たちは誰が救われたとか、救われていないとか言うべきではない。それは神の領分だ。私たちは、ただ神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけでよい。ボンヘッファーは牢獄の中で次のように言った。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給うということを、私は信じる。そのために、すべてのことが働いて益となるように奉仕せしめる人間を、神は必要とし給う。私は、神はいかなる困窮に際しても、われわれが必要とする限りの抵抗力を、われわれに与え給うと信じる・・・私は、神は決して無時間的な運命ではなく、誠実な祈りと責任ある行為とを期待し給い、そしてそれらに答え給うと信じる(ボンヘッファー「抵抗と信従」から)。これを信じて行くのが信仰だ。だから私たちは、どのような絶望の時にあっても、絶望しない
−ローマ11:36「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。