すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  マタイによる福音書  >  2003年5月14日  マタイ22:1−14  婚宴のたとえ
1.招待に応じない人々

・イエスは祭司長たちに婚宴のたとえを語られた。それは婚宴に招待した人たちが「来るという約束を破って来なかった」というたとえである。
―マタイ22:2-3「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」
・当時、婚宴の招待は、最初に招待状が配られ、出席を約束した人に、当日改めて準備が出来たことを案内するのが慣例であった。王は三度も招待客に使いを送ったが、人々は来なかった。
―マタイ22:4-6「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」
・神は人々を祝福してこの世に送り出し、恵みと平安の中に生を送るよう招待されている。それが福音の招きだ。しかし、人々は多忙を理由に来ようとしない。
―ルカ 14:18-20「皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。」

2.新しい招待

・来ない人は神の怒りによって滅ぼされ、代わって、新しい人たちが婚宴に招待された。
―マタイ22:7-9「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」
・新しく招待されたのは、罪びとや娼婦たちであった。
―ルカ 6:20-21「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」
・人は善行を積んで救われるのではない。人間の罪はあまりにも重い。その罪を知り、自分は何の価値もないと悔い改めるときのみ、恵みとしての救いが来る。
―ローマ3:23-24「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
・人が義とされるのは恵みによる。しかし、それは何をしても良いということではない。婚礼の席にはそれにふさわしい礼服を着るべきである(当時の婚宴では礼服は主人から貸与された)。
―マタイ22:11-13「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

3.神の招き

・神はイエスを通して私たちを招かれている。
―マタイ11:27-28「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
・しかし、人々は来ようとしない。自分の力だけで生きることが出来ると考えているからだ。
―マタイ7:13-14「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
・この招きを私たちはもう一度考えるべきだ。何故なら死を前にすれば、すべての人は無力なのだ。私たちは自分の寿命をわずかでも延ばすことさえ出来ないのだ。
―ルカ 9:25「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」
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