1.自分の義を追い求めてつまずいたイスラエル

・ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれていってしまったとパウロは語る。
−ローマ10:2-3「私は彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」
・人が行いを追い求める時、信仰は自己主張になる。他の誰よりも熱心に祈り、戒めを守ったのだから、救われて当然だと考え、行わない人を裁くようになる。それは自分の義であって、神の義ではない。私たちが自分の力で救われるため、天に昇ろうし、あるいは地の底まで降りようと努める時、私たちは傲慢になって救いからもれる。救いはただ、陰府に下られ、天に昇られたキリストを信じることから来る。
−ローマ10:9-10「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」。
・そしてパウロは決定的な言葉を語る。
−ローマ10:13 「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」。

2.良い知らせを伝える者の足は美しい

・主の名を呼び求める者は誰でも救われる。では、その救いはどのようにして為されるのか。宣教する者の言葉を聞くことによってである。パウロは福音を伝える者の役目と光栄をイザヤ書から引用している。
―ローマ10:14-15「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることできよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとりです。」
・「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」、この詩はイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されたことを伝えるメッセンジャ−が、イスラエルを駆け巡る姿を語った故事に由来する。原詩はこうだ。
−イザヤ52:7-8「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを告ぐる者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王になられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目のあたりに見る、主がシオンに帰られるのを。」
・しかし、イエスの福音を宣べ伝える者が、山野を駆け巡り、福音を知らせても、すべてのユダヤ人が、歓呼の声をあげて迎え、聞いて、信じたのではなく、むしろ冷淡だった。
−ローマ10:16-17「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、だれが私たちから聞いたことを信じましたか』と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
・神はイエスを死人の中から甦らせたのみならず、その証人として多くの使徒を各地に派遣された。ペテロはペンテコステの時に会衆に語った。「私たちはイエスの復活の証人だ」と。
−使徒2:32「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」。
・ペテロはユダヤ人の宣教へ、パウロは異邦人の宣教へと向かった。パウロ自身「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」(1:1)との自覚を持って宣教し、その結果「私は、エルサレムからイリリコン州(イタリア半島)まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15:19)と述べている。ユダヤ人の耳にも福音は届いた。彼らも聞いた。パウロは詩編19:5を引用して、福音が全地に響き渡り、世の果てにまで響いていたと語る。ユダヤ人は「聞いていない」と言い訳はできないのだ。
−ローマ10:18「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。」
・なぜ、イスラエルの心に福音が届かなかったのか。パウロは申命記32:21を引用して語る。彼らが主なる神をかえりみず偶像(自己の義)を拝んでいたからだと。
−ローマ10:19「それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、『私は、私の民でない者のことで、あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。」

3.背く者を愛する神

・パウロはイザヤ65:1-2を引用し、神は「尋ねようとしない者たちに対しても、分け隔てなく常に呼びかけておられ、その名を思い返すようにされた」と語る。
−ローマ10:20「イザヤも大胆に、『私は、私を探さなかった者たちに見いだされ、私を尋ねなかった者たちに自分を現した』と言っています。」
・重ね重ねのイスラエルの不従順に対しても、神は救いを約束されているとパウロは繰り返す。
−ローマ10:21「しかし、イスラエルについては、『私は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています。」
・人間の愛は、背いた者は捨てる。しかし、神は背いた者たちのために、御自身を罰せられた。私たちは背いたのに赦された。この十字架の愛に出会った者は、もう前の生活に戻れない。
−汽茱魯3:16「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」。
・私たちは、以前の生活は捨てた。打たれても復讐しない。神が裁いてくださるから。私たちは打った相手のために祈る。その時、罪人が変えられる奇跡を私たちは見る。
−ローマ12:19-20「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
・私たちは救われた。私たちの行為を通して次の人が救われる。信仰の応答としての行為は神の義をもたらす。マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行った。当時、キングはアトランタのエベニーザ教会の牧師だったが、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄され、教会に爆弾が投げ込まれ、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような中で行われた説教だ。
−キングの説教から「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。
・「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というイエスの言葉を、カール・マルクスは愚かな言葉だと語った。マルクスは語る「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は殴打暴行に対して、訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。
・マルクスにとって、イエスの教えは愚かな、弱い人間の教えに映った。彼は「殴られたら殴り返すことが正義である」と信じ、その正義が貫かれる社会を作ろうとした。彼の弟子であるレーニンやスターリンはマルクスの意志を継いで、理想社会としての共産主義国家を作ろうとしたが、それは化け物のような社会になってしまった。何故なら、殴られたら殴り返すことが正義である社会においては、仲間以外は敵であり、敵とは何をするか解らない、信用の出来ない存在になる。人間がお互いを信じることができない社会においては、人間は幸福になることができないのだ。人の義を追い求める者は失敗する。だから私たちは「神の義」を追い求めるのだ。