すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

トップ  >  ローマ人への手紙  >  2018年1月10日祈祷会(ロ−マの信徒への手紙7:13-25、私の中に住む罪)


1.私の中に住む罪

・パウロはローマ7章前半で、「律法を知らなかった時は、罪に対して何の意識もなく生きていた。しかし律法を知った今は、自分のうちにある罪を意識するようになり、自分が死ぬしかないと知った」と語る。
−ロ−マ7:9-11「私は、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場した時、罪が生き返って、私は死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。罪は掟によって機会を得、私を欺き、そして、掟によって私を殺してしまったのです。」
・「命をもたらすはずの律法が、なぜ死を招くことになるのか」、その矛盾を解明しなければならない。パウロは「善なるものに隠れていた罪が、その正体を現した」と語る。
―ローマ7:13「それでは、善いものが私にとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです。このようにして、罪は邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」
・死をもたらすのは罪である。罪は律法を隠れ蓑として、私に死をもたらした。
―ローマ7:14-15「私たちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」
・「私は、自分のしていることを肯定できない。なぜなら、私は自分の望むことを行わず、かえって自分が嫌悪することを行っている」とパウロは自分の真実の姿に愕然とした。
−ローマ7:16-18「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めていることになります。そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。
私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」
・善をなそうという意志があっても、肉体は人間の欲望に負けてしまう。
―ローマ7:19-21「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。」
・「善をなしたいと願っても善を行えず、願ってもいない悪を行っている。そうさせているのは、私の肉に巣食う罪だ。罪が私を動かしている」とパウロは嘆く。
―ローマ7:22-24「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるのでしょうか。」
・しかし「キリストがその罪の縄目にいた自分を救って下さった」とパウロは感謝する。
―ローマ7:25「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、内では罪の法則に仕えているのです。」

2.信仰によって気付かされた惨めさ

・パウロは「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう」(7:24)と叫んだ。パウロ自身が自らを本当に惨めな人間と感じている。彼はこの惨めさを、信仰をもつ前には気付かなかったと語る。
-ローマ7:13b「罪がその正体を現す前に、善いものを通して私に死をもたらしたのです。」
・パウロは「内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則のとりこにしている」(ローマ7:21-24)と語る。この文章を日本語聖書で読むと、難解だが、英訳聖書では「律法も法則もすべてLaw」と訳し、わかりやすい。
-ローマ7:21-24(英文)「My inner being delights in the law of God. But I see a different law at work in my body-a law that fights against the law which my mind approves of. It makes me a prisoner to the law of sin which is at work in my body. What an unhappy man I am! Who will rescue me from this body that is taking me to death?」
・ここには三つの法が描かれている。一つめは神がこうせよと命じている「神の律法」である(the law of God)。二つめはそれを喜んで受け、それを実行したいと願う「心の律法」である(my inner being)。そして三つめは「肉体の律法」である(my body-a law)。この肉の欲望でうごく罪の律法こそが人を苦しめている。
・私たちは肉体をもって生きている。肉が求めるのは生存本能に基づく欲求だ。食べる物がなく、このままでは死ぬしかない状況下で、肉は「他人のパンを奪っても食べよ」と求め、「貪るな」という霊の欲求は本能の前に死ぬ。「殺すな」という律法を知る者は、戦場で自分を殺そうとする敵と遭遇した時、彼を殺して苦悶する。敵を殺さない限り肉は生存しえないからだ。愛もそうだ。私たちが「誰かを愛する」とはその人を貪ること、その人から見返りを求めることだ。しかし、「愛するとはその人のために死ぬことだ」という律法を与えられた時、私たちは人を愛せないことを知る。

3.「内なる人」と「外なる人」

・パウロは、7:25後半で「私自身は心では神の法則仕えていますが、肉では罪の法則に仕えている」と心と肉の分裂を語っている。また22-23節では、「内なる人」と五体の分裂を語る。信仰者は心と肉の矛盾と葛藤を抱えている。信仰者として神と共に生きていても、一方では肉の人として、様々な悩み、苦しみ、罪の法則の中で生きている。しかしパウロは絶望しなかった。
―競灰螢鵐4:16「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされます。」
・パウロの律法理解は彼自身の体験から導き出されている。パウロはパリサイ派に属し、律法に熱心な人だった。律法への熱心がパウロに、律法を軽視するキリスト教徒の迫害に走らせ、キリスト教徒を捕縛するためにダマスコに向かう途中で、突然の回心を経験する。律法に熱心な者として戒めの一点一画までも守ろうとした時、彼が見出したのは、「律法を守ることの出来ない自分」、「神の前に罪を指摘される自分」だった。
・キリストを信じて平和を見出す前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていた。罪にとらえられているという意識、その結果神の怒りの下にあることの恐れが、パウロを苦しめた。しかし、復活のイエスとの出会いで、パウロの思いは一撃の下に葬り去られた。パウロを待っていたのはキリストの赦しだった。彼はキリストの迫害者からキリストの伝道者に変えられていく。この体験がローマ7章の背景にある。
・宗教改革者マルティン・ルターもパウロと同じ経験をしている。彼は、若い時には、厳格な修道院生活を送っていた。沈黙を守り、毎日を労働と祈りで過ごしていた。聖堂内部では厳しい監督と統制のもとで告悔が進められ、罪についての話し合いが行われ、修道士たちは床にひれ伏し、悔い改めた。しかし、ルターには平安は与えられず、彼は激しい罪意識を抱くようになる。彼にとって神は、怒りに満ちた、裁きの神だった。
・そのルターに、突然、光が与えられる。大学の塔の中の図書室で示されたゆえに、「塔の体験」と呼ばれているが、その不思議な体験を通して、彼は「人間は苦行や努力による善行によってではなく、ただ信仰によってのみ救われる。人間を義とするのは神の恵みである」という理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。パウロと同じように、律法や行いを通して救いを求めた時、神は怒りの神、裁きの神として立ちふさがったが、すべてを放棄して神の名を呼び求めた時、世を救おうとされる「恵みの神」に出会った。この新しい光のもとで聖書を読み直したルターの福音理解が、宗教改革を導いていった。
・パウロとルターの経験が教えることは、生まれながらの人は自分の限界を知らず、自分の力で何でも出来ると思う故に、その人に砕きが与えられるという事実だ。ある人には、失業や事業の失敗という形で、別の人には病気や近親者の死という形で、あるいは夫婦や親子の不和が与えられる人もある。そのような限界状況、あるいは不条理の中に置かれて、人は初めて自分の限界を知り、自分を超えた者の名を呼び、呼ぶゆえに神に出会い、平安を与えられる。他方、私たちがこの苦しみや怒りを他者にぶつけた時、「むしゃくしゃしていた、人を殺したかった。誰でもよかった」と言う行為にさえなる。この怒りを人ではなく神に向けるべきだとパウロやルターは教える。「神がこの不条理を与えられた、何故私をこんなに苦しめるのか」と怒りをぶつけた時に、初めて人は愛の神に出会う。
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